In the Shopping Mall.

1

 二日も続けて電車に乗り、遠い街へと向かうことになるとは思わなかった。

 向かう方向は前日と同じであれば、二つの場所の距離は少なからず離れている。街こそが世界の全てであり、一種の牢獄であるあの頃の僕たちからすれば、彼女の通っていた高校はかなり離れていると形容してもよい場所にあった。

 電車に揺られながら、文庫本を開く。けれど、文字は目を滑って全く頭に入って来ず、同じ節を三度読み返したところで諦めて本を閉じた。落ち着かない。落ち着けるわけがない。だから、せめて少しでもフラットな状態にしようと足掻くために目を瞑りながら座席に凭れる。

 昨日、僕は今まで通りの表情をして遠羽に別れを告げることが出来ただろうか。彼女が嘘を吐いているにしても、吐いていないにしても、態度は平静を装っていた方がいい。特別おかしな言動をしたつもりはないけれど、そのようなものは外から見なければ分からないものだ。あるいは、何かをあからさまに表出していることはなくても、何かを感じ取られていたかもしれない。ただ、その後悔をしたところで既に遅い。全ては終わってしまっていて、今するべきは過去を眺めることではなくて次を見据えて覚悟を決めることだろう。

 仮にこれで彼女と僕の過去が存在しないことが証明されたとして、それで僕は幸せなのだろうかと考える。記憶を改竄していなかったと、自分を裏切っていなかったということが証明されることは僕が孤独の中で育み続けたものが肯われるということであり、安堵を与えてくれることは確かだ。それなのに本当にそれでいいのだろうかという疑念のようなものが浮かび上がってきているのは、この僅かな期間で既に遠羽に対して同情のような気持ちが湧いてしまってからなのだろうか。

 確かな理由として考えられるのは、仮に彼女が嘘を吐いていたとしてもその嘘が僕にどのような害を与えるのかを想像することが出来ていないところにあるのだと思う。彼女と出会い、話すことに今のところ僕は分かりやすい損失を被っていない。嘘だったところで、だからどうしたと割り切ってしまえる問題なのだ。

 ただ、それは僕が分かっていないからに過ぎないのだろう。そのような癖を持っているという特殊なケースでない限り、意図的な嘘の裏柄には思惑が存在している。現状において僕に損失はないように思えても、それは安心させるための罠だと考えるのが自然だろう。意味もなく嘘を吐いて旧友を騙ることは、有り得ない。

 まず真っ先に浮かんだのは遊上の言っていた詐欺だった。赤の他人の話なら耳を貸さずとも、昔仲が良かった人間の言葉であればどれほど疑わしい話であってとしても耳に入れるくらいはする。そして、そうなればただの一般人が騙すことに長け、場数を踏んだ嘘吐きに叶うはずがない。

 勿論、僕は彼女が嘘を吐く可能性を念頭に置いている。それでも、いざという時、人は簡単に騙されることになるのだ。騙されるつもりはないと思い込んでいる人間であるほどに。

 孤独の牙城はトロイアに似ている。どれほど強固に築かれたものであっても、一度気を許し内側に入れてしまえばそこから容易く崩れ落ちることになる。だからこそ、その一撃を貰わないように警戒をしなければならない。安易に他人の温度に縋るのは、自殺だ。

 だからこそ、嘘を吐いているのであればその時点で拒絶をしなければならない。愛の発作に流され、他人を信用した結果として今までの自分を否定し、今の自分すらも壊してしまえば僕の元には何も残らない。そんな状況で生きていくのは、あまりにも辛すぎる。

 後ろ向きな思考のせいで微睡の波が押し寄せることはなく、無機質なアナウンスで降りるべき駅が近付いてきたことを知る。目を開き、次の駅が表示されているトレインビジョンを見る。記憶の限りにおいて初めて降りるその駅の名前は、なんだか酷く奇妙で現実的ではないもののように思えた。

 僕の高校は裏に山があるような、自然に囲われた閑散とした場所だったけれど、彼女の通っていた高校はコンクリートに囲われた街の中にある。駅に降りると昨日のような虚しい広がりではなくて、人の生きた気配が染み付いていた。けれど、そこには人間的な温かさのようなものは存在していなくて、ただの社会という機構の一部に過ぎないということを感じる。人の温もりのようなものが好きになれない僕からすると、そうした温度感は肌に馴染んだ。

