第7話 私のためには戦えない
檜山さんが帰るとすぐに夕飯になった。
タオルを肩にかけた風呂上がりの柚希が私の隣に座る。
パパは今日も遅いのだろうか。
檜山さんの行ってしまった玄関へと続く廊下の方をじっと見つめる。
受け止める強さのない、すぐに過呼吸なんかになってしまう弱い私がダメなんだろうか。
ママみたいに人を受け止めてあげる力が私にあれば、こんなことにはならなかったんだろうか。
つやつや光るエビチリを見つめながら呟く。
「……私が弱いのが、いけないのかな」
保健室では傷付いて当たり前だと言ってくれたママは、それと同じ口で檜山さんに
ママは困ったように眉を寄せた。
「いけなくはないわ。……ただ、男の子って、そういうものなのよ。優くんは、それだけ杏に心を許してるんじゃないのかな」
「心許してもらっても、嬉しくない。あんなやつになんか」
唇を噛んで泣くのを堪えていると、柚希が口をくちゃくちゃさせながら割り込んだ。
「杏ちゃんちょっとひどくない? プールの子でしょ。嬉しげにバレンタインチョコあげてた子じゃないの」
そんなの遥か昔。
幼稚園の頃のことだよ。
まだ何にもわかってなかった頃に、ママに言われるがまま準備しただけ。
柚希の口撃は続く。
「杏ちゃんだって知らないうちにいっぱい人を傷つけてるよ。自分だってこれまで人を傷つけて、許してもらってきたんだって考えてみたことある?」
柚希の主張は、まるで自分が傷つけられた張本人であると言っているかのようだ。
ママは柚希からの非難を否定も肯定もしないまま、自分の意見をぶつけくる。
「長い付き合いで見えなくなっちゃってるのかもしれないけど、優くんにもいいところがいっぱいあるのよ」
「いじわるしてくる奴のいいとこなんか、見つかんないよ」
そもそもスイミングで仲良かったのは待合室で一緒だったママたちであって、私たちじゃない。
運動音痴な檜山とは同じコースだった記憶がないし、それに私は小学校に入る前にスイミングを辞めてる。
同じコースにいる子とすら、ずっと泳いでいるからほとんど話す暇もなかったのに。
付き合いなんて最初から存在しないのだ。
卵スープを飲み下していた柚希が指摘する。
「そうやって杏ちゃんが悪者だと決めつけてるから、いじわるされるんじゃないの? 何の理由もなくいじわるなんかしないよ。聞いてみれば」
「柚ちゃん」
畳み掛けるように責め立てる柚希にママがストップをかける。
私のせいなの? 私が檜山にいじわるさせてる?
もう一度スープカップに口をつけようとしていた柚希が、何か閃いたといった様子でカップを置いた。
「そうだ、バレンタインだ。それで仲直りしなよ」
「は?」
「ほら、そういう態度が人を傷つけてるんだってば。チョコがあればこっちは悪意がないですよって意思表示しやすいし、話すきっかけにもなるし。ねぇ、ママ。名案だよね?」
ほんとうに、まったく意味がわからない。
そう思っただけなのに、柚希の指摘が胸にグサっと刺さる。
私は鈍感なのだろうか。知らず人を傷つけてきたのだろうか。
落ち込んでいる私に気づかず、ママは柚希に賛同する。
「そうね。そうすれば、杏。今年も由美子ちゃんちでチョコ作るんでしょう?」
幼稚園の頃はママ達も一緒だったチョコ作りも、次第についているのは由美子のママだけになり、ついに今年は完全に子どもだけで台所を貸し切っていいことになっていた。
楽しみにしていた恒例行事が、一気に色を失っていく。
「嫌だ。なんで私から仲直りなんか……」
「どっちからでもいいじゃん。プライド高。もういじわるしないでもらいたいんでしょ? どうしてそんなに嫌がるの」
ママも柚希も無神経だ。
どうしてって、私は傷付いているからだよ。
そばによるだけでゾッとするくらい、檜山のことが怖いからだよ。
いじわるされるってそういうことじゃないの?
