3

「笛吹?」という声に呼ばれて振り返ると、夕暮れ時の中でも白いコンビニの光を背に男が立っていた。逆光に照らされた顔を細かに認識するよりも先に、その男の正体が頭に浮かぶ。僕の人生において、誰かに話しかけられるとするならば、一人しか思い浮かばない。それがこの土地なら、尚更にその情報は速やかに意識へと上って来る。

「遊上か?」

「ああ、久しぶり。帰って来たんだな」

 遊上祐介は煙草の火を携帯灰皿に押し付けて消し、そのまま捨てこちらへと一歩進む。声音、態度、煙草。彼は相変わらず変わっていないらしい。

「もう戻って来ないかと思ってたよ」

「戻って来る予定はなかったんだが、少し必要が出て来たんだ。とは言っても、長く居たい場所じゃない。もう帰るところだけど」

「ま、そうだろうな。こんな場所に長く居座ろうとしているのであればそれはきっともうお前じゃない」

 記憶の欠落した僕を彼の認識しているままの僕と言えるのかは分からないけれど、少なくとも一貫している部分はある。地元が嫌いというようなアイデンティティは、遠羽の言葉を借りるのであれば僕の根源的な部分なのかもしれない。

「私、先に駅向かってるね」

「いや、別にそこまで話し込むつもりじゃない。もう行くよ」

「でも昔の知り合いなら君が知ろうとしていることを知ってるかもしれないでしょ。なら、聞いておいた方がいいんじゃない?」

 否定をするよりも先に彼女は歩き始めてしまう。遊上と話をしたくないかと問われれば、それもまた違うけれど、わざわざ足を止めて他人を待たせてまでするほどのことではないのに。けれど、追いかけるのも呼び止めるのも億劫で、折角だからと遊上の方に向き直る。

「悪いな、そういうつもりじゃなかったんだが」

「僕もそういうつもりじゃなかったよ。まあ、折角こうして時間を貰ったんだ。使わないのも損だろ。少し話そう」

「ああ」

 そう言うと彼はポケットから煙草の箱を取り出して自分の分の煙草を取り出し、続いて箱の中から一本を出した状態で僕の方に差し出してくる。僕はそれを受け取って、火を貰い、咥える。昔もこうして遊上から煙草を貰うことはあったけれど、いつになってもラッキーストライクの味には慣れない。

 遊上は、高校の頃に話すようになった友人だった。恐らく、僕の人生の中で友人と呼ぶことが出来る人間は彼以外に居なかっただろうと思う。彼は僕とは違うかたちで世界に馴染むことが出来ておらず、僕たちは時折話をするようになった。ただ、それは遠羽が語ったような共に依存し合うような関係ではなくて、時間と場所が偶然会えば話す程度の極めて希薄な関係だった。

「恋人か?」

「まさか」

「じゃあどうして女と一緒にここに来たんだよ」

「ただ、ここに来る必要がある事柄というのは彼女と一緒の方が熟しやすかったというだけだよ」

「その来る必要があった事柄ってのは?」

「説明をするのが酷く難しい問題なんだ」

 自らの中に記憶の欠如があるかもしれないという事情は説明するには簡単なものだったけれど、それを他人に吹聴することは簡単ではない。例え、それが遊上であったとしても。

 あるいは、遊上だからかもしれない。友人ではあるけれど、僕たちは必要以上に違いに踏み込むことはしないようにしていた。あくまでも時間を潰すためだけの、煙草のような使い方をする関係。だからこそ、見え透いたような嘘も彼であれば見逃すだろうという信頼があった。

 信頼通りに、遊上は「そうか」と頷いただけでそれ以上の詮索をすることはない。何もかもをあけすけに語らうような友情や信頼よりも、互いのことを明確に他人と認識している関係の方が真実に近い方がして、僕は好きだった。

「お前に恋人が出来るとは思ってなかったから、その方が納得は出来るな」

「君にとって僕はどういう風に見えてたんだよ」

「歯車を落とした機械」

「欠陥品ってことか」

「責めるなよ。お前だって俺のことを似たように思ってただろ」

「ああ」

 だからこそ、僕たちは対等に語らうことが出来たのだろう。互いが互いに人間的な欠陥を知っていて劣等感を覚える必要がないからこそ、見下し合っていたからこそ、僕たちは平等だったのだ。

「ま、そういう俺の見方が間違っていたとしても、何を間違えてもお前は恋人をここには連れて来ないだろ。いや、恋人だからこそ、ここには連れて来ないと言った方がいいか」

「こんなところ、誇れるような場所じゃないさ」

「父親には会ったのか?」

 遊上には、父の事情について簡単に述べたことがあった。母の死にまで言ってはいないけれど、それから端を発した記憶の改竄への嫌悪感も何度か話をした記憶がある。彼もまた、僕とは原因が異なれど記憶の改竄に対しては否定的であり、それもまた彼に対して親近感を覚える要因になっていた。

