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 休憩を挟みつつ様々なアトラクションを乗り継ぎ続ける。夕暮時になると乗ることが出来るアトラクションは見境なく殆ど乗り終えることが出来た。この歳になってゴーカートやメリーゴーランドに乗るというのは気恥ずかしさもあったけれど、ここに来た以上逃れることも出来ずままよとなんとか乗り越えてきた。殆どに含まれない最後のひとつは観覧車であり、僕たちはようやくその前に着く。

「やっぱり遊園地の最後は観覧車だね」

「やっぱりって、どこ情報だよそれ」

「大体フィクションだと最後は観覧車でしょ」

「ああ、言われてみればそうかもしれない」

 最後にジェットコースターというのはあまりにも風情がない。ゆったりとした時間を過ごしながらその日を振り返るという意味では観覧車以上に適した乗り物はないだろう。

 案の定誰も並んでいない待機列のスペースを淀みなく進み、係員によって開けられたゴンドラに乗り込む。どれくらい振りだろうか、観覧車に乗るのは。乗ったという記憶はあるけれど誰と乗ったのか、どこの観覧車に乗ったのかすら覚えていなくて、まるで初めてゴンドラに乗ったような新鮮な感覚を覚える。

 二人分の体重が乗り少し揺れた心もとないゴンドラはドアが閉められ、ゆっくりと上がっていく。窓外から向かいに座った冬麻さんの方へと視線を移すと、思っていたよりも距離が近くて一瞬戸惑いが頭の中を支配した。

 電車で隣合ったのだ、この距離感が初めてということはないけれど、向き合うのと隣り合うのとではまた話が変わってくる。勿論、なら隣にと言われても困るだけなのだけれども。

 冬麻さんは整った顔をしている。有り体に言えば美人と言われるのだろう。

 外見だけで人を判断することは悪しきことだという価値観は既に膾炙し始めているけれど、人は基本的に他人を外見で判断するものだ。というよりも知らない人間のことなど外見で判断するよりほかない。だからどれだけ綺麗ごとを重ねようとしてもやはり美人が得であることには変わりなくて、特にそれは異性を意識しやすい思春期においては意味を大きく持つ。持て囃されるか、妬まれるか。だから、そのどちらでもない彼女の今の扱いはやはり異質なものなのだろうと思う。よくも悪くも触れない、ある意味で最も残酷な取り扱い方。

 美しさというものは憧憬の目を向けられると同時に人を不安にさせる。それは完全なものに対する恐れなのかもしれないし、無意識下のルサンチマンかもしれない。いずれにしてもその不安を冬麻さんの美しさは殊更に濃く滲ませているように思えた。

「ん?」という短い疑問符で、僕はまじまじと彼女の顔を見ていてしまったことに気が付いて誤魔化すように窓外に目を移す。徐々に高度が上がり、ゆっくりと視界が開けていく。高度で言えばジェットコースターだってかなりのものだったけれど、あれは風景を楽しむためのものではなくてこうしてゆったりと風景を見ることが出来るこの状況ではまた見方も変わって来るものだ。

「ジェットコースターもそうだが、誰がこんなものを作ろうと思ったんだろうな。ただ高いところに行くことの一体何が良いんだか」

「煙か馬鹿なんじゃない?」

「つまり馬鹿っていうことか」

「諺的には。でも、多分馬鹿じゃなくても人は高いところに行きたがるものなんじゃないかな」

「僕はそうじゃないけど」

「じゃあ君は人じゃない」

「案外酷いことを言うんだな、君」

「本当に人じゃない存在にこんなこと言えないよ」

 それはそうかもしれないけれど、慰めになっているのかなっていないのか分からない言葉だった。

「今日こそ俺は、皓々たる月の世界へ、機械の助けなんぞ借りないで、ひとっ飛びだ」

「シラノ・ド・ベルジュラックか? ツァラトゥストラといい、随分ハイソなものが好みなんだな」

「それを言うならすぐに分かる山名君だって同じような趣味じゃない」

「僕はすぐに一節を暗唱出来るほど読み込んでいないし、読んでいても退屈だと思ってることが殆どだ。ただ、人生を浪費するなら現実より虚構の方がマシっていうだけだよ」

「私だって、別に読みたくて読んでるわけじゃないよ。読まないといけなかったからさ」

 哲学書や古典小説を読まなければいけない状況というのは、どのようなものなのだろうか。高尚そうなポーズとは裏腹に所詮文学なんて娯楽に過ぎないというのに。

「シラノは月を目指した。手の届かない高みを目指し続けた。人間がそうやって、手の届かないものに手を伸ばそうとするのは、高みを目指すのはそんなにおかしなことじゃないんじゃないかな」

 月。昔から理想の象徴として描かれる夜の月の中でひときわ輝くもの。

 ただ、科学が進むにつれてその輝きは街灯の中に紛れ、実際に人間はそこへと着陸し、想像していたよりも浪漫のないただの大きな石の塊ということが明らかになった。ソクラテスの魂もガリレイの魂も、そこには居ない。

