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冬麻久々利という少女は、普通の女の子である。それが、一週間彼女と付き合い続けた僕の結論だった。
いや、普通という言葉にはあまりにも語弊があるのだろう。彼女は幾つもの特殊な側面を持っている。けれど、それは少なくとも個性などと言って許容されるような範囲の特殊さであり、特異というほどのものではないように、僕には思える。
例えば、彼女はいつ、どの食事であっても食べる前には手を合わせ祈りの言葉を紡ぐ。
例えば、彼女はカラオケに行っても流行と言われるような曲はおろか殆どの曲を歌うことが出来ない。
例えば、彼女はカフェもファミリーレストランも、あらゆる外食店に行ったことがなかった。
例えば、例えば。そんなものをあげ始めればきっとキリはない。確かに、それらは普通の人にはない特徴で、異質で異常だと言う人も居るのだろう。けれど、それらの問題が僕にとって大きな障害になるようには思えなかった。そして、問題にならないような個人的な範疇に関して殊更に取り上げて問題化するような趣味も必要も、僕にはなかった。
普通と表したのは例えばとして挙げることの出来た、些か風変りな点を除いた部分の話である。
僕が特に言いたいのは多くのクラスメイトが思考の隅に過らせているような話、つまり彼女の信仰にまつわるような話が一度も彼女からなかったことだ。勧誘のようなものをされたことはなかったし、そも食事時の祈りを除いて信仰の影を見せることすらなかった。一週間、普通の他人とは過ごさないような密度の時間を過ごして尚、僕は彼女の信仰している神の名も教義も知らない。
僕と向き合う冬麻久々利という少女は、ごく普通の高校生だった。一か月後の世界の終わりを信じている、ただの女の子だった。
適度に学校をサボりつつ一週間をやり過ごした僕たちは、あの屋上に来ていた。まるでそこが僕たちの居るべき場所とでも言うように、一時的な休息としてその場所は選ばれたわけだけれども、考えてみればおかしな話だった。わざわざこんな取り残されたような屋上に来ずとも、それこそカフェなんかで話をすればいいだろうに、それでも冬麻さんはここを指定した。週末、いつもここで気を休めている僕に対する気遣いのようなものなのかもしれない。
屋上に出ると、僕は煙草を咥え、一本を冬麻さんの方へと差し出す。自分のものに火を点けてからライターを貸すと、自分で火を点けるのは初めてのはずなのに慣れたような様子で彼女もまた火を点けた。成長している。無論、良くない方向に。
「大変だったね、この一週間は」
「ああ、そうだな。大変だった」
これ以上ないほど簡素に、そして的確に冬麻さんはこの一週間の出来事をまとめ上げた。彼女の言う通り、この一週間は大変だった。そして、それ以上に何かしらの言葉を挟む余地はないように思えた。ひとつひとつの思い出を拾い上げたところで、何も生まれない。そんなような砂を噛むような時間を積み重ねただけだったのだから。
ただ、これは何もこの一週間を否定したいわけではない。意味も意義もなく時間を浪費することが出来るのは一種の紛れもない幸せだ。僕は本心から、この一週間が記憶として正確に思い出せる範疇の人生において最も楽しい一週間だったと思っている。
「まさか、ずっとやりたいと思ってたことがここまで出来るとは思ってなかったよ。ありがとう」
「僕自身、冬麻さんが居なければ多分この先もしなかっただろうという経験もあったからお互い様だよ」
「そう? ならいいけど」
冬麻さんが吐き出した紫煙は青い空へと立ち昇り、雲と混ざって見えなくなる。冬の柔らかな、しかし相変わらず好きになれない陽光がぼんやりと僕たちを照らす。
風が吹いて、冬麻さんの髪と赤いマフラーがたなびいた。彼女が身につけているものだからか、それは何かを象徴しているかのように見えた。それは錯覚に過ぎないのだろうけれど。
「悪魔の影は近づいてきてるのか?」
今まで聞いてこなかった終末についての質問をしたのは、わずかな希望のようなものを抱いていたからだった。つまり、彼女のフラストレーションが発散されることで終末を希うような、彼女の信仰が少しだけでも変わっていればいいと思ったのだ。