 改札を出て、辺りを見回す。やはり、この道には見覚えがなくて、続く道の先に何があるのかは全く見当がつかない。取り敢えず、地図に載っていた彼女の通っていた高校の方へと向かって行く。そこに何かしらの記憶があるとは思わないけれど、他に可能性のある場所の検討はつかなくて、向かってみるほかにない。

 街の中を進む。地図を見ながら、少しずつ進んで行く。時間としてはまだ高校生は授業を受けている時間で、街中はやけに静かだった。

 道を曲がる度に、本当に合っているのかという風に地図で確認をする。その動作は明らかに自分がこの道を知らないことを証明している。高校へと着いた頃には、自分がこの場所を訪れたことがないことが証明されたような気分だった。

 駅へと引き返しながら、学校の近くという範囲について考える。二駅か三駅ほどの範囲であれば、近いと言えるだろうか。考えてみれば、彼女が学校の側を選ぶようにも思えない。僕たちが会っていたとして、この場所ではないのだろう。

 再び道々を見返しながら戻っても、見覚えはない。身体が道順を覚えているというような感覚もまた同様に、ない。電車に乗り、隣の駅へと向かう。

 正解は分からない。それでも、当たり続ければ正解が分かるというだけあって、終わりは明確に見えている。早まる気持ちを持て余しながら、僕は次の駅で降りる。先の駅よりは人の気配がしないけれど、それでも駅員は居る程度には人の温度がする。今度は遠羽の通っていた高校のように明確に向かうべき場所があるわけではないけれど、もしも僕がこの街に寄るのだとすれば向かうであろう幾つかの場所に目星をつけてそこへ向けて歩いて行く。

 一時間ほどの探索も虚しく、成果は相変わらず生まれない。駅へと戻り、電車に乗って次の駅へと向かう。そこを終えれば次の駅へ、更に次の駅へ。何かを食べることも飲むことも忘れ、疲労すら意識の外に置かれながら僕は巡礼のように歩き続ける。答えを探して、あるいは、答えは出ないという答えを探して。

 気が付くと、日は落ち始めている。時計は見ていないけれど、燃えるような色をした空を見るに時間はかなり経ってしまっていたことが分かる。これで最後にしよう。そう思いながら、僕はまた電車を降りて街へと出る。

 彼女が学校に通っていた駅から下り、上りともに五つずつ、現在居る場所も含めて計十個の駅の周辺を周った。これだけの範囲を周れば、およそ彼女が近いと表していた範囲に入るだろう。

 ただ、今までの九つはいずれも何も感じることがなかった。ひとつの確信を持って言える。僕はあれらの駅で降りたことはなかったのだ。

 人間の記憶の中には大きく分けてエピソード記憶と意味記憶の二種類が存在していると言われている。エピソード記憶は言葉のまま、どういう出来事が起こったのかという個人的な体験として想起されるものであり、意味記憶は知識と言われるような個人的な意志や感情の介入する余地のない情報のことを言う。

 一般的にイメージされる記憶障害の人間は主として意味記憶を保持したままエピソード記憶を失ってしまっているという場合が多いだろう。幼い頃に何をしたのかを忘れてしまっていても、一日が何時間であるか、信号は何色で渡れば良いのかというようなことは覚えている。実際、記憶に関する障害は意味記憶よりもエピソード記憶の選択的損傷例の方が多い。

 それと同じように、記憶の改竄もまた、作成、削除することが出来るのはエピソード記憶だけであって、意味記憶に干渉することは出来ない。それは単純に技術的な問題なのかもしれないし、倫理的な問題なのかもしれない。ともかく、記憶を作成することでテストに合格をすることは出来ないし、記憶を削除することで一切の常識的な判断が出来なくなるようなことは有り得ない。

 彼女と共に歩いた記憶は個人的な体験として、エピソードとして記憶されているはずだ。だからこそ、記憶を消したという仮定が成り立つ。けれど、彼女と歩いていた道ならばどうだろう。彼女自身と歩いたという記憶はなくなっても、それは個人的な感情などの介入しない、意味的な記憶であるはずだ。