 科学は利便性の代わりに日常から浪漫を奪っていく。シラノが手を伸ばした月世界は既にこの世界から失われて、高みへと昇るのは煙や馬鹿だけになってしまった。あるいは、煙か馬鹿かと決めつけるようになってしまった。

「今みたいにただ楽しむための場所じゃなくて、昔は普段見ることの出来ない高みを経験するために、見えない世界を見るために出来たのかもしれない。そっちの方が、ロマンティックじゃない?」

 冬麻さんは笑って言った。確かに、その方がロマンティックだ。正しいとか正しくないとか、そういう話は置いておいて、ロマンティックだ。

「でも、月世界はあると思うんだ。そこには本当にシラノの気に入った魂が居て、待っている」

「月面の裏にでもあるって言いたいのか?」

「ううん、違う。多分シラノが言った月っていうのは比喩なんだ。本当に空に浮かぶ月じゃなくて、理想として掲げた場所。天国の言い換えみたいなものかな。だから、月の上にシラノの望んだ月世界がなかったとしても、どこかに月世界はあるんだよ。地球の底かもしれないし、宇宙の隅っこかもしれないし、形而上的な概念としてかもしれない。それでも、きっとある」

「……さて、そうかね」

「さあ、本当にそうかは死んだことがないから私にも分からない。ただ、少なくとも、そうやって生きていた方が気が楽になると思わない?」

 死せば望んだ理想の世界へと飛び立つことが出来る。宗教的な色の強いその考えは彼女の属している信仰のもとのものなのかと考える。終末を希うような予言とは相反する、死を予期するような思想。アンビバレンスだと思うのは、僕が宗教に対しての造詣が浅いからだろうか。

 近付きつつある橙色の空には薄く月が見える。星条旗が立てられ、科学的な解明がされつつある非ロマンティックな月が。

 冬麻さんは眼下を見る。屋上から見下ろしていたような目で、じっと遠い地面を見つめている。屋上という場所ではなく、彼女にとって大切なのは高い場所なのかもしれない。本来であれば手の届かない理想へと飛躍するために必要な高さを必要としているのかもしれない。

 ゴンドラが、頂点に達する。限界まで空へと近付く。その時、僕は窓外ではなく冬麻さんの横顔を見ていた。今にも壊れそうな、危うい美しさを孕む彼女の横顔を。

 その顔は終末を希う信者の顔でも、終末を救う英雄の顔でも、ただの女子高生の顔でもない、不思議な強さを持った彼女だけにしか見せることの出来ない表情を携えていた。

 その表情を言葉にすることは、不可能ではないのだろう。広辞苑を捲り、詩の才があれば、人を感動させるような説明をつけることは幾らでも出来ることなのだと思う。けれど、哀しみという感情がその四音だけで全てを語ることが出来ないように、そしてそれ以上を付け加えようとすればするほど本質から離れていってしまうように、今の彼女の表情を言葉にしようとする行為は畏れるべき行為である気がした。少しでも誤れば何かが決定的に歪んでしまって、もう元に戻ることはないような予感がした。

 ほんの一瞬のことだったはずだ、ゴンドラが最も高い位置にいるのは。けれど、その時間はやけに長く感じて、その表情は好むと好まざるに関わらず忘れることが出来ない領域へと仕舞い込まれる。彼女が何を考えていたのか、その本質的な部分は分からないままで、カーペットに滲み込んだコーヒーのように黒々と僕の心の一部分を占拠した。

 頂点を過ぎたところで、ふと思い出したように冬麻さんは目線を窓外から僕の方へと変える。今更逸らしようもなくて、目が合う。彼女の黒猫のような目は僕の方を見て悪戯っぽく細くなった。

「ねえ、さっきから私の顔をじろじろ見てるけどどうかしたの?」

「別に、どうかしてるわけじゃないけど」

「けど?」

「……見惚れてたんじゃないかな、恐らく」

 面倒くさくなって放るように言う。まるっきりの真実というわけではないけれど、まるっきりの嘘というわけでもないのだ、これで十分だろう。

「なんか投げやりな気がするんだけど」

「気のせいだよ」

「素直に褒めることが出来ないかな」

「見惚れたかどうかは褒めるとは別の話だろ。それに、褒めるみたいな話じゃなくて事実君は美人だ」

「結構あけすけにそういうこと言えちゃうんだねえ、君って」

「気障ったらしい告白ならともかく、事実確認に恥じらいを挟むような感受性を持っていたなら義務教育は乗り越えられないさ」

「そこまで言われるとただの事実確認だからっていうことを盾にしてるようにも聞こえるんだけど」

 あるいは、そうかもしれないけれどこれ以上反駁をすると良くない方向に話が捻じれそうな気がして、「さあ」と呟くように言いながら誤魔化すように視線を窓の外に移した。既にだいぶゴンドラは落ちていて、地面はすぐそこにある。

