頽落かく語りき
1
学校を休むということは、別におかしなことではない。冬麻さんと僕はそうしてやり残したことを熟していたし、それ以前も僕は何度か休みたいからと休んだことが何回もある。
ただ、得体の知れない不安と焦燥のようなものが湧いたのは、創天教という特殊な宗教の中に居ざるを得ない彼女の境遇と、あと四日で訪れるという世界の終わりのせいだった。
何かがある。僕の知ることの出来ないような範囲で、事態は進んでいる。それも、恐らくは悪い方向に。
時間がないと思った。世界は終わらない。十二月十六日が終わったとしても、なんてことのなかったように十二月十七日は訪れて、また朝日は昇る。けれど、その日で何かが決定的に変わってしまう気がした。この現実の世界ではなくて、冬麻久々利の中の、極めて個人的で小さな世界が。その前に、何かをしなければいけない。
何をするつもりなのか、という自問が浮かぶ。分からない。
どうして首を突っ込むのか、という自問が浮かぶ。分からない。
それでも、既に踏み入ってしまった以上引き返すことは出来なかった。井戸に落ちそうな子供を助けることに理由が要らないように、今冬麻久々利に手を伸ばさなければ、僕はきっと一生後悔することになる。損得とか善悪を度外視した、本能的な衝動だった。
幸いなことに、その衝動のやり場すら見つからないわけではない。個人情報の保護に厳しい昨今だけれども、僕が行くべき場所はむしろそこを根城にしている者たちが進んで住所を公開してくれている。
創天教本部。創天教のホームページを少し調べれば簡単にそこの住所は当てがついた。学校を途中で抜け出して、逡巡の末制服のままそこへと向かうことにする。制服という服装は行動を制限する枷であると同時に、自分の身分を分かりやすく証明し身を守ってくれる鎧ともなり得る。窮屈なこの服が僕は嫌いだったが、今回に限っては念のためこの鎧を着けて行った方がいいだろうという判断だった。
調べたところ創天教の本部は学校からそう遠くない場所にあった。ホームページに載せられた外観を見る限り、古びた、大きな一軒家のようだった。少なくとも宗教的な建造物として想像するようなおどろおどろしさに似た神秘性はその外観から見つけることは出来ない。
駅を降りて、住所の方向へと進んでいく。住宅街の中を進みながら、この先に本当に創天教の本部があるのだろうかと心配になる。当たり前の日常の延長線上に宗教という非日常が混在するイメージが、上手くつかむことが出来なかったのだ。けれど、インターネットに書かれている住所は確かにこの先で、僕は歩くことを続ける。
ひと気はなかった。昼間の住宅街というものは大抵そうなのかもしれないけれど、それにしてもそういう単純な寂しさとは別の異質な空気があるような気がした。それは恐らく、この住宅街にくたびれた雰囲気があるからだろう。目新しい家は見えず、どこも建てられてから数十年が経っているように見える。子供の声は聞こえず、誰かが洗濯物を干しているということもない。誰も住んでいないというはずはないのに、中身だけを空っぽにされてしまったような奇妙な空気がここにはあった。
それが建っていることに、僕は最初気付くことが出来なかった。大きく改築をされたというわけではない。形はホームページに載っていたそのままで、何も変わっていないはずだ。けれど、ある劇的な出来事をきっかけに人間の風体が以前と同じとは思えないほど変わるように、その建物も何かが変わっていた。欠けてはならない歯車が欠け、緩やかにその崩壊を待つだけの機械。それが、創天教の本部だった。