保健室に迎えにきてくれたママに「傷付いて当たり前」と受け止めてもらえたあの安堵感は、もはや全く意味のないものになっていた。
やっぱり、期待しなくて良かった。
傷付いてしまうところだった。
良かったなんて言い聞かせながら、本当はもうとっくに傷ついていることを知っている。
でもその傷はこの人たちには通じない。
私は心を固く閉じて言い訳を探した。
「迷惑だよ。檜山は私のこと好きじゃないし。喜ばない」
「そんなことないんじゃない? ママも言ってたじゃん。心を許してるからいじわるするんだって」
柚希の言葉にぞっとする。
ぜったいダメ。なおさら誤解を深めるだけじゃないか。
柚希はママには聞かせないよう私の耳元に口を当てて囁いた。
「……私の
だから、もしもパパが歩み寄っていたら家族は今の形になっていなかったのにって、柚希はそう信じてる?
柚希は普段、私のママ、つまり
わざわざ母親という言葉を選ぶ時は決まって、柚希の生みの親のことを指すのだ。
柚希ももう中学生だ。
実の母親について知る権利があるのだと思う。
だとしても、おばあちゃんはどうしてそんなことを子どもに話してしまうのだろう。
顔も知らない柚希の母親がパパに「いじわるをする」姿を想像してしまい、不愉快になる。
二人の姿をクレヨンで真っ黒に塗りつぶしたくなるような、ひどい気持ちに。
それは私がママの娘だからなのだろうか。
いくら柚希の母親だと思ったって、パパが他の女の人とだなんて……気持ち悪い。
固まっている私の隣で、柚希は大きな声で続ける。
「あんまり人の気持ちを蔑ろにしないほうがいいよ。理由も聞こうとしないなんて、無視じゃん。何されてもしょうがないんじゃない?」
「何されてもいいなんてことはないわ。悪いことは、悪いことよ」
ママが柚希を嗜める。
柚希の母親がどうしてパパと別れたのか私は何も知らない。
ただ、二人は正式に結婚していた。
なのに柚希が一歳にもならないうちに
そして今ではパパとママが夫婦になっている。
柚希の言葉は暗に、ママは柚希の母親に何をされても仕方がないんだと言っているようにも聞こえた。
人を蔑ろにした。悪いのはお前だと。
柚希にとって、きっと気持ち悪いのはママの方なんだ。
現に柚希はママに愛を求めながらも憎んでいる。
そしてママは必死でそれに気がつかないふりをして見える。
「でも柚ちゃんの言うとおり。ちゃんと話し合った方がいいんじゃない。チョコが仲直りのきっかけになるといいけど」
ママはのんきに微笑んだ。
柚希の理屈は間違ってる。
いじわるされる責任など、私にあるはずがない。
でも知らないうちに憎まれて何かされるのは怖かった。
もしかしたらと思ってしまうのだ。
柚希の言うとおり、気付かぬうちに傷つけているのは私の方じゃないかと。
私は黙って頷いて、檜山にチョコをあげることを了承したんだ。
*
「吉永……ねぇ、ちょっと、吉永さん?」
後ろの席から百瀬が呼びかける。
さっきから肩甲骨に刺さっているのは束になったノートだった。
「社会のノート回収してるよ。重ねて先生に渡して……って大丈夫? 酷い顔色」
百瀬が身を乗り出して私の顔を覗き込んだ。
長いまつ毛に囲まれた丸い目に覗き込まれて、不意に目を逸らしてしまう。
前々から思っているけど、百瀬は人との距離感がバグっている。
気づいてくれて嬉しいと思うと同時に、女子は気楽でいいよと口を尖らせた姿を思い浮かべてしまい、そっと身を引く。
ママと同じ。期待しちゃダメだ。
「何でもない。大丈夫。気にしないで。ありがとう」
甘えていると思われたくなくて、無理やり笑って見せる。
女はずるいと思っていると知ったら、弱みを見せるわけにはいかないじゃないか。
ノートを受け取り、さっさと前へ向き直る。
心の中に何を笑ってんだと毒付く私がいた。
言いたいことを言わず、ヘラヘラ機嫌とって、まったくお前はなんなんだと。
かなえのように思ったことをぶつける勇気のない自分を、自分で心底嫌だと思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます