3

 屋上から見上げる空はくすんだ灰色をしていた。晴れの日は嫌いで、けれど雨の日も好きではない。外で吸っていると、煙草の火が消えることがあるから。だから晴れと雨の境界線上に立つような今ほどの天気が最も好きで、しかし境界線上にあるということはいつどちらに転がるか分からないという焦燥のようなものを覚えることもある。

 天気予報を確認するほど世界に対する関心はなくて、降らなければいいと思いながら僕は煙草をくゆらせる。慣れているつもりではあったけれど、流石に冬の曇天の下は寒い。指の先が赤くなり、痛みにも似た熱を帯びていることが分かる。

 世界が終わる前にやっておきたいこと。硬く薄汚れたベンチに座りながら以前、冬麻さんが言っていたことをぼんやりと考える。本当に、僕は何もやりたいことがないのだろうか。冷笑的なポーズを取っているだけで、人並みにどうしても行いたい欲求があるのではないだろうか。

 答えはない、だ。空転をし始めた思考を叩きつけるように放棄して自嘲する。中身のない瓶をどれだけ振っても何も出てこないようなものだ。あるものがあるように、ないものはないというのもまた絶対的で揺るがない事実である。

 それでも諦め悪くあるのではないかという考えが頭を過ったのは、自分の中にも人並みの祈りがあればもう少しマシな生き方が出来るのかもしれないという希望にも似た感情のせいだった。ない希望に縋ることほど惨めな行為はないというのに、そんなもしもを考えてしまう。

「山名君」

 そのせいだった。彼女が近づいていることに気が付くのが遅れたのは。

 彼女は最初に見た時と全く同じように制服に赤いマフラーと言った姿で立っていた。想定はしていたことだ。あるいは、僕は彼女が来るのを待つためにこうして座っていたのかもしれない。それでも、微睡のような思考の淵から現実に引き揚げられたことに戸惑うのは仕方のないことだった。

「……また来たのか」

「うん、今のうちに慣れておかないと」

「何に?」

「世界を救うのに」

 ああ、と小さく一人納得する。彼女の言っていた練習というのは世界を救う練習だったのか。屋上にて世界を救う。いつだかテレビで見た、UFOを呼ぶ安っぽい儀式を思い出す。それを世界を救うための行為と比較するのは失礼なことかもしれないけれど、僕からしてみれば同じくらいに現実味のない話だった。

 予言とはどういうものなのかとか、世界をどうやって救うのかとか、そういう話に興味がないと言えば嘘になるけれどしても意味がないことは分かっている。愛について語ることが言語批判に過ぎないように、存在のしない空想について語ることは何も生まない。

 だから、僕はまだ現実的な話を彼女にすることにした。建設的かは分からないけれど、実体のあることについて話をする方が気が楽だからという理由でもある。

「世界を救う準備は終わったのか?」

「そうだね、終わった。でも元から準備が必要なものではないから、終わったというのは少し違うかも」

「救世主サマはすごいんだな」

「別に、すごくはないってば。たまたまでそれ以上の価値なんてないからさ」

「アルベルト・アインシュタインだってジョン・フォン・ノイマンだって、偶然天才に生まれたから天才として名を残しているだけだ。天才だとか言われるような人っていうのは結局遺伝子と環境によって偶然作られたものに過ぎないんだよ」

「随分シニカルな見方をするんだね」

「処世術さ」

 鬱病というものは自己欺瞞能力を失った人間が陥る症状だと、どこかで聞いたことがある。人間は、真っ当に世界を見つめることが出来るほどには強くないのだ。

「煙草、貰っていい?」

「一本だけならな」

 箱を振るようにして一本を出し、彼女の方に差し向ける。彼女がそれを取った後で自分の分も取り出し、ライターで火を点ける。

「ほら、煙草を近づけて」

「ああ、うん。ありがとう」

 以前と同じように彼女が両手で煙草を覆い、僕がその隙間から火を点ける。彼女だってもうやり方は覚えただろうし、貸すだけでも良かったかと思ったのは既に彼女の咥えた煙草に火が点いた後のことだった。

 吐き出した紫煙は灰色の空に溶けてすぐに見えなくなる。僕たちの疚しい行いを隠すように、煙は世界に紛れてゆく。

 冬麻さんは、今日もフェンスの方へ向かい、街を見下ろす。見てはいないけれど、僕はそこに何があるのか知っている。勿論、日々は移ろい世界は変わる。けれど、本当にそうなのかと疑うほどにここから見下ろす街並みは変わり映えしない。道路を行き交う車も、歩道を進む人々も、本当は自由な意志なんてなくて世界に決められて毎日同じように配置されているんじゃないかとさえ思う。