「もうすぐ終わるな」

「うん、結構楽しかったね」

「それなら良かったよ」

「山名君は?」

 その質問は、観覧車というよりも一日遊園地で遊んでいたことに対してのものに思えてどうだろうか、と考える。純粋にこの時間と向き合い続けるにしては、僕は要らないことを考えすぎた。子供のような無邪気な楽しみ方だけを楽しいというのであれば、違うというのが答えだろう。

 ただ、時間を忘れていたことは確かだった。それほどに目の前の物事に没頭が出来ていたのであれば、楽しかったと断ずるのは嘘ではないだろうから。「楽しかったよ」と相槌を打つ。ここでわざわざ楽しくなかったと答えるのはそれが真実であれ不必要なことだ。

「なら、良かった」と冬麻さんは安堵したような声色を漏らした。どうやら間違いではない選択肢を選ぶことは出来たらしい。

 感慨らしい感慨もないままでゴンドラが最も下まで到達すると、係員がドアを開け、最初に冬麻さんが、次に僕が下りていく。数分振りに踏んだ地面はなんだか奇妙な感触がしているような気がして、宇宙飛行士は地球に戻って来た時さぞ大変なのだろうと、場違いなことを考える。

「帰るか」

「うん」

 既にこの遊園地で出来ることはした。入園料から考えれば、かなり充実した時間を過ごすことが出来たんじゃないだろうかと思う。そういう意味ではこの遊園地もなかなか良い場所だったけれど、だからといって人が訪れると満足に遊ぶことが出来なくなって割に合わない場所に変わるだろうからこのくらいの人入りがこの場所には適しているのかもしれない。採算は度外視での話だけれども。

 相変わらず閑散とした遊園地の中を進む。この場所に人が溢れかえる光景を上手く想像することが出来ないけれど、それでもいつかは人で溢れかえっていたこともあるのだろう。あるいは、休日になれば人が増えることもあるのだろうか。いずれにしてももう行くことがないであろう僕にとっては関係のない話ではあった。見えない死に同情することが出来ないように、人は所詮その人の生きている範囲でしか世界と接することが出来ない。

 出口の近くに建てられていた時計を見ると時間は丁度真面目に学校に行っていれば放課後になるという時間だった。

「どうする? この後。行こうと思えばもうひとつくらいやりたいことリストの物事を消化出来ると思うけど」

 遊園地と同じくらいの場所へ行くことは難しいだろうけれど、カラオケくらいであれば特に問題もなく行くことが出来るだろう。二人であればどれだけ長く居ようとしても条例に違反するような時間ほど遅くなるということはないはずだ。

「ごめん、これ以上遅くはなれないから」

 ただ、冬麻さんはそう言って寂しさを誤魔化すように笑った。まだ、夕暮れ時だ。高校生が遅くなることを心配するような時間にしてはあまりにも早すぎる。けれど、人には人の事情があるだろうし、元より彼女の願望を叶えることが一番の目的なのだ。僕が無理に連れ出そうとするのは本末転倒と言える。

「分かった」と頷いた時、僕は漠然と厳しい家なんだろうというくらいにしか物事を考えていなかった。それ以上に深入りするのは、礼を欠いたような行為なのではないかと大人しく引き下がった。ただ、少し立ち止まって考えるべきだったのかもしれない。今の言葉の端から彼女の家庭の事情を垣間見ることは不可能だろうが、それでも高校生の娘に下校時刻の後すぐに帰らなければいけないような門限を与えることは一種の歪みでもあったのだろうから。勿論、そんなことが全てが終わった後にしか言うことの出来ない結果論だということも分かっているつもりだけれども。

 ゲートから出ても、特に何かが変わったような感覚はなかった。ゲートをひとつ跨げば感覚が変わるほどに、この遊園地は世界観を作ってはいない。僕たちは立ち止まるようなこともなく、砂漠の中を歩くように黙々と来た道を引き返して駅の方へと向かっていく。

 下校時刻になったからか、駅の中はまばらに制服姿の学生が見えるようになっていて、朝の時とは反対に冬麻さんの姿は自然と風景の中に溶け込んでいるような気がした。むしろ、制服姿の少女と並んで立っている私服姿の僕が悪く目立っているような気がするのは、パラノイアじみた自意識に過ぎないのか、それとも実際にそうなのか。

 僕たちは学生の波に逆らうようにしてホームへと向かい、丁度良く滑り込んできた電車に乗る。席に着くと行きとは異なり他の席にも余裕なく人が座ったせいで服の裾が擦れ合うような距離になる。あのゴンドラの中よりも近い、今にも触れそうな距離。けれど、あの時のような不思議な感覚にはならなかった。やはり、人間は向かい合うことが大事なのだろう。良い意味でも、悪い意味でも。

 会話はなかった。それは他の客が居たから話すことを憚られたからでもあり、またもう話すようなことがないからでもあった。沈黙は苦痛ではなくて、ただゆっくりと慣れていない新たな日常へと慣れていくための休息時間のように感じる。

 こういう時であれば、世界くらい終わってもいいかもしれない。そんなことを考えて、僕は自分が自覚していたよりも今日という一日が嫌いじゃなかったことに気が付いた。

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