第6話 心を許してはいけない

 先生が映したホワイトボードの日本地図を見ながら、ぼんやりとあの後起きたことを思い浮かべていた。

 過呼吸を起こして早退したほんの数日前の、あの日の、その後を。





 保健室まで様子を見にきてくれた担任の濵田ことハマセンには、大事なことはほとんどなにも話せなかった。

 忘れたい。

 男の人との間であんなこと、話題になんかしたくない。

 でもハマセンも先生だから、みんなに聞いて大体のことはすでに承知だったんだと思う。


「檜山さんとは放課後話をします。吉永さんにしたことは絶対に許されることじゃないからね」


 消耗しきった身体をベッドに横たえていると、保健室の扉が開いた。

 カーテンの向こうで話しているのはママの声だ。

 迎えを呼ばなくても大丈夫だって言ったのに、先生が職場に連絡したんだ。


「ママ、なんで?」


 カーテンから顔を覗かせたママは、背中を起こした私を抱きしめてくれた。


「聞いたわ。辛かったわね」


 ブラウスから、かすかに香水と汗の混じった甘やかな匂いがする。

 強張っていた身体の力が抜けていく。

 私はいけない、弱くなってしまうと直感し、ママを押し除け、ベッドサイドに足を垂らした。


「大袈裟だよ。呼ばなくていいって言ったのに。怪我したわけでもなんでもないんだから」


 きっと柚希がいたら言われただろう言葉が、私の口から飛び出した。

 ママを呼びつけたなんて、柚希に知られたらどう思われるか。

 どんな嫌味を言われるか。


 私のために駆けつけてくれたことが嬉しいという気持ちと、ママを困らせて申し訳ないと言う罪悪感とがないまぜになって、それからなぜか悲しくなる。


「……何でもなくなんかない。傷付いて当たり前だわ」


 優しい言葉に心を許しそうになるけれど、ガードを解いちゃいけない。

 たしかにママの言葉は全て本心から出たものにちがいない。

 だけど、ママは必ず私を裏切る。なんの矛盾もなく裏切るんだ。

 私はそれを知っている。

 ハマセンではなく女の保健室の先生が声をかけた。


「吉永さん、このまま早退する? お家の人も迎えにきてくれたし」

「いえ、教室に戻ります」

「無理しなくていいのよ」


 教室に戻ることを考えたら、呼吸が苦しくなる。

 扉を開いた瞬間に教室中に満ちるだろう好奇の視線。

 長すぎる前髪の下に隠れた檜山の暗い笑み。

 それでもベッドから立ち上がるとクラクラした。

 たしかに身体はどこも傷付いてはいない。

 けれど私の身体は、心は、まるで毟られ泥水に投げ入れられたスポンジみたいにボロボロだった。

 

「杏。どうしたの。気持ち悪い? 吐きそう?」


 ママが私の背中を優しくさする。

 あったかい。

 うずくまったままでいると、先生が医療品の入ったワゴンからビニール袋を持ってきて、口に当ててくれた。

 過呼吸だった。


「無理せず、今日は帰りなさい」

「うう」


 呻き声が漏れ、目頭から涙がポロリと落ちる。

 苦しい、苦しい、息ができない。

 ……くやしい。



 夜、檜山の母親が菓子折りを持って謝罪に来た。

 早退し、すでにパジャマ姿だった私は、リビングの扉からそっと玄関を覗き見る。

 檜山の母はベージュのコートを腕にかけ、黒のタックパンツにパンプスを履いていた。

 いかにも、取るものもとりあえず職場からそのまま走ってきましたといった様子だった。

 檜山は一緒じゃなかった。

 きっと彼は自分の母親がここにきていることを知らない。


「ほんとうに、もうしわけありませんでしたっ。うちの息子がとんでもないことを……」


 深々と頭を下げる檜山さんにママは、と言った。

 ほらやっぱり。ママは裏切る。なんの矛盾もなく私を売る。

 私は一言もいいなんて言ってないのに、勝手に相手を許してしまう。

 なんの権利があって、そんなことをするのか。

 怒りと同時に失望が胸で渦巻く。


「絵梨奈さんにも、杏ちゃんにもスイミングの時からずっと良くしてもらってきたはずなのに、ゆうはどうして傷つけるようなことばっかり……自分の息子なのに、もう、優のことが、わからなくて」


 声が湿り気を帯び、震え出す。

 ママには泣いている人を責めることなんてできない。

 わかっている。


「言葉じゃうまく言えなかったんだよ。男の子だし。でも、きっと何か理由があったんだと思う」

「理由なんて、そんなのどうでもいいです。あんなことして。うちのは……ちょっと、おかしいんだわ」


 最後は嗚咽に変わる。

 これまでも何度も同じようなことがあった。

 檜山には、物を取り上げられたり、隠されたり、意地悪な事をいっぱいされてきた。

 嫌がらせなんだ。ママだって知ってるのに。

 何か理由があったなんて、まるで私に原因があるみたい。

 ママは私の味方をしてくれない。

 本当は私を信じてない。

 守ってくれない。


 檜山の母親はママが怒れないのを知っていて、許されるために、慰めを求めにきているだけだよ。

 自分の息子の前では話せないことを話したい。

 誰かに聞いて受け止めてもらいたい。

 だから本人を連れてこない。

 当人たちを抜きにした形だけの謝罪。

 これは私のためのものじゃない。

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