住宅街から少し抜けた場所であることは確かだ。けれど、特別隔離をされているというわけでもなく、あくまでも日常から手を伸ばせば届くことが出来そうな延長線上にその建物は存在している。奇妙な感覚だった。こんなところに冬麻久々利を歪ませた、上谷早紀の母親を狂わせた施設があるとは、思えなかった。しかしその疑念を晴らすように民家であれば表札が掛かっているところに筆で書かれたような書体で「創天教 本部」と大きく記されていた。金色で書かれていた豪壮な雰囲気を持つその文字も、時とともに錆びつき、風化し、むしろうら寂しさを強調するように見える。落ちぶれ、外装を取り繕う余裕すらもなくなり、そして見栄えの悪いところには誰も寄りつかなくなる。悪循環だ。
ここに冬麻久々利が居るとは思っていない。宗教施設の本部と教祖の自宅は別のはずで、そんなことは分かっている。ただ、何も情報を得られないということもないはずだ。世界の終わりについて。冬麻久々利――救世主について。僅かでも知ることが出来ることはあるはずで、今はその僅かなものにでも良いから縋りたかった。
さて、どうするべきか、と僕は考える。正面切って冬麻久々利の学友だとでも言えばいいのか、それとも創天教に興味があるとでも嘘を吐くべきなのか。
逡巡の末、僕は前者を選ぶことにした。この時間に制服のまま訪れる学生なんて怪しさしかないのだ。であれば正直に自分から言った方が話がスムーズに進む。不必要な水面下でのやり取りを行う必要が省ける。
そう考えて、僕はインターフォンを押した。けれど、結果から言うならその逡巡は完全に不必要なものになった。
応答はなかった。ただ、ぎりぎり持て余すことのない時間の後、古びたドアが開き影が現れた。
これといった特徴のない中年男性だった。不健康そうな顔つきとそれに似合わない少し出た腹を持つ男性。そうしなければいけない理由があるとでも言うように彼の服装は白で統一されていて、それだけが唯一彼の異質さを表していた。
「山名漣君だね」
自己紹介を挟むこともなく、その男は僕の名前を口にした。緊張が背筋をうっそりと走る。名乗ってもいないのに自分の名前を知っている誰か。上谷さんの抱いていた不安とインターネットで見た事件が頭を過り、自然と身体に力が入る。
「……名乗ったつもりはないんですがね」
「世界は君を中心にして回っているわけではない。君が知らずとも、君の意思に関わらず起こる種類のものごとというのが世の中には存在している」
「そうなんでしょうね。そしてそれは多くの場合においてとても不快だ」
「私は冬麻幸雄という。この教団の教祖をしているものだ」
男は脈絡を無視して、そう名乗った。そして、その言葉で僕たちが向かい合う必要があることを表すには十分だった。
「冬麻久々利のことについて。互いに話すことがあるだろう。君はそのためにここに来ているし、私はそのために君の名前を知っていた。少し話をしよう」
そう言って彼は身を翻そうとした。この中で話し合うつもりなのだろうか。申し訳ないが、僕にはそんなことが出来る胆力はない。
「ここではない場所であればいいですよ。話をしましょう」
賭けではあった。まさか教祖本人と話が出来るとは思っていなかったけれど、教団のことについて知るために赴いたのは僕の方であり、もし無下に断られることであれば絶好の機会を自らの手で葬ったということになる。
ただ、我が身可愛さだけで賭けをしたわけでもなかった。この男は「互いに話すことがある」と言った。彼の方もまた、僕と話をすることを望んでいたのだ。ならばそこに付け込むほかない。
「分かった」
幸いなことに、僕は賭けに勝った。男は特に迷うような様子もなく、軽い足取りで身を翻しそのまま僕の方に近づいて来る。
冬麻幸雄に威圧感のようなものはなかった。教祖ということを知っても尚、僕の目に彼はただの奇妙な服装をした中年男性にしか見えない。彼はゆったりとした、生きていることを大義そうに思っているような歩き方をした。
「それで、どこに行くつもりなのかな」
「駅の近くにカフェがありましたからそこにしましょう」
「そうか」