「面白いものでも見えるのか?」

「まあ、あんまり面白くはないかな」

「退屈なものを見つめ続けて、気でも狂わないか」

「既に狂えるだけ狂ってるんじゃないかな、私は」

 自嘲的で俯瞰的な答え。彼女はもしかしたら、自らの価値観や信念が一般とはズレたものだということを自覚しているのかもしれない。しかし、そうであれば何故彼女は僕に終末の予言を語らったのだろう。狂っていると思うような考えであれば、棄ててしまえばいいだろうに。それとも、全く別の点で自分のことを狂っていると称したのか、単なるアイロニーだったのか。表情の見えない彼女の感情を読み取ることは僕には出来ない。

「そう言えば」と僕は腰を浮かせながら言う。確実に聞こえるように声を張ることと立ち上がって冬麻さんの傍に立つこと。どちらかと言えば後者の方が億劫ではないという判断からだった。

「君のやりたいことって何なんだ?」

 困るほどあるとは言っていたけど、具体的に何があるのかは聞いていない。世界が終わるとして、冬麻さんは何を望むのか。何が、彼女にとっての後悔なのか。

「そうだなあ」と冬麻さんは街並みを見下ろしながらぼやくように呟く。

「例えばカラオケに行ってみたいとか」

「行ったことないのか」

「うん。後は放課後にカフェとかで駄弁ってみたいとか。遊園地に行ってみたいとか」

 それから、と付け加えられ続ける冬麻さんのしたいことは、殆どがなんてことのないことや簡単に行けるような場所についての話で、違和感を覚える。どうして、今すぐにそれらを行わないのだろうか。世界が終わる寸前でなければ出来ないような事柄でもない。こんな屋上にいるくらいなら、やりたいことをしたり行きたい場所へ行く方がよっぽど生産的と言える。

 それなのにどうして、というクエスチョンの果ては、答えを模索しようとして頭を捻らせるまでもなく、あっさりと辿り着くことが出来たような気がした。

 彼女の行いたいことの影には他人がいる。

 カラオケに行くこともカフェに行くことも遊園地に行くことも、どれも特別なことではなくて一人でだって出来ることだ。けれど、多くの高校生にとってそれらの場所は、友人と行くような場所だ。そしてそのイメージは浮世離れしているように見える冬麻さんの中にもきっと確固として存在している。

 後回しにしているわけではない。教室での孤立を見れば分かるように、彼女は、それらを理想のかたちで行うことが出来ないのだ。

 どれほど孤独で孤高に見える人間であったとしても、結局人は完全に孤独になることは出来ない。いつか愛の発作が訪れて、他人との触れ合いを求めてしまう。それは食物に対する飢えのような人間の根底にこびりついた本能の話で、考えてみれば、あるいは考えるまでもなく当然のことのように思えた。

 一人きりでいることの出来る彼女の強さの、その反動としての脆さ。世界の終わりなんていう絶対的なデッドエンドの中で、ありふれた日常に手を伸ばさざるを得ない不器用さ。それが冬麻久々利という人間なのだろう。

 あと一ヶ月で、彼女はそれを行うことが出来るのだろうか。そんな感傷主義的な思考に浸かりかけて、違うかと独り言ちる。あと一ヶ月では世界は滅ばない。それに、仮に彼女の言葉通りの終末が訪れるとしても、彼女が世界を救い世界は続いていくのだ。何もこの一ヶ月でその問題を解決する必要はない。

 ただ、ならば彼女の周りに漂う寂しげな焦燥はどこから由来するものなのだろうか。自らが救うと言っておきながらまるで世界が一ヶ月後に終わることを信じきっているような、アンビバレンスな状態。

 消化し切ることの出来ない違和感を抱えていると、冬麻さんは身を翻して視線を眼下から屋上の方へと視線を戻す。そう言えば、今日は咳き込んでいないということに気が付く。もう慣れたのか。慣れたからと言って、褒められるようなものではないけれど。

「くだらないことばかりでしょ?」

 冬麻さんは夜のような冷たさを持って微笑んだ。そこには終末論者としての異様さや学校で祈りを捧げるような異質さは見えず、ただの高校生としての寂寥を詰め込んだような、あどけない哀しみがあるように感じた。

「……さあな。事象に価値を見出すのは個人であって常識じゃない。くだらないことではないんじゃないか」

「そうかな」

「例えば、叶わない恋のために拳銃自殺をした人間がいる。たかだか恋だ。そんなもののために、その男は死んだんだ。けれど、その男にとっては死ぬより他に方法がなかった。彼にとっては、その恋こそが世界の中心だったんだから」