「ああ、会ったよ。運悪く」

「日頃の行いだろうな」

 まさしくそうなのだろう。

 何か悪事と呼べるようなことをしているわけでもないのに、そう納得をしてしまうあたりが、僕の性格を表しているな、と自嘲的に思う。

「何か変わってたか?」

「変わってると思うか?」

「ないだろうな。そういう生き方みたいなものは、どうしたって変えようがない」

 頷こうとして、言葉は濁る。僕の中で記憶の改竄に対する嫌悪はそういう生き方と言えるようなものであり、絶対的に揺らがないものだったはずだ。それでも、僕はその変わるはずのない、変えるべきではない部分を変えてしまった。歪めてしまった。

 変わらないことと、変わってしまうこと。どちらの方がましなのだろうかと考える。きっと、これに答えはないのだろうけれど。

「お前自身の方はどうなんだ」

「ここに居た時を延長したような、繰り返すような時間の連続だったよ。ただ、それが色々と変わることになった。ほんの少し前のことだから、勿体ぶって大層に言うべきことじゃないのかもしれないが、僕の中では決定的な意味を持つ酷く参っちまうような出来事だったんだ」

「時間に価値なんてないだろ。どれだけ短くてもそれだけの意味を持っているならそれで十分だろうし、逆にどれほど時間をかけても意味がないものは意味がないままだ」

 遊上は紫煙をくゆらせながら呟く。ゆっくりと肺に紫煙が溜まっていくのが分かる。

 夕闇の中でぼうっと行燈のように光る煙草の火がいやに明るく見えた。これが落ちれば何かが終わってしまうかのように果敢ない光だった。

「君の方はどうなんだ」

「何も変わらないよ、本当に何も。この街は変わらない。俺も変わらない。ような、なんて付ける必要もないほどに繰り返すだけの日々だ」

 代り映えのない日常の連続を是と取る人も居るのだろうけれど、まず間違いなく遊上はそうは捉えないだろう。彼もまた、僕と同じようにこの街を嫌っている。

 それでも彼が街を出なかった理由を僕は知らないけれど、そこに彼の意志以外の力学が働いたことは確かだった。現実を意志のもとにコントロールするなんていうことは、殆どの場合において出来ず、それが出来た時のことを人は奇跡と呼ぶのだろう。そして、僕のように自らの意志による力学ではなく偶然の積み重ねにより希望の方向へと漂流することが出来た場合は幸福と呼ぶのだ。

「結局、俺たちが立ち向かおうとしていた敵はあまりにも大きすぎたんだよ。どれほど抵抗をしようとしても、革命じみた叛逆を心の中で企てても、青臭い悩みと一括りにされて、それで終わりだ。生きるという選択をした以上、あれほど嫌っていたものに迎合して、死んだように生きていくことしか出来ないんだ」

 そう呟く彼の目には高校生の頃にあった鋭さや闘争心にも似た激情がなく、ただ静かに諦観のようなものを交えて現実を見ているだけだった。大人になるということは、こういうことなのかもしれない。

 暫しの沈黙が降りた後で、僕は聞くべきことを思い出した。本来の目的ではなかったけれど、遠羽の言っていた通り遊上から何か新しい情報を得ることが出来るかもしれない。というよりも、僕の過去について語ることが出来る人間は恐らく彼をおいて他にいないわけで、偶然ではあったけれどこの場は絶好の機会と言えるのかもしれない。

「遊上、遠羽字って知ってるか?」

「さあ、聞いたことはないが。同じ高校だった奴か?」

「そういうわけじゃないんだけど、僕の昔の知り合いだよ。僕らと同い年の、別の高校の女子」

「昔の知り合い?」

 遊上は訝しむように僕のことを見る。確かに、知人の少なさは自覚をしていることだけれども、そこまで疑うような目をくれなくてもいいのではないだろうか。

「探してるのか?」

「まあ、そんなところだよ。正直情報らしい情報が残ってなくてね、困ってるんだ」

「悪いが、お前の昔の知り合いなんて俺が知ってるわけないだろ」

「話くらいはしていなかったか?」

 海辺を一緒に歩いていたくらいだ、僕たちの関係は特別秘するようなものでもなかったわけで、多少なりとも遊上に話を零している方が自然だ。それに、仮に話をしていなかったとしても、彼もまた僕と同じように夜の海を歩く癖がある。彼女と一緒に歩いているところを見かけられている可能性はそう低いものじゃないだろう。