僕が歩き始めると、冬麻幸雄も付いて来る。並んで歩くのも嫌だけれど後ろを歩かせるのも落ち着かなくて、僕はわざとペースを落として冬麻幸雄の斜め前を歩くことにする。
僕たちの間に会話はなかった。それは冬麻久々利との間にあったような心地よい沈黙ではなく、どこか重たい、鉛が流し込まれたような灰色の沈黙だった。
この男が創天教を保つことが出来ない理由がなんとなく理解出来る。冬麻幸雄には、特別なものが何もなかった。人を惹きつけるカリスマにしても、他人を引き摺りこむ欠陥にしても、ひとつの宗教組織を維持するにはやはり何かしらの特別なものが必要で、そしてそれらの素質はただ隣で歩いている場合でも分かるものだ。けれど、この男からは何も感じない。冬麻宗司が生きていた頃であればその息子という立場を利用出来たのだろうけれど、死した今となっては何も持ちえない彼に付き従う人間が減ったのは当然のことのように思えた。
ちっぽけな人間だと言うつもりはない。そうして人のことを判断出来るほど、僕の人生経験は積み重ねられていない。ただ、信仰の対象となるほど立派な人間ではない。
居心地の悪い静謐の中を耐えながら来た道をなぞる。その時間はどこまでも引き延ばされたもののように長く感じた。けれど、永遠なんていうものはレトリックの上でしか存在はしない。やがて駅へと近付き、来た時に偶然見つけていたカフェへと向かっていく。
そのカフェは酷く古びた、今でも活動をしているのかすら一目では分からないような場所だった。けれど「OPEN」の看板は掲げられていたし、あの屋上にある遊園地のような、完全に制止したものの雰囲気は纏っていなかった。
ドアを押すとカランカランという音がする。迎え入れてくれたのはその音だけで、愛想のいい店員が見えるというようなこともなく、寡黙そうな老年の店主がカウンターの裏からこちらを見定めるような眼差しでじっと見ているだけだった。
僕たちは入り口と最奥の中間にある席を選び、座る。制服姿の高校生と白装束を身に纏った中年男性。仮にこれが平日の昼間ではなかったとしても相対するには奇妙な組み合わせだろうと思う。
「コーヒーを」と冬麻幸雄は短く言った。
「紅茶を」と僕もまた短く言った。コーヒーと紅茶であれば前者の方が好きだったがこの男と同じような注文をすることが嫌で避けた結果だった。
店主がかちゃかちゃと音を立てて準備を始める。僕たちはじっと、何を言うでもなく向かい合っている。その沈黙の中で、僕はようやくこのカフェの中にジャズが流れていることに気が付いた。曲名までは知らないけれど、ピアノが主体の軽やかな曲。無愛想な店主と物言わず向き合う二人組のバックグラウンドミュージックとしてはあまりにも不釣り合いな曲だ。
気を紛らわせるように微かに聞こえるジャズを繰り返しリフレインしていると、店主がコーヒーと紅茶を続けて持ってきた。思っていたよりも早く沈黙が終わったのは店主の仕事が早かったのか、聞き慣れていないジャズが意外にも僕の中に受け入れられたからかは分からない。
「まずは」と冬麻幸雄はコーヒーが来たことを契機として口を開いた。
「君の話からしたまえ。答えられることには答えようと思っている」
「……ならまず、どうして僕の名前を知っていたんですか」
本題に入る前の軽い様子見として、僕は先に浮かんだ疑問を投げかける。創天教を尋ねた理由からしてみれば些細な問題ではあったけれど、比較論ではなく個別の問題として捉えればそれは看過することのできない大きな問題だった。
「少し調査をさせて貰っただけだ。簡単なことさ」
「……調査をされるほど大層な人間だとは思えませんがね」
「救世主に近づく人間なんだ。見張り、調査をするのも当然のことだろう」
「救世主」
改めて彼女の口以外からその言葉が出されるのを耳にすると、やはりあれは彼女の個人的な妄想ではなく本当にこの世界に存在する信仰なのだと実感する。