 勿論、それが片手で数えられるほどであればエピソードとして記録される。植物園や美術館に行った記憶がないのは、それらが場所という情報ではなく出来事というエピソードとして記録されたものだからだろう。しかし、習慣的に何度も通っていた場所ならば、それは違うはずだ。個人的な感情の介入しない情報として記録されることになり、意味記憶として保存され、想起される。僕と彼女が会っていた場所が彼女の高校の周辺なのであれば、その道でどのようなことが起こったのか、という記憶は別としてこの先に何があるのか、あるいはもっと漠然とした既視感のようなものを覚えるべきなのだ。

 けれど、歩いても、歩いても、僕の意識は何も反応を示さない。意識的な想起はおろか、無意識的な感覚すらもこの場所を知らないと告げている。それは彼女の語った過去が存在しないものであるということを証明しているものであった。

 意味記憶を元に考えるのであれば、駅名が馴染みのある音ではなかった時点で疑い、存在しなかったと言ってもいいのかもしれない。それでも足を進めたのは決定をしてしまうのが恐ろしかったからだと思う。誰かを決定的に拒絶をするのであれば、間違いがあってはならない。本当にその人物が拒絶をするべき人間かを確かに見定めなければならない。

 あるいは、僕は過去に自らを必要としてくれた、好きだと言ってくれた幼馴染が居て欲しかったのだろう。空虚なまま哀しい音だけが反響する孤独を埋めてくれる存在が自分にも居たのだという幻想に縋りたかったのだ。

 けれど、現実が物語のように劇的なはずがない。僕にはそのような僕だけの誰かなんていう存在は居やしない。利己的な意図が存在している、質の悪い虚構で出来た泥濘に過ぎなかったのだ。

 虚しさを内臓のように携えながら、駅へと戻る。閑散とした住宅街を抜けると、夕闇の中で眩しいほどに光を発した駅はすぐに目についた。引き摺るように歩を進めると踏切の音がする。走れば、間に合うかもしれない。けれど、走るだけの気力はなくて、僕には時間が有り余っていた。電車が駅に這入っていくのをぼうっと眺めながら僕は進んで行く。

 電車の過ぎ去った音を聞き終えた後で駅へと這入る。彼女の高校から僕の高校の方へと五つ近寄ったこの場所はどちらかというと僕の生まれた場所に近くなっていて、この駅もまた閑散としていた。昨日僕たちが降りた駅と同じくらい寂しい場所と言えるかもしれない。

 彼女の高校から、と考えたけれど、果たして本当に彼女はあの高校に通っていたのだろうか。それすらも分からない。本当は彼女は、あの高校にすらも通っていなかったのではないだろうか。

 どこからが嘘なのだろう。同じ小学校、中学校に通っていたことも嘘なのだろうか。僕と同じ学校に通っていた少女の名前を騙り、アルバムで見つけた少女は牽強付会な見方をしていたからこそ今の彼女と合わさって見えたというだけなのかもしれない。人間の思い込みは容易く現実を変え得る。

 違う、と否定する。そこまで疑い始めれば何も信じることは出来ない。あのアルバムに載っていたのは確かに昨日一緒に海を歩いた遠羽字だった。ならば、小学校、中学校が同じだったということは事実なのだろう。そこまでの話における疑念は取り去っても良い。

 ただ、遊上の言っていた通り、同じ学校に通っていたという事実は関係性が存在していたという事実の十分条件ではない。僕たちは同じ学校に属していただけで、彼女が語らったような特別な関係を持っていたわけではなかったのだ。

 高校からのエピソードは、全てが虚構で作られたものなのだろう。植物園に行ったということも、美術館に行ったということも、自らの高校の近くで一緒に時間を過ごしてたということも、何もかもが嘘だ。存在しない物語なのだ。

 例えそれが嘘であっても、その話に騙され続けるのは悪いことではないんじゃないだろうか、という考えが一瞬頭を過った。しかし、それが下賤な愛の発作に過ぎないことは分かっていて、思考から断ち切る。空虚な愛を求めて、その先に何があるのだろうか。何もないのであれば、まだましだ。その裏に何かしらの彼女の意図が存在するのは必定であり、大仕掛けなペテンまで用意していたということはそれが僕にとって悪いものであることは言うまでもない。ならば、拒絶をしなければならない。一度ばらばらになった孤独は、もう二度と元に戻ることはないのだから。