 しかし、遊上は怪訝そうな顔で否定をする。

「いつだかお前自身が言っていただろ。知り合いは作らないようにしていて、今話すような奴はお前くらいだって。俺と付き合ってた時期以前の知り合いじゃないのか」

 遊上の言葉を噛み砕き、考える。遠羽の話からすれば、確かに僕たちは僕が遊上と会う以前の知り合いだったとも言える。ただ、別れたのは高校の卒業を機にということで遊上と話をしていた時も被ってはいたはずだ。

 違和感を覚えたのは、僕が遊上に「話すような奴はお前くらいだ」と言ったという点だった。彼に対して遠羽の存在を話していなかったというのであればともかく、居ないとまで否定をしているのは、どうしてだろうか。僕は遊上に対して、かなりあけすけな態度を取っていたはずで、そのうえで否定をしたのは、何か隠していることがあったのだろうか。そうだとすれば、何故隠す必要があったのか。

 高校の時点から既に僕は遠羽に対して後ろめたいような感情を抱いていたのだろうか。しかし、仮にそうだとすれば何年もそれを抱えたまま付き合うようなことをするだろうか。

 僕がそう考えていると、遊上は表情を歪めるようにして疲れたように笑う。

「笛吹、お前もしかして記憶を作ったのか?」

「それは、違う」

「どうしてそうも断言をするんだよ。お前のことだ、記憶を作ったという記憶を消しているだろう」

「その点に関しては同意するが、遠羽字は実際に存在する人間なんだよ。実在する人間を記憶の中に作ることは出来ないだろう。彼女は僕の記憶の中だけではなくて確かに存在している」

「ああ、さっきの女が遠羽字か?」

 あっさりと遊上は答えを言い当てる。今更否定をしたところで意味がないことは分かっていて、諦めたように「ああ」と頷く。

「そうだよ。彼女が遠羽字だ」

「なら尚更、お前があの女と一緒に居るところを今まで俺は見たことがないな」

「そうか」

 元々予定をしていなかった再会なのだから、何かを求めるのは都合のいい話なのかもしれないけれど、何も得ることが出来なかったことを残念に思わないかと言われれば嘘になる。

「本当にあの頃のお前があの女と付き合ってたのか?」

「らしいんだよ」

「らしい?」

 それ以上語るのは億劫で、誤魔化すようにして煙草を吸った。過去に対する曖昧な確認は今の時代において忘却というよりも記憶の削除を連想させるものだ。話してはならない、隠さなければならないものではないけれど、話すことで嫌な気分になる問題というのもまた確かだった。

 ただ、遊上はどこか張り詰めたような表情をして、静かに考え込むように黙り込んだ。

「らしいって、その女から聞いたってことか?」

「ああ、そうだよ。多分、僕は彼女についての記憶を消したんだろう」

「確かに記憶の削除という技術が存在している以上それが最も単純で正確そうな答えだ。ただ、お前があの女についての記憶を消したっていうならあの女が語る事実は真実でなければならないだろ」

 どういうことだろうか、と一歩立ち止まり、彼の言った言葉を噛み砕き、嚥下する。つまり遊上は遠羽が嘘を吐いていると言いたいのだろうか。

 確かに、彼は僕と遠羽の関係を知らなかった。けれど、何も全ての生活を分かりやすく曝け出していたわけではない。彼から見えない僕の部分があるのは、不自然なことではないはずだ。

「別に、嘘を吐いてるわけじゃないだろう。確かに小学校のアルバムと中学校のアルバムには彼女の姿があった」

「ただ同じ学校に属していたというそれが何の証明になるんだ? 一度も話したことがなくても、同級生であれば同じアルバムには載る。それはお前と関係があったという証拠としてはあまりにも効力の存在していないものだろう。あの女以外に、お前とあの女の関係を証明してくれる物や人間はあったのか? 居たのか?」

「それは、見つかってないが」

 ぽとり、と煙草の火が花房のように落ちた。遊上は短くなった煙草の火をもみ消し、新しいものに火を点ける。

「確かに俺には知らない側面もあった。それは事実だ。その中で、お前はあの女と付き合っていたのかもしれない。ただ、女との関係をこそこそと隠すようなことをするような柄じゃないだろ。わざわざ人間嫌いを騙ってまで、厭世を嘯いてまで、その女との関係を誤魔化していたのだとすれば、どういう理由があるんだ?」

 遊上の言うことは反論が咄嗟に思いつかないほど真っ当な帰結だった。彼の言う通りだ、遠羽の言葉から考えれば、僕たちはそこまでひた隠すような関係ではなかったはずだ。もしも彼女との関係があったのであれば、零すことはせずとも知り合いが居ない、とまで嘘を吐く必要はない。

 なら、遠羽は嘘を吐いていて、僕たちの間に関係なんていうものは元から存在しなかったのだろうか。

 その可能性は酷く納得の出来るものであった。僕は自らのアイデンティティを捻じ曲げるようなことをしておらず、記憶を消すということをしていない。けれど、遠羽が嘘を吐いているからこそ存在しない過去が出来上がることになった。ここだけを切り取れば、何も破綻しているようなものではない。

