第10話 五年生のバレンタイン

 二月十四日。

 バレンタインの日。

 私は震える手でチョコの入った赤い箱を胸に抱いて、檜山と向き合っていた。


 檜山にチョコを上げるべきじゃない。

 かなえにも、由美子にも、凛花にも、大葉たちにまで反対されていたのに、どうして押し通してしまったのだろう。

 自分でもよくわからない。


 みんなの言う通り、きっといい結果にはならないって頭ではちゃんと理解していた。

 傷つくことになるとわかっていたはずなのに。

 心の中で嫌だやめたいって叫んで逃げ出したいくらいだったのに。

 私の身体はあらかじめプログラミングされた機械人形のように、この道を進むこと以外の選択肢を持ち合わせていないようだった。

 気がつくとランドセルを片方の肩に引っ掛けて教室を出ようとしていた檜山を呼び止め、ピンクのリボンで可愛く飾った赤い箱を差し出していたんだ。


「あのっ。これ、かなえたちとみんなで作ったんだ。檜山にあげる」


 どうしてこんなことをしているんだろう。

 私は私の身体から魂が半分くらい抜け出したような現実感のない状態で、自分のすることを眺めていた。

 まるで全身わたあめを纏っているみたいに、私と身体感覚とが遠い。


「なんで」


 檜山の掠れた声を、じーんと遠くなった耳が拾う。


「なんでって、バレンタインだから。ほら。私たち、なんか色々あったじゃん? だから、仲直りのきっかけにできたら、いいなって思って」


 全て言い終わる前に 私の後ろ……窓際の席で群れていた男子たちの声が上がった。

 目立ってイケメンだけど天然な高木とは違い、同じ目立つでもクラスの端でつるんでいるちょっと怖い感じの一群だ。


「ひゅー、モテモテじゃん檜山クーン。うらやまし〜い」

「吉永さん、俺らにはないの?」

「あ、俺にも、俺にも」


 どうしようと考える間もないうちに、ばちんと音がして手に痛みが走り我に返った。

 リボンの乱れた赤い箱が教室の床に転がっている。

 檜山の黒ずんだ上履きのつま先が箱の中央を踏みつけ、箱は二枚貝が開くように歪んだ口を開けた。

 教室に私を迎えにきた凛花が、廊下でひゃあっと息と声の間のような悲鳴をあげる。

 それから「なっ、な……」と言葉を詰まらせる。

 帰り支度をして百瀬の席まで来ていた大葉が、檜山の腕を掴んだ。


「ちょ、ちょちょ、檜山。ちょっと待った」


 そのまま教室の外の方へと引っ張り、箱から足を退けようとする。

 しかし、扉を掴み踏ん張った檜山の足先はガリガリと音を立てて箱を引きずり、いっそう強く踏み躙った。

 床になすりつけられた箱は、ぎゅっ、ぎゅっと、檜山の足を中心に左右に揺れる。


「調子に乗んな。ブス! マジ昔っからきもいんだよ。目障り、消えろ」


 ぼんやりとした感覚の中で一言一句をはっきり拾い、スポンジで吸い取るように綺麗に内側に吸い込んで胸の内で燻らせる。

 この憎しみを、私は前から知っていた。

 私はこれまでもずっと誰かから消えてほしいと願われてきたんだという確信に貫かれる。

 窓際の男子たちが一斉に非難の声を上げる。


「うーわっ、ひっどいこと言うわぁ」

「引く〜ぅ」

「吉永さんかわいそ」


 誰かの拍子をつけて裏返った声にドッと笑い声があがった。

 なんで笑ってるの? 言い方が面白かったから?

 でも今、私何もおかしくなんかない。

 あの人たちは、誰を、何を、笑ってるの?