 吐き気がするような話だと思う。彼女はぬけぬけと存在しない過去を騙り、好意を騙った。素晴らしいと言いたくなるような鮮やかさだ。最悪に、反吐が出る。

 どうして彼女は僕なんかを選んだのだろうかと思う。僕が通っていた中学校は公立であり、小学校の人間は殆どが同じ中学校へとエスカレーター式に上がっていった。同じ幼少期を過ごしたというイメージをつけたいのであれば僕以外にも当てはまる人間は山ほど居ただろうし、その殆どは、あるいは全員は僕よりもましな人間だろう。地位も金も、僕より十分に持っているはずだ。

 むしろ、そんな最底辺に属している人間だからこそ、狙いやすいと思ったのかもしれない。人間に対する免疫が存在せず、甘い言葉を囁けばすぐに騙されると思ったのかもしれない。そうなのだとすれば、彼女にとってのイレギュラーは僕が記憶の改竄に対して一般人からすれば異常とも言える嫌悪感を持っていたことなんだろうと思う。それがなければ、僕はきっと彼女の存在をさして疑うこともなく、自らの存在しなかった過ちを認めて彼女を受け入れていただろう。

 しかし、受け入れていたとして、彼女はその労力に見合ったものを得ることが出来ていたのだろうかと考える。勿論、僕からしてみれば虚構で固められた愛に酔い、孤立の泥濘に沈んでいくのは最悪なことだ。ただ、それは僕の視点から見た損の話であって、貶めた側である彼女の得は僕の損と釣り合うわけではない。例えば、人を騙して惨めに嘆くさまを見るのが好きだというのであれば得はあるのかもしれないけれど、もっと効率の良い方法はあるはずだ。わざわざ海へと赴き、一緒に砂浜を歩く理由は存在しなかった。

 彼女は嘘を吐いている。しかし、彼女の嘘はあまりにも不合理なものである。矛盾しているように見える二つの事実が、心の中に引っかかっていた。

 ただ、矛盾しているように見える、という見方が間違いなのだ。現実は物語のように理性的に進まない。特に、人間の悪意は時として理性的な想像力を大きく超えて牙を剥く。論理や常識なんていうものを軽々と否定して人に襲い掛かってくることを、僕は知っている。

 彼女の嘘の真意は、そうした僕の理解の範疇を超えた悪意か、僕が認識することの出来ていない場所にある損得の問題なのだろう。自分から見える世界が全てなのだと自惚れない方がいい。自分には分からないものがあることを理解したうえで、分からないものが存在しているということを理解すれば、それで十分なのだ。人間は万能じゃないのだから。

 電車が訪れたことに気が付いたのは、それが目の前に止まり、視界が車内から漏れる光で一気に明るくなったからだった。意識が思考の深い部分へと落とされていて、音と接続されていなかったことを認識する。

 このまま乗り遅れれば、帰れなくなってしまうかもしれない、と漠然と思う。昔読んだ小説のことを思い出した。猫の住む街に迷い込み、帰ることが出来なくなった男の話。この街には猫が住んでいるわけではないけれど、そのような漠然とした不安が突然脳の裏側に走り、恐ろしくなって急いで電車へと飛び込んだ。

 僕がこれから帰るのは、孤独の街だ。特別な感情を持ち、関係を築いていた、好きだと言ってくれる幼馴染は存在せずに、自分だけの寂しいシェルターの中で世界から身を隠さなければならない独りだけの街。それこそが今まで通りであり、普通なのだ。そう割り切ることが出来ないのは、僕の弱さがゆえなのだろう。

 ドアに寄り掛かり、車窓から見える暗い街を眺めた。例え、帰ることが出来なくなる猫の街だったとしても良かったのかもしれないという気の迷いが生まれたことが嫌になって、誤魔化すように深く息を吸った。

 僕は生きている。生き続けている。ならば、再びこの孤独に慣れなければならない。どこまでいっても他人は他人に過ぎず、元より人間は独りで生きるしかない生き物なのだから。

 電車の鼓動と脳に回り始めた酸素は気分を落ち着かせるには十分だった。遠羽と関わった時間と、僕が孤独であり続けた時間。その比率を考えれば、孤独へと戻ることは難しいことではない。

 今日は、ひどく疲れた。それは歩き回ったせいでもあるけれど、それ以外に精神的な負荷がないかと問われればまた違うのだろう。意識が重力に押し潰されないようにと考えながら、僕は車窓から目を逸らした。

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