 男だって分かっていた。自らの執着が歪で子供じみたものだということを。それでも、彼は衝動を止めることが出来なかった。自らの恋を諦めることが出来ず、けれどその恋が叶うことはないという矛盾に陥り、自らの命を絶った。

「それを愚かだと言うのは簡単なことなんだろう。ただ、少なくとも僕は過ちだとか気の迷いだとか言って切り捨てたくない。常識の尺度とは別に極めて個人的な物差しというものがそれぞれの人間には備わっていて、それを蔑ろにするべきではないんだよ」

 他人からすればくだらないことがその人を殺すかもしれないし、救うかもしれない。人生なんて、そんなものの連続だ。ご大層な問題や現実に向き合って、それだけに影響を受けて死ねる者などいるはずがない。

「……ありがとう」

「別に、冬麻さんを擁護しようとして言ったわけじゃない。単に考えていたことを言っただけだ」

「確かにそうなのかもしれないけど、でも私は嬉しかったから。だから、ありがとう」

「……どういたしまして」

 久しぶりに他人に礼を言われた気がした。誰の手も借りない代わりに誰にも手を貸さない。そんなような生き方をしてきたせいだった。

 煙草から伸びた灰がぽとりと落ちて、火を点けてからろくに吸えていなかったことに気付いて口をつける。命を蝕むだけの煙が肺に染み込んでいることを実感するのは、ただの錯覚なのだろうか。

「冬麻さん」

「何? 山名君」

「世界が終わる前にやりたいこと、手伝おうか?」

 思わず口から出た言葉は彼女のためを思ってのことなのか、それとも愛の発作に耐えられず他人を求めた利己的なものなのかは分からなかった。ただ、世界が終わるとしてもやりたいことのひとつもない空っぽな人間によるルサンチマンであることも確かだった。やりたいことがあるのに手を伸ばさないことに対する嫉妬混じりの憧憬。あるいは、同位体とも言えるような彼女を救うことで僕自身を救おうとしているのかもしれない。

「……どうしてそんなことを言うの?」

「さあ、どうしてなんだろうな。ただ、いかなる動機であったとしても手伝いたいと思っていることは本心だよ」

「私、何も返せないよ」

「世界を救ってくれるんだろ」

「それは、私の使命だから。誰かに何かをしてもらうためのことじゃなくて、私がしなければならないことだから」

 血を吐き出すように吐き出された言葉は小さな慟哭に聞こえた。世界を救わなければいけない使命。もしも本当にそれを信じて生きてきたのだとすれば、その思いは呪いに似ている。世界なんて、女子高生が背負うものではないのだ。

「それに、どうせ暇なんだ。何に付き合うにしても屋上で意味もなく煙草をふかしてるよりはマシだろ」

「ふふ、確かにそれはそうかも」

「まあ、強要はしない。独りの方が良いというのであればそれでいいだろうし、つい先日話したばかりの男が薄気味悪いというならそれもまたこれ以上なく正しい理由ではあるからな」

 不用意に首を突っ込んでかき回したいわけではない。あくまでも目的を遂行するためのツールとして、便利なのであれば使って欲しいという程度のものだ。彼女が拒絶をするなら、そこを押し通したい理由もない。

 短くなった煙草の火を携帯灰皿に押し付けて消し、棄てる。ポケットに入った箱を触り、そして、それだけだった。新しい一本を取り出すようなことはなく、冬麻さんの反応を窺う。

「変わってるね、山名君は」

「自覚はしているつもりだよ」

「そうかもしれない。でも多分君が思っているよりもずっと」

「誉め言葉として受け取っておくよ」

「うん、そうして貰えると助かる」

 冬麻さんはくすくすと笑った。年相応に崩れた彼女の表情を見るのは初めてな気がする。少しだけ、完璧に閉ざされていた殻の隙間を垣間見た気がした。

「じゃあ、お願いしてもいい?」

「出来る範囲のことであれば」

「私がやりたいことは、全部難しいことじゃないよ」

 韜晦ではなく、そうなんだろうなと思う。今まで通り過ぎた失われたものを拾うことこそがきっと、彼女の目的なのだから。

「ならやりたいことを決めておいてくれ。僕に出来ることは手助けだけだから」

「分かった。終わりが来る前に、頑張ってリストアップしておくことにする」

 冬麻さんははにかんだ。それは柔らかさと翳りを含んだ、黄昏のような表情だった。

 そうして僕たちの日々が始まる。終わりへと向かう、終わるためだけの一か月が。

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