第2話 紫色のティッシュ

「まったく。宅急便受け取りに出たほんのちょっとの間に、何を喧嘩することがある」


 段ボールを運んできたおじいちゃんの小言に、おねえちゃんはおばあちゃんのお腹に頬を寄せたまま、ぷいとそっぽをむいた。


「ほれ、ママが帰ってきたぞ」

「すみませ〜ん、遅くなりました」

「ママ!」


 スリッパの音が近づいてくると、おねえちゃんはおばあちゃんを押し除けて和室を飛び出し、ついてくるなとばかりに後ろ手で襖を閉めた。

 目の前で襖がバンと音を立てて跳ね返り、びくりと身をすくめる。


「こら、柚ちゃん。危ないじゃないの」


 おばあちゃんがぴしゃりと注意し両手で襖を開け放った。

 その声が届いていないかのように平然として、おねえちゃんはママの腰にまとわりついている。


 ママのこと人殺しだって言ったくせに。

 私も殺されるって言ってたくせに。

 頭にあのみみずの唇が浮かんで、敷居を足でなぞりながら襖の縁をぎゅっと握りしめる。


「なんだ、泣いたかと思ったらもう笑ってる。現金なもんだ」


 おじいちゃんにからかわれて、おねえちゃんはだってーと甘えた声を出した。

 私は、ママのところに行っちゃいけない。

 あの時閉められた襖の音が、開かれた今も、見えないバリアを張っている。


「おかえりなさい、絵梨奈さん。走ってきたの? 寒かったでしょう。すぐお茶を入れるから座ってちょうだい。玄米茶でいいわよね」

「ありがとうございます」


 おばあちゃんがポットから急須に湯を注いだ。


「杏ちゃんもおいで。二人はジュースのほうがいいかな?」

 

 呼ばれたから仕方がないのだと頭の中で言い訳をして、ようやく足が前に出た。

 おねえちゃんはちらりともこちらを見ずに、ママの手を握って自分の隣に座るように誘導する。

 私はおじいちゃんの隣の椅子を引いた。


「柚、杏ちゃんに絵本読んであげてたんだよ。ね、おじいちゃん。上手だったでしょ?」

「ふーん。まあ、そうだな」


 メガネを探すことに夢中なおじいちゃんは、気のない答えを返した。

 おねえちゃんはつまらなそうな顔をして話を切り替え、ママにお土産をねだる。

 ママは紙袋からちょっといいお菓子を出し、テーブルにのせた。


「えーっ。私、これじゃないのが良かった。黄色いふわふわのクリームが入ってる……なんだっけ。あれが良かった」

「これ。買ってきてくれたのに文句を言わないの」


 ママは遠慮がちに笑っているばかりで、注意をするのはおばあちゃんの方だ。

 おばあちゃんはおねえちゃんが箱を開けようとするのを取り上げて、菓子鉢にあけて出してくれる。


「クッキーは口がモサモサするから嫌い。ママは私のことちっともわかってない」


 なんてことを言いながら、おねえちゃんは菓子鉢から個装のお菓子をいくつも取り出し自分の前にキープした。

 その上新しいのを菓子鉢からとって、口の中に放り込む。


「一人でこんなに取っておいて、よー言うわ。杏の分残してやれよ」

 

 おじいちゃんが呆れた声を出すと、未だ席についていなかったおばあちゃんが棚から小皿を持ってきて私の分を取っておいてくれる。


「え〜っ、ずるい。抹茶味はまだ私食べてないのに」


 このお菓子はママがおばあちゃんたちに買ってきたんだよ。

 きっとみんなが食べられるようにいろんな味が入ってるのを選んできてくれたんだ。

 なのに独り占めして……年上のくせに、おねえちゃんのくせに。

 ムッと黙り込んでいるとおじいちゃんが立ち上がった。


「そうだ、杏。折り紙持って帰るか。上手に折ってくれただろう」


 喋りながらすでにおじいちゃんは畳の部屋へ向かっている。


「ううん、いい。それ、おじいちゃんにあげたの」

 

 返事した時には、おじいちゃんはもう手の中に私の折ったツルを持って戻ってきていた。

 それは留守番の間、退屈しているだろうとおじいちゃんが出してくれた折り紙で作ったのだった。

 おねえちゃんも喜んで飛びついたのに、急に折り紙なんてつまらないと投げ出して、それから絵本を読み出したのだった。

 だから、折り紙の話は、たぶん、ダメだ。


「せっかく折ったんだしママに見せてやったらいいだろ? なかなか器用なもんだってびっくりしたんぞ。幼稚園児が一丁前にツルなんか折れるんだなあ」


 おじいちゃんがテーブルにツルを置いたのと、おねえちゃんがグレープジュースの入ったグラスを倒したのがほとんど同時だった。

 紫色の液体がさあっとビニール製のテーブルクロスの上を走り、ツルがその上を泳ぐ。

 おばあちゃんが悲鳴をあげた。


「大変。台拭き、台拭き」


 大人たちが一斉に立ち上がり、絨毯の上にこぼれないようにテーブルクロスの端を掴んで持ち上げたり、近くにあったティッシュを掴んでデーブルに押し当てたりして立ち回る。

 おばあちゃんが台拭きで拭き取った頃には、水を吸ってぐちゃぐちゃになったツルは紫色のティッシュと一緒におねえちゃんのグラスの横に集められていた。

 ツルをそこに置いたのはたぶん、おねえちゃんだ。


「ごめんね、杏ちゃん。もっときれいなの作って返してあげるから」


 おねえちゃんの謝罪に、私はいいよと笑顔をつくる。

 周囲の怒ったり、困ったり、悲しんだりする顔を見るのが嫌だから。

 ううん。怖いからかもしれない。

 ママに折り紙を見せたくなかったのも、同じ理由だ。


 私は、おねえちゃんが怖かった。

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