ただ、冬麻さんはあっさりと、ごく当たり前の事実を確認するように言った。
「多分、ね」
その言葉は曖昧ではあるけれど、肯定であることに間違いはなかった。
僕が望んでいたことは何も思考を逆転させるほどのことではなくて、気の持ち方みたいなものを少しだけ変える程度のことだった。ただ、その少しの変化すらも人には難しいのだ。人は結局、他人に救われるのではなく自分で救われることしか出来ないのだから。
「多分?」
「私が予言を出来るわけじゃないから、正確には分からないんだ。でも悪魔が居なくなったっていう予言も聞いてないから近づきつつあるんだとは思うよ」
「救世主でも予言を追うことが出来てないんだな」
「救世主ってそんなに偉くないよ」と冬麻さんはあどけなく笑った。
「例えて言うなら、私は悪魔との戦争における最終兵器みたいなものなんだ。戦争において、兵器が戦略を知る必要はないでしょ? 不必要な思考や感情は要らない。ただ、課せられた責務を全うすればいい」
彼女の言葉には看過することの出来ない気持ち悪さが敷き詰められていた。未だ曖昧な輪郭のままで、けれど彼女の背景にあるものが徐々に明るみになってきていることが分かる。真っ当な環境で育てられていれば、自ずと自らのことを感情や思考を排するべき存在だと言うようになるはずがない。自己嫌悪にしても、度が過ぎている。彼女のその歪み切ったロジックが、何者かによって流し込まれた醜悪な思想であることは明らかだった。
「それは違うだろ。君は人間なんだから、やりたいことがごまんと残っているような人間なんだから、好きにするべきだ。考えて、感情に従って、納得をしたうえで行動すべきなんだ」
「納得なんて結局は自己満足だよ。現実は自己満足に合わせて歩を進めてくれるわけじゃなくて、少し先をいったつもりでもすぐに追いつかれる。そうなったら、私の意思みたいなものは関係なくて出来ることをしなければいけない」
「……使命か」
「そう」
「使命なんて、馬鹿馬鹿しいだろ。そんなものが本当に存在しているのだとすれば哲学なんていうものはとうに廃れてるし鬱病はなくなっている」
「使命は万人に与えられるものじゃないよ。自らが定めた目的のための行動が出来る人間が限られているように、全ての人間が芸術家になれないように、使命を与えらえる人間は非常に少ない」
「……そうか」
これ以上何を言ったとしても徒労で終わるだけであることを想像することが出来て、僕は潔く身を引く。相手に響かなかったとしても、何も変えられなかったとしても、伝えることに意味があるのかもしれないとは思う。けれど、僕にはその体力がなかった。それに違う価値観を持っているのであれば、それが互いに悪影響を与えない限り好きにすればいい。僕の個人主義は孤独の中で歪みつつあった。
ろくに吸ってもいないのに煙草はいつの間にか短くなっていて、灰皿に放り込んで二本目に火を点ける。今の分で丁度煙草は切れて、空になった箱をくしゃりと潰した。そんなことをしても、どうにもならないのに。
冬麻さんはいつものようにフェンスに凭れかかるようにして眼下を眺めた。短くなった煙草の火をフェンスに押し付けて消し、現実に直面するような眼差しで何かを見つめている。
「何が見えるんだ?」
「人と車、街路樹と街灯。犬も居るね」
「見てて楽しいか? それ」
「んー、どうだろ。楽しいものではないけど、じっと見てると馬鹿馬鹿しいことをしてる自分が面白くなってくる気もするかな」
「随分奇矯な趣味をお持ちのことで」
「我ながらそう思うよ」
冬麻さんに倣うようにして街を見下ろしてみる。そこには彼女が言った通り人と車と街路樹と街灯と犬が見えた。見慣れたはずの、ごく普通のありきたりな風景。けれど、改めてじっと見つめてみるとそれはなんだかひどく奇妙な、別世界のもののように感じ始める。こんなにこの道は人の行き交いが多かっただろうか、前からあそこに街灯なんてあっただろうか、この時間帯に犬の散歩をしている人間が多いのは僕が想像しているよりも犬を飼っている人間の数が多いのか、それとも偶然なのか。世界を漠然と世界として受け取り続けてきたからこそ、向き合うとゲシュタルト崩壊を起こしどんどんと認識が撓んでいく気がする。
「つまらない街だな」
「面白い街なんてないよ。結局目新しいだけで、どんな場所だって住めばつまらない街になっていく」