 私は今こんなに酷い目にあっているのに。

 檜山は私を睨みつけながらも涙を堪え、苦しい表情を浮かべているのに。


 彼らにとっちゃ私も、檜山も、大葉も、まるでテレビの中の登場人物みたいに遠いのかもしれない。

 男子たちの一人が大葉に声をかける。


「大葉。檜山はそーいうことやっちゃうやつなの。真面目に関わっちゃヤバいんだって」

「あいつは女の敵よ〜」


 口々に声が上がり、再びアハハと笑う声が聞こえる。

 大葉はそれには応えず、扉を掴み抵抗する檜山に声をかけつづける。


「いいから檜山、行こう」


 高木が扉を握り抵抗する檜山の手首を掴んだ。

 ひとつひとつ指を引き剥がしながら、高木は百瀬をからかうときのような楽しげな口調でさらりと残酷なことを口にする。


「吉永さんよりお前が消えたほうがいいんじゃない? 見てみなよ。誰も檜山を望んでないの、わかるだろ?」

「おい、さとし!」


 高木は大葉に嗜められても動じず、口の端を上げて笑っている。

 柚希がママには内緒と言って耳打ちした後に浮かべるのと似た、暗い笑みだ。

 手の離れた檜山をどんと廊下へ押し出して手を振る。

 

「バイバイ、檜山」

 

 バランスを崩し尻餅をついた檜山を大葉が支え起こし、そのまま教室から遠ざけていく。

 どこへいくんだろう。

 二人だけで大丈夫だろうか。

 姿を目で追っていると、百瀬が床に転がった赤い箱を拾い上げ、手で汚れを払ってくれていた。

 それから、出入り口に立つ高木を睨みつける。


「酷いこと言うなよ。お前の言うようなことなんか望んでないから。少なくとも俺は」

「アレ、ももちゃんが庇う価値ある?」


 扉から外を見る高木の後ろ姿は、アレと顎で檜山の行先を指すように動いた。

 まるでモノを扱うように、冷たく。


「価値があるとかないとか、そういうんじゃないだろ。人は」


 百瀬が呆れてため息をつくと、高木は幼児のように拗ねて唇を尖らせた。


「……そっか。いつだってやさしい南朋の味方だもんね。ももちゃんは」

「は? なんだそれ」


 潰れた箱を手にした百瀬が振り返り、ばっちり目が合った。

 私の顔を見た彼は、気まずそうに視線を落とす。

 彼の手の中にある潰れた箱は、四人でチョコレート作りをした楽しい時間を思い起こさせた。

 ラッピング、リボンの形が綺麗にいかなくて、凛花がかわりに結んでくれたんだよね、なんて思うと勝手に涙が湧き上がってくる。

 大事な思い出ごとみんな、ぐちゃぐちゃにつぶされたような虚しさが膨らんで、溢れて。

 ……泣きたくないのに。

 女は泣いてずるいなんて言う人の前でなんか、絶対。

 百瀬はボロボロ涙を落とす私を見まいとするように俯いたまま、黙って机に赤い箱を置いた。


 それと同時に、かなえと由美子と一緒にハマセンが息を切らせながら後ろ扉から教室に入ってきた。

 いつの間に呼びに行ってたんだろう。


「どうした、何があった」


 さっきまで菜園にいたらしい。

 ジャージのウエストに土のついた軍手を挟んだハマセンが、キョロキョロ教室中を見回している。

 私は顔をあげ机の上の赤い箱をさっと中に隠した。


「おっせーわ。ハマセン」

「檜山がまた吉永にブチ切れてた」

「大葉が教室の外に連れ出したけど……あいつ、どこに行った?」


 ハマセンが来たのと反対の方、などとみんな口々に報告する。

 由美子がそっと私の腕に手を添えた。


「杏ちゃん……大丈夫?」

「あーあ。酷いことになったね。あいつ、マジ救いようがないわ」


 凛花が呆れた声を上げると、続けてかなえが憤慨した。


「杏があんなに丁寧に仕上げたチョコを……許せない。あんなの絶対許さなくていいよ」


 ハマセンはみんなの証言を頼りに、檜山を探しに教室を出て行った。

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