うそつきバレンタイン

にけ❤️nilce

第1話 ママに殺されるとおねえちゃんは言った

 玄関のチャイムに呼ばれておじいちゃんが襖の向こうへ行ってしまうと、おねえちゃんは読み聞かせてくれていた絵本をパタリと閉じた。

 畳の上を滑らせて、私の前にすっと差し出す。

 表紙には真っ赤なリンゴを手渡すおばあさんと、ちょっと躊躇ったような顔をしてそれを受け取る白雪姫があんまりいまどきじゃないタッチで描かれている。

 おねえちゃんは表紙を見つめ、愛おしそうに本をひとなでした。


あんちゃんのママはねぇ、私のほんとうのママじゃないんだよ。この魔女とおんなじ」

「……うん」


 聞きながら、おねえちゃんの手は指の付け根にピンクのエクボがあってなんだかおまんじゅうみたいだ、なんてことをのんきに考えていた。


 何故だろう。私は全然びっくりなんかしなかった。

 誰に言われたわけでもないけど、なんとなくをわかっていたんだ。

 

 私が物心ついた頃からおねえちゃんはちゃんとそばにいた。

 なのになぜか、彼女がうちの家に来たのは私よりもきっと後なんだって確信があった。

 姉より妹が先に家にいるなんてことは普通に考えればあり得ない。


 だからどうしてすんなりそう思ったのか、はっきりとはわからない。

 うちにいたおねえちゃんが、どこかさらわれてきた宇宙人みたいだったからかもしれない。

 おじいちゃんの家にいるときの方が、ずっとくつろいで見えていたからかもしれない。


 返事をしたまま黙り込む私を前に、おねえちゃんは呆れたようにふうっと息を吐いた。

 それから、さくら色した薄い唇をニューッと横に引き伸ばし、わざとらしく笑顔を作る。


「ママが柚希ゆずきに優しくするのは、私の本当のお母さんを殺したからなんだよ。この毒リンゴみたいなやつで」


 何を言っているのかわからなくて、おねえちゃんの顔を見つめかえす。


「……なんでそんなこと言うの?」


 うそだ。

 私が眉を寄せると、おねえちゃんは重ねた両手を天に伸ばしてのびをし、顔にかかった長い髪を首を振って後ろに流した。

 真っ白な顔の上で、にまぁと伸びる唇は二匹のみみずみたいだ。

 私が泣くか、怒り出すかするのを待っている、きれいでとっても意地悪なみみず。


「だって、ほんとだもん。怖いなあ。きっと次は柚だよね」


 くすくす笑ってママの悪口を言ってくる、おねえちゃんのことがわからない。

 聞いているだけで、のどの辺りがずんと重くなる。


「違うよ。優しいもん。は……」


 思わずかばうようなことを口にした瞬間、ドンって体が鳴って視界が揺らいだ。

 気がつくと尻餅をついていた。

 びっくりしておねえちゃんの顔を見上げると、大福みたいな手のひらが嵐のように顔をめがけてバチバチ振ってきた。

 あわてて背中を丸くする。


「やめて。おねえちゃん、痛いよ、痛いっ」


 おねえちゃんは拳を握って、いっそう強く私を打った。

 頭、背中、腰。まるで太鼓みたいに。

 涙が出そうになったとき、襖が開く音がした。


「なにしてるの」


 台所にいたおばあちゃんが、濡れた手をエプロンで拭きながら踏み込んでくる。

 腕を取られたおねえちゃんは、みみずの唇をわなわなと震わせた。

 身体中で響いていた振動が止むと、急に頬がジーンとする。


「だって、杏ちゃんが意地悪言ったんだよ。……ママのこと、杏ちゃんのだって、杏ちゃんだけの」

「え?」


 おねえちゃんはおばあちゃんの濡れたエプロンにしがみついて、感極まったかのようにうわあんと大声を出した。

 あぜんとした。ってそんな意味じゃない。

 叩いたくせに自分が被害者だって言い募ることも、思いもよらない捉え方にも、叩かれた私よりも先に泣き出すことにも圧倒されてどうしていいかわからない。


「まぁ。それは辛いわね」


 おばあちゃんはおねえちゃんを抱き止める。

 被害妄想だ。中学生になった今ならそう言えた。

 でも、まだ年長だった私には何をどう言えばいいかわからず、黙り込むほかなかったんだ。

 違うの。そんなつもりじゃない。私だけのなんて意味はなかった。

 おねえちゃんの二人の母親のことを、どう言い分けていいかわからなかっただけなの。

 おばあちゃんに意地悪な子だって誤解されたかと思うと、悲しくてたまらなかった。


「杏ちゃんがびっくりしてるよ。そんなつもりではなかったんじゃないの」


 うんうんと頷くと同時に、わっと目に涙がたまった。

 緊張が解け、体の痛みと胸の痛みをいっぺんに感じる。

 おねえちゃんは地団駄を踏み、さらに大きな泣き声を出した。

 私は喉から溢れ出ようとする声を、奥歯を噛んで押し殺す。


 おばあちゃんは黙って顔を埋めるおねえちゃんの黒髪を優しく撫でていた。

 ゆっくり、リズム良く、丁寧に。

 その度にピンクのエプロンにおねえちゃんの真っ白な頬が埋もれる。

 なんて甘くて、幸福な形だろう。

 どこにも入り込む隙のないくらい完璧な二人。


 ぽろぽろこぼれ落ちてくる涙を、私は自分の腕で乱暴に拭った。

 だって、私の涙を受けとめてくれる場所はどこにもないのだから。

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