「君だって聞いているだろう、彼女から」
「世界の終わりの日。悪魔がやって来て世界をずたずたに引き裂く。それを救うのは自分しかいないと。そう、彼女は言っていました」
「ああ、そうだ。彼女は我が会にとって、そして世界にとって重要な人間に他ならない。ゆえに、彼女に近づくものを調査するのはひとつの当たり前のことじゃないだろうか」
「世界の終わりなんてどうせ来ないのに?」
シニカルにそう尋ねてみても、冬麻幸雄の表情はなにひとつ変わらなかった。焦るわけでも嘲るわけでも憤慨するわけでもなく、淡々と変わらない目をしている。
「そう言う者も居る。ただ、君の意思とは関係なしに悪魔はやって来る」
「よく言いますよ、予言をしたのは貴方で、だからこそのその予言が本物かどうかは貴方自身が一番分かっているくせに」
「不毛な議論だよ。信じない者には分からないだけの話だ。いずれにしても真実はその日に分かる」
「真実って、よく言いますよ。当然世界は終わらずに十二月十七日は訪れます。それを貴方は自分の手柄にしたいだけだ」
「私の手柄ではない。救世主の力だ」
「でもそれは結局救世主の親であり予言者である貴方の手柄になるんでしょう」
「結果としてそうなるとしても私の意図は介在していない」
やる気がないのか、それともそういう話し方を身に着けているのか、冬麻幸雄のスタンスは僕を言いくるめようというものではなく自分の意見を否定されないようにするものだった。確かに、不毛な議論だ。これでは何も生まれない。進まない。
意識を切り替える。この男にどれほどの言葉を重ねたとしても彼にとって都合が悪い言葉である限りきっと何も届かない。まずは元々聞くべきであった話を尋ねるべきだろう。
「久々利さんはどうして学校に来ていないんですか」
「準備があるからだ」
「悪魔から世界を救うための?」
「そうだ」
「準備って、何なんですか」
「外界の穢れとの接触を絶ち、彼女の中にある力の純度を高める」
「穢れとか力って――本気でそんなものがあると思ってるんですか」
「ああ、ある」
何を当たり前のことを、とでもいうようにあっさりと冬麻幸雄は断言をした。そして思い出したように手元のコーヒーに角砂糖を三つ入れて口をつける。丁寧で静かな飲み方だった。
「山名漣君。世の中には理屈ではどうしたって説明することの出来ないような観念的で、けれど絶対的な力学というものが存在するんだ。そのようなものは君のような一般的な思考の持ち主には理解が出来ないかもしれないけれど、それでも確かにある。人々が天動説を信じていても尚地球は太陽の周りを廻っていたように、今も君の知らないところで動き続けている。知らないこと、分からないことが存在するのは何もおかしなことじゃない。恥じろと言うつもりはない。ただ、自分が知らないから、分からないからといって頭ごなしに否定をするのは愚かなことだよ」
「ええ、そうですね。僕には知らないや分からないことが果てしなく存在している。それに貴方の言う通り理屈でどうにもならないような力学というものが、この世界には存在するのかもしれない。ただ、悪魔が世界を引き裂くなんていうものが荒唐無稽な話だということは分かります」
「悪魔が荒唐無稽な存在、ね。君は悪魔が居ないことをどうやって証明するんだ」
「本当に文字通りの悪魔の証明を提示されたのは初めてのことですよ。ええ、確かに貴方の言う通り悪魔の不在を証明することは不可能です。ただ、それは机上の論理を組み上げた言い逃れるためだけのレトリックに過ぎないでしょう。悪魔の証明の延長線上として悪魔の存在を肯定するのであれば、貴方はあらゆる可能性と存在を肯定するんですか?」
「存在を肯定するつもりはない。ただ、可能性を肯定するべきではあるだろうな」
「可能性を肯定。はは、それは逃げですよ。肯定するだけなら誰でも出来る。結局、貴方は都合のいい言葉を使って悪魔の存在を否定させないようにしているだけだ」
冬麻幸雄が使っているのは相手を飲み込むための、言い勝つための話術ではなく、負けないための話術だ。これ以上なく保守的で、それは教祖という不確定な事柄を断言し、他人を煽動する立場には向いていない話し方だった。
「君は、久々利に会いたいのかね」
「そうですね、会いたいです」
「私が君に言おうとしていたことはだね、もう彼女に会わせることは出来ないということだよ」
「……それは穢れるからですか?」
「そうだな。簡潔に言うならそうなる。しかし、それ以上に君は危険だ」
「危険?」
まさか自分が危険だと評されることになるとは思わなかったので戸惑う。目障りだとか言われるのならまだ理解が出来たけれど、危険という言葉はあまりにもこの状況の僕に似合わない。むしろ追い詰められているのはこちらの方なのだから。
「何も、私だって元から彼女を今のように隔離しようと思っていたわけではない。彼女には素質があり、ただその日を待つだけで良かったのだ。けれど、君が現れたことで全てが狂った。君は、彼女に悪い影響を与え過ぎた」
真っ先に思いついたのは屋上で吸ったセブンスターだった。けれど、それを穢れだと言うのは滑稽な話だろう。冬麻幸雄の言う悪い影響とはそれとは別のところにあるものだ。
「……そんな大層なことをした自覚はないんですけどね」
「既に自覚の問題ではなく、起こってしまったことに現実の問題に変わっているんだよ。君は彼女に対してあまりにも大きな影響を与えてしまった。そして、それを取り返すために私たちは今彼女のことを外界から隔離している」
私たちは、か。分かり切っていたことではあるけれど、既に教育と言えるような家庭内で収まるものではないのだろう。今彼は冬麻家の娘を隔離しているのではなく、創天教の救世主を隔離しているのだ。
「私が君にしたかった話をしよう。端的に言えばもう彼女と関わらないで欲しい。二度と」
短く、断定的に言われた言葉は、冬麻幸雄の相変わらずの喋り方も伴って強い印象を受けなかった。ただ、それが、人と人との関係を他者によって断ち切られようとしているという異質な状況ということは分かる。
「私たちは彼女を隔離している。だから、何かしらの偶然で君が彼女と顔を合わせるということはまず有り得ないだろう。けれど万が一。君に確固たる意志と行動力があれば私たちに想像することの出来ない手段で彼女と会うかもしれない。私が恐れているのは、それだ」
「……予言でもすればいいんじゃないですか、僕がいつどうやって彼女と会おうとするのか」
「予言は万能じゃない。未来がいつでも見えるわけではないし、見ることの出来る未来を選択出来るわけでもない」
救世主の身を守れない予言に何の効力があるんだろうと思う。偽の予言者の限界が見えるものだ。
「もし断ると言ったら?」
「君はそれでも久々利に会うと?」
「もしもの話です」
「そうだな」と言って冬麻幸雄は再びゆっくりとコーヒーに口をつけた。それから小さく流れているジャズを耳に馴染ませるようにじっと動きを止めてから口を開く。
「例えば暗がりで複数人の男から襲われた場合のことを想像してみたまえ。幾ら君も成長期にある男性とはいえ複数人でかかられればまずなすすべもないだろう。運よく死ななかったとしてもどうなる? 暗がりで襲われて、襲ってきた人間の顔を全員正確に覚えることが出来るか? 証拠も一切ないのに」
「……随分と物騒なもしもの話ですね」
「ああ、もしもの話だ。けれど、それが現実に起こりかねないくらいこの田舎町の夜は閑散としている」
明らかな脅しだった。そして、それはもしも僕がこれ以上踏み込めば実際に行われかねないことなのだろう。少なくとも悪辣な嘘だと笑い飛ばすことが出来るほど有り得ない話ではない。
「あの女に大した魅力はない」
唐突に吐かれたその言葉の意味が、一瞬分からなかった。
「あれは賢いが、だからといって特別秀でた賢さではない。芸術も運動も、何をやらせても人並みで面白みのない女だ。顔はそれなりに整っているが、だからといって絶世の美女というわけでもないだろう」
あれ、と言って指されているのが冬麻久々利のことだと気付いたのは今までの会話において登場した女性が彼女しか居ないからという殆ど牽強付会的な理由だった。
訥々と吐き出される言葉の冷酷さは、この男が彼女のことを道具としてしか扱っていないことが見て取れた。娘としての愛情が片鱗も見られない、どれほどに価値があるかだけでしか見ていないことが分かる、醜悪な思考が延々と続く。
「つまらない女だ。何も持っていない」
「……それで、貴方は何が言いたいんですか?」
「代替可能な人間だということだよ、あれは。君のこれからの人生においてあれよりも魅力的な女は探そうと思わなくても目にする機会がごまんとある。執着をするメリットとデメリットを、よく冷静に考えた方がいい。恋も愛も所詮一時的な気の迷いだ。それだけで人生を棒に振りたくはないだろう?」
恋や愛という言葉が出てきて、どうやら冬麻幸雄の認識は事実とズレていることを認知する。僕と冬麻久々利は別に付き合っているわけでもない。僕たちの関係は、友愛とも恋愛とも言えない曖昧なものに過ぎなくて、それ以上のことは何もない。ゆえにその勘違いは僕の視点からしてみると見当違いで滑稽なもののように思えた。
ただ、改めて僕たちの関係を突き付けられて、僕は思考を止めることになる。そうだ、僕たちには何も特別な関係性があるわけではないのだ。何かの恩人だというわけでもないし、冬麻幸雄の言う通り全く代替が存在しないほどに彼女は特別な存在ではない。
例えば、恋人だというのであれば危険を冒し命を賭ける価値があるのかもしれない。しかし、そうではないのであれば。僕は、どういう関係なのかも分かっていないようなクラスメイトのために命を賭けるのだろうか。
疑念が波紋のように広がっていく。本当に、僕が行っていることは正しい行いなのだろうか。メリットとデメリットを冷静に考えて、そのうえでも選ぶべき道なのだろうか。
僕は立ち返る。自分が縋り続けていた主義について。誰の手も借りない代わりに、誰にも手を貸さない。出会いがなければ別れがない。期待がなければ失望がない。幸福がなければ不幸がない。そうして積み上げられた孤独を振り返る。
今の僕の行動は明らかにその主義から逸脱していた。他人に積極的に関わろうとしていて、その結果として孤独の対価として得ていた安寧さえも打ち捨てようとしている。割に合わないにもほどがある。
それでも僕は彼女と会うべきなのだろうか。会って、何をするかも分からないのに。どうすれば救えるかも分からなくて、そもそも救うという行為自体がエゴイスティックなものだと分かり切っているのに。
「……貴方は、どうして彼女を隔離しようとするんですか?」
僕は僕自身が彼女と会いに行くことが出来るのかが分からなかった。だから、そもそも彼女を囲うこと自体に対しての疑問を呈する。僕が会おうと動かずとも彼女と会うことは出来ないだろうかと考える。
「先も言っただろう。救世主としての彼女を外界の穢れから守るためだ」
「貴方自身がその予言を嘘だって分かっているんだから、それがしっかりとした理由の説明にならないことは確かなはずでしょう。どうせ何もせずとも次の日は来るんです。ただ、それまでも彼女に日常を過ごさせればいいだけじゃないですか。それともこれもパフォーマンスなんですか?」
祈祷を続けるために寝食を忘れて祈り続けた祈祷師の逸話は存在している。そういう意味ではひとつの正当な理由と言えるかもしれない。