「それにしてもこの街のつまらなさは異常だと思うよ。時々、世界から隔絶されてるんじゃないかと思うくらいに、どこまでも変わらない、灰色の街並みが続いていくだけだ」
「山名君は、この街が嫌いなんだ」
「……どうだろうな。好きじゃないことは確かだけど、嫌いと言えるほど能動的な感情をこの街に対して抱けているとは思えない。嫌いというよりはもっと緩やかな、厭いに近いのかもしれない」
街に限らず、僕にとって大抵の物事はそのような厭いに分類された。嫌いと言えるほどの関心やエネルギーはないけれど、漠然としたマイナスのイメージを持っている。単に僕が厭世家と呼ばれるような人種であり、世界に絶望しているだけかもしれないけれど。
「悠々たる哉天壌。遼々たる哉かな古今――」
「どうして藤村操?」
「いや、案外今の僕は藤村に似ているのかもしれないと思ってな」
厭世の末に華厳の滝から身を投げた男のことを思う。無論、僕には死を選ぶほどの覚悟も力もなくて、藤村からすれば僕なんかと一緒くたにされるのは迷惑なことなんだろうけれど、厭世とともにこうして高所から世界を見下ろすという状況だけを切り取れば、やはり僕と彼は似ている。
「萬有の真相は只一言にして悉す。曰く、「不可解」」
彼の遺書において、最も印象的な一文を繰り返す。彼の言うことはあながち間違いでもないのだろう。いつか、世界の真理が見つかることはあるのかもしれない。けれど、そのいつかはあまりにも遠い話で、少なくとも僕にとっては「不可解」であることに変わりがない。
それでも、死ぬのは違うだろう。不可解なことは不可解だと抱え込んで、その曖昧さとともに進んでいくことこそが生きるということなのではないだろうか。
勿論、こんな考えは所詮死に近づいたことのない人間だから言えることだということも分かっている。藤村には僕では理解することの出来ない悩みがあり、人生があった。厭世だけではなく、様々な彼の人生の決算として、彼は死を選んだのだ。生きることは素晴らしいなんていう心にもない賛美をして彼の死を否定するだけの力は、僕にはない。
それでも、生きているのだから生きていることを肯定するしかないのだ。死にたいと思っていないのだから、生きたいと思うしかないのだ。
僕は生に対する礼賛も死に対する信仰も好きではないけれど、それでも現実を受け入れて肯定するべきだと、そう思う。自分を否定すれば、どうしようもなくなるしかないのだから。自分が自分ではなくなるのだから。
「始めて知る、大なる悲觀は大なる楽観に一致するを」
ぽつり、と呟くように冬麻さんは零した。
「彼の最後には本当に楽観があったのかな。死ぬことは、本当に彼にとって進んで受け入れたくなるようなことだったのかな」
「異常な状況に興奮をしていればそういうこともあるだろうけど、基本的に死は遠ざけたくなるものだろ。個人の好みとか価値観とかとは別に、人間の本能として」
どれほどの覚悟を持った自殺者であっても、救いの手を差し伸べられれば無意識的にそれを掴んでしまうことがある。死への嫌悪は覚悟とか意志とか、そういうものとは別の話だ。
「本能かあ」
冬麻さんはそう呟いて、フェンスから身を剥がした。
「やっぱり誰だってこのくらいの高さは怖いよね」
「当たり前だろ」
どれほど強がったとしても、多少の個人差はあったとしても、このくらいの高さは誰だって怖いに決まっている。
「ふふ、そっか。そうだよね。うん、ありがとう」
彼女の笑いと礼の意味は分からなかった。けれど、その言葉は僕に向けられたものであると同時に極めて個人的な呟きに似ている気がして疑問を挟む余地が見えなかった。だから、僕は見逃す。掴み損ねる。
「山名君」
「なんだ?」
「また、遊びに行こうね。世界が終わる前に、やり残したことを全部終わらせに」
「分かってるよ」
世界は終わらない。それでも彼女が満足をするならそれで十分だった。
冬麻さんの口から漏れた白い息はもう煙ではなくて、冬の冷気によって冷やされた彼女が生きているという証左なのだろう。冬が深まっていっている。今更になって、僕はそれを実感した。
終わりが、近づきつつある。
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