第3話 ここはとても安全な場所

 ママの車の後部座席に並んで座ると、おねえちゃんはシートベルトを引き伸ばして身を寄せ、私に耳打ちした。


「さっきの話はほんとだよ」

「さっき?」

「毒リンゴ。私に何かあったらママにやられたってことだから」


 返事をしないのはせめてもの抵抗だった。

 なにがおかしいのか、おねえちゃんの顔の上のみみずがモゾモゾする。


「いいなあ、杏ちゃんはそんな心配しなくてよくて」


 あからさまに大きな声を出すおねえちゃんの言葉を拾って、運転席でシートベルトを締めていたママが話に入ってくる。


「なあに? 心配事って?」

「学校だよぉ。いいなあ幼稚園児は、宿題もないしお気楽で。簡単なことでもすぐ褒めてもらえるし」


 ママは、サイドブレーキを確認して後部座席を振り返った。


「柚希は絵本読むの上手だって、おじいちゃんが褒めてくれてたじゃない」

「でもさ、杏ちゃんの折り紙の方がもっと褒められてた。私だってツルくらい幼稚園の頃から折れてたよ? おばあちゃんもそう。私ばっかり怒って、いっつも杏ちゃんの味方するんだよ」


 車を出した途端に、おじいちゃんとおばあちゃんへの不満が飛び出す。

 違うよ、違うよ、嘘ばっかり。


 不満の本当の矛先は私だった。

 おねえちゃんは私が気に入らない。

 でもそう言うわけには行かないから、周囲の大人たちを悪くいってるだけ。

 嘘つき、嘘つきと暴れ回る怒りでいっぱいになった身体をどうすることもできなくて、私はぎゅっと目をつぶり、寝てしまったふりをする。


「大丈夫。みんな柚希が頑張ってること、ちゃんと見てくれてるよ」


 うっすら目を開けた隙間からママの手がおねえちゃんの頬へ伸びていくのが見える。

 ママは誰よりもおねえちゃんに優しい。

 いつだって一番の味方になってあげているように、私からは見えている。

 ママが優しくするのは、ただほんとうに優しい人だからだよ。

 おねえちゃんの母親を殺したからだなんて、絶対にそんなことあるはずがない。

 

「ねぇママ。バレンタインが来たら、杏ちゃんはまたお友達の家に行ってチョコを作ってくるでしょう? あれ、おじいちゃんにはあげないで」


 私が幼稚園に入ってできた友達の由美ちゃんの家でチョコを作るようになって、今年で三回目だ。

 可愛くラッピングをしてメッセージを添え、それぞれ家族や友達にプレゼントしてきた。

 去年、私は家族の他にはおじいちゃんと、スイミングが一緒の檜山くんにもあげた。

 ママがそうしようよって言ったからだ。

 男の子にもあげるって言ったら、一緒に作った凛花にからかわれたっけ。


 プレゼントするとおじいちゃんは喜んでくれたけど、檜山はほとんど無視するみたいにして自分のママに渡してしまい、礼も言わなかった。

 単に待合室でママ同士が仲良くなっただけで私は檜山と口も聞いたことがなかったから、きっとびっくりしたんだと思う。

 檜山のママは大げさなくらい褒めてくれて、ぶっきらぼうな息子の代わりに何度もお礼を言ってくれた。

 

「由美ちゃんのママがお姉ちゃんも一緒に作りにおいでって、誘ってくれてたよ。二人で作ってパパとおじいちゃんにプレゼントする?」

「行かない。幼稚園児ばっかなんでしょ。つまんないもん。絶対」

「じゃあ、学校のお友達呼んできて、うちで作ってもいいんだよ」


 ママの投げかけにおねえちゃんは黙ってしまった。

 どんな顔をしているのか、見る勇気がない。

 たぶん、おねえちゃんには誘える友達がいないのだ。


 ずるいよ。ずるい。杏ちゃんはずるい。

 たいしたことないくせに、認めてもらえてずるい。

 なんでも持ってて、ずるい。

 いつも、いっつも杏ちゃんばっかり。


 沈黙した身体から発するおねえちゃんの心の悲鳴が刺さるようで、反射的にごめんなさいって思ってしまう。


 私にとってバレンタインチョコは昔話でいう桃太郎のきび団子みたいなものだった。

 どうか私の味方になってください。

 仲良くしてください。

 嫌わないでください。

 私はおねえちゃんのそばにいるよっていつも思ってる。

 味方だよって。


 でも、どんなに頑張ってもおねえちゃんは私を好きになってくれない。

 差し出したものを鷲掴みにして、むさぼり食って、ダメ出しする。

 その上まるであげたのが、ひどい毒りんごであるかのように吹聴するんだ。

 ママにしたみたいに。

 

 私は感じなくなりたい。何も感じなくなりたい。

 身体中の怒りも、悲しみも、恐れも、感じていたこと全部なかったことになればいい。

 そしたらきっと世界はいいものでできていて、だから私はとても安全、大丈夫なんだって思っていられるのに。

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