ただ、それにしては不自然なこともある。外界の中でも特に僕のことを穢れだと言って離そうとする理由が分からない。冬麻久々利を僕の知らないところで匿おうとすればそれだけでも十分姿を晦ませられるだろうに、わざわざこうして説得をしに来る意味が見えてこない。どうしても僕と彼女を会わせるわけにはいかない理由が、あるはずだ。
「思い出と荷物は少ない方がいい。特に決定的な行いをするうえでは。彼女にとって君は思い出であり、荷物なんだ。だから、切り離そうとしている。病巣は出来る限り早い段階で切除しなければならないのと同じように。まあ、既にある程度病状は進行していて、だからこそこの一週間は、言うなれば治療のために隔離しなければならないわけだが」
「決定的な行い?」
僕は漠然と、適当にそれらしい儀式のようなかたちをとって祈りでも捧げさせるだけかと思っていた。雨乞いでもするように、祭壇の中でそれらしい恰好をした冬麻久々利が「悪魔よ去れ」みたいなことを言って、それで終わるのかと思い込んでいた。ただ、それを表す言葉として決定的な行いという言葉はあまりにも強すぎる。それに、たかだかそれのために僕との関わりを断絶しなければいけない理由が見つからない。
「どういうことですか。世界を救うって、彼女に何をさせるつもりですか」
「それは君には関係のない話だ」
「関係はありますよ」
「どこに?」
「救うという行為に関係はないにしてもその行為を行う冬麻久々利に」
冬麻幸雄は大きなため息を吐いて零すように小さく呟く。
「……失態だったな。学校に通わせたのは。こうなるのであれば通わせる必要もなかっただろうに」
その言葉の真意までは読み取ることが出来ない。僕の頭はそれほど優秀じゃない。ただ、その言葉が抱いていた不穏を確定的にさせたのは明らかだった。
「あんた自分の娘に何させようとしてるんだよ」
「……話は終わった。私はもう行くとしよう」
「おい!」
勘定として千円札をテーブルに置き、冬麻幸雄は僕の制止させようとする手をするりと抜けてカフェを出て行った。その背中を掴んで何を問い質そうとしたところで意味がないことは分かっていて、むしろ下手に刺激をすれば悪い状況に立たされるのは僕の方なのだ。黙って、その背中を見送ることしか出来ない。
何かが損なわれるような、不吉な予感を振り撒いて冬麻幸雄は去って行った。彼の行動と態度からして冬麻さんの身に何かが起きていることは確実で、そしてそれはきっと起こってしまえば取り返しのつかないことなんだろう。焦りが偏頭痛のようにがんがんと頭の中に響く。
しかし、僕はどうすればいいのだろうか。焦燥と相反する考えが浮かぶ。
冬麻久々利に何かがあれば、僕は哀しむことになるんだろうと思う。どうして何もすることが出来なかったんだと後悔するかもしれない。けれど、そんなものは心持の問題だ。きっと数年も経てば忘れるような、感情の問題に過ぎない。それに対して実際に数人の男から暴行を加えられることはどうだ。現実的な痛みを伴うし、暫くは生活に不便するかもしれない。最悪、後遺症を引き摺って一生を過ごすことになるかもしれない。
形而上的な傷と形而下的な傷。貴賤なんてないんだろうけれど、少なくとも想像をしやすいのは前者だ。痛みを避けたいという考えは何も特殊なことではない、人間の本能に染みついた一般的な考えだ。
ただ、本当にそれでいいのか。痛みを避けて、より大切なものを取り零すことにならないのだろうか。傷ついても尚、僕は彼女に手を伸ばすべきなのだろうか。
アンビバレンスな思考が反芻し続けることに耐えきれず、気を紛らわせるために一度も口をつけていなかった紅茶を飲んだ。既に温くなっていたけれど、それでもその紅茶は美味しかった。
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