第9話 最高のサンドバッグ
「さっきは話がそれちゃったけど、バレンタインの件。マジで檜山はやめときな?」
「う〜ん」
考えたくもない件が浮上し言葉を濁す。
言い淀んでいると凛花は怒りをあらわにした。
「だいたい杏は被害者じゃん。なんで下手に出なきゃいけないんさ。こっちから仲直りしようとする意味がわからんよ。うちだったら絶対パパが檜山んちに乗り込んでる」
「……うちのパパは何も知らないと思うな。知られてもやだし」
確かに凛花んちのパパだったら黙ってないだろうな。
子煩悩っていうか……行事の参加とか色々積極的だから。
スカートの件なんてママは絶対パパには話さない。
これまでも何かあるたびに檜山さんが謝りに来たけれど、パパと話している姿を見たことはない。
時間が合わないのもあるけど、ママがパパの耳に話を入れている感じがないのだ。
そもそも知ったところで、パパは子どものトラブルに自分が表立って対処しようなんて考えは持っていない気がする。
子どものことや家のことは、みんなママの仕事ってことになってるから。
凛花は、はぁ〜とため息をつき、まったく納得できないといった様子で腕を組む。
私は慌てて家で話したときにママや柚希が言っていたことを口にした。
「ママが言うには、年頃の男の子ってみんなそんなものなんだって。だから受け止めてあげてって」
凛花は歩道橋を駆け上がって私の正面に立ち塞がった。
さっきよりもさらに盛大なため息、というより非難の声を上げる。
「はあああ?? 知らんし。あんなことされて、なんでこっちから面倒見にいかなきゃいけないの? ってかうちらの問題? 違うよねぇ」
「う、うん?」
勢いに気押されてよくわからないまま頷いてしまう。
「百瀬は男子ってだけで悪者にされるとか言ってたけどさぁ、そんなの不平等な大人に言ってほしい。別に男子たちに我慢させてるの女子じゃなくない?」
確かに凛花の言う通りだ。
そもそも檜山の方からやってきたのだ。
私はやめてと抗議しただけで彼に何もしていない。
される理由も言われてない。
なのにスカートを下ろされて、過呼吸になって苦しんで、家ではうまくやれなかったことを責められて、こっちから歩み寄るべきだと言われてる。
しかもおそらく檜山には女はずるいと恨まれてて……踏んだり蹴ったりだ。
「そう……だよね。私、悪くないよね」
「当たり前じゃん! あんなことばっかするから檜山はみんなにバカにされてるんだし。男子連中にも相手にされてない。あいつは悪者にされてんじゃなくて悪いことしてんの。そんなんで女子を逆恨みしたって通用しないよ。なのにさ」
やっと、やっと受け取りたかった言葉を聞いた気がして、暗がりに浮かぶ凛花の白い頬を見つめる。
凛花は話を区切り、私を上から下まで舐めるように見た。
それから、はあっとあからさまにため息をつく。
「な、なに?」
「だーから杏には偉そうにするんだろーなー。そうやって自分が至らないのかって思ってくれるから。あーあ。あんなのうちのパパがガツンとやったら一発でペコペコすんのに。檜山は家でがっつりやられたこともないんじゃないの? 一組のハマセンは男だけど、怒っても全然怖くないし。って言うか女だけどうちの担任のが百倍怖い」
確かにハマセンは物腰柔らかくて話しやすいけどなんとなく頼りない。
それに檜山の家もうちと同じで、子供の問題に父親が出てくるイメージがまるでなかった。
彼が父親に叱られたことがないかどうかは知らない。
ただ男がガツンとやればすむというのはあまりに短絡的じゃないだろうか。
怖い、怖くないの問題だろうか。
凛花は当然のように言い切るけれど、私には今ひとつピンとこない。
「ガツンとやっても怒りがつのるだけじゃない? 余計に当たられそうだよ。……なんでそれが私に向くのかわかんないけど」
「えーっ、わかんないの? だって機嫌取ってくれるじゃーん。当たり散らせば自分が悪いかもって思ってくれて、お詫びにチョコとかくれちゃうんだよ? 偉そうにもできて、地に落ちた自分をあげてくれる。あんた、最っ高の
なんだかすごくバカにされているような気がして唇を尖らせる
「サンドバッグ……って。ひどくない?」
「事実じゃん。そんな便利なの私だって欲しいよ」
「欲しいんかい!」
あまりの正直さに思わず秒で突っ込んでしまった。
サンドバッグが欲しいなんて恐ろしい欲望を吐いた凛花は、遠い目をして線路を見下ろしうっとりと頬を赤らめる。
「はぁ〜、いいな。サンドバッグ。いじり倒して泣かして、泣いたらずるいって責めたてて、それでも真に受けてくれる。おぎゃーって当たり散らせば必死でご機嫌とってくれて、甘やかしてくれてぇ……超いいじゃん」
凛花はすっかり自分の世界に入ってぶつぶつつぶやきだした。
それが私の姿だというのだろうか。
いいなって、全然よくない。
完全に自分の世界に入っている凛花は、ウヘヘと唇の端をだらしなく緩めて笑い出す。
「ちょっと、どうした凛花。よだれ垂れそうだよ??」
凛花には時々こんなふうに周りが見えない状態になることがある。
だいたいが私と二人の帰り道でのことだけど、こういう姿は、わけわかんなくてちょっと怖い。
しばらくうっとりと宙を見ていた凛花は、唐突に叫んでガッツポーズをした。
「やだ……ちょ〜超甘美! 最高! 美味しすぎ!!」
「ひっ」
幸い快速電車が通過して声はそれほど響かなかったが、すれ違う人がギョッとしてこちらを見た。
私もびっくりだ。
さらにぶつぶつつぶやく凛花のランドセルを揺する。
「凛花、もー、一人の世界へ行かないで、帰ってきて。凛花ってばぁ」
「うっさいなあ。今、いいイメージが来てんの。……ねーねー。ももちゃんってさ、王子にいじられて喜んでるって思ったことない?」
「えっ、ないよ。全力でウザがってる」
頭に、限界まで眉を寄せてとんでもなくいやーな顔をして見せる百瀬の姿が浮かんだ。
ちょっかいを出されてブチ切れる前の百瀬の顔はだいたいいつもこう、雷が鳴る前の雲みたいなぴりぴりした感じだ。
「その仕草がもうほとんど誘い受け……ってわかんないか。杏には」
「何? 誘い??」
くるりと一回転して、凛花は一気に歩道橋を駆け抜けた。
叫びながら追いかける。
「ちょっと待ってよ。誘い受けってどういう意味〜?」
「ぎゃー、恥ずかしいこと叫ぶな!! 知らない、絶対教えな〜い」
歩道橋の反対側から上がってくる女子高生が私たちの姿を見てクスクス笑う。
頭の中をはてなでいっぱいにしながら、階段を駆け下りる凛花の後を一段飛ばしで追いかけた。
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