「理屈としては、分かる。ただ、それをして遠羽に何のメリットがあるんだ」

「俺が知ってるわけないだろ。ただ、どれほど有り得ないように見えるものでも残されたひとつが真実になるんだよ。俺があの女のことを殆ど知らないってのもあるだろうが、あの女が語ることより、俺は過去のお前を信じる」

 新たな疑念が生まれる。唯一信じるべきだと思っていた遠羽が、反対に最も疑わなければならない存在なのではないかという可能性が浮上する。

 どうすれば、いいのだろうか。何をすれば僕と彼女が一緒に居たことが証明される。そんな便利なものがあれば、とっくに彼女が見せているはずで、その証拠を掴むことは難しい。

 あるいは、ひたすらに証拠を提示しなかったのは、僕たちがそれを残そうとしなかったのではなくて、そもそも存在しないものだったからなのかもしれない。思えば、名前の漢字を間違えられたのは、そもそも僕の名前の漢字を知らなかったからなのかもしれない。どこかで音だけを知って、適当に漢字を当てはめた結果。

 そんなことをして何になる、という思考は先の遊上の言葉で掻き消される。残されたひとつが、真実になるのだ。どこまでもいっても、人間は他人のことを理解することは出来ない。動機を推察し、有り得ないというのではなくて、実際に起こった可能性を考えなければならない。

「俺が記憶の改竄が嫌いな理由、言ったことあったか」

「いや、聞いたことはないな」

「母親がその手の詐欺に引っ掛けられたんだよ。記憶の改竄なんてしていないのに改竄をしたということにされて、現実の過去を偽物の記憶だと信じ、存在しなかった過去に縋った。まあ、その結果としてはお前のとこと同じようなもんだ」

 記憶による家庭の崩壊は僕が何よりも知っていて、だからこそ気分が悪くなる。直截的に記憶を改竄していなくても、その存在自体が人間を狂わせることになる。僕もまた、今そのような状況に居るのかもしれない。

「人間の脳なんて単純で、科学に頼らなくても、手術なんてしなくても、偽物の記憶を作ることくらい出来る。多くの人間は過去を確かなものだと思ってるが、脳において過去を想起する能力と未来を想像する部分は同じなんだよ。つまり、過去もまた、未来と同じような想像されたものに過ぎない。そのことは忘れるなよ」

 そう言って遊上は煙草の火を揉み消し、吸い殻を捨てる。倦怠を纏った紫煙が葬式場からあがる煙のように空へと昇っていく。

 彼の意見は、僕から聞いた断片的な情報を集めて推察したものだ。真実を語るにはあまりにも情報が足りておらず、信じるべきではないんだろうと思う。ただ、そういう理性とは反対に出会って間もない、見知らぬ幼馴染の話よりは、実感のある遊上の話を信じたいと思ってしまうこともまた確かなことだった。

 コンビニの光に惹かれて、虫が集まっているのが見えた。入れもしない窓硝子に向かってぶつかっていく様は、虫とはいえどこか憐憫を覚えるところがある。自らにはどうしようもない、元から備わっているシステムに狂わされるのは、堪らないことだ。

 遊上は溜め息を吐いて、一歩コンビニから離れる。

「俺が言ったのはあくまでも推論に過ぎないし、相手が疑わしい人間であるほどに待たせるのは悪手だろ。そろそろ行った方がいい」

「……ああ、そうだな」

 彼の言う通りだった。これ以上議論をしたとしても、僕からの断片的な情報を知らない遊上から何かを聞けるとも思わない。ただ、遠羽の下へと足を向けるのは、どうしても気が進まないことも確かだった。

 けれど、進まなければいけない。例え逃げるとしても、足は動かさなければならない。駅の方向に向かって歩き出そうとすると、「笛吹」と呼び掛けられる。

「俺、もうお前とは会えない気がしてたし、多分会うとしてもこれが最後になると思うよ」

「そうだな、僕もそう思っている」

 正確には、そうであって欲しいと願っている。彼と僕を繋げているものはこの土地であり、再び会うことになるとすれば僕がこの場所に戻る必要があり、そして彼がこの土地から出られないままで居るという状況なのだろうから。

「せいぜい満足のいく生き方が出来るよう、祈ってるよ」

「随分奇妙な挨拶だな」

「俺もお前も、健康とか幸せみたいなものを求めるような人間じゃないだろ。空虚な健康に価値はなくて、幸福は求め始めればきりがない。だから、せめて満足のいく生き方をすることくらいが、人生における最善だろう。少なくとも、俺はそう思っている」

 遊上らしい言葉だな、と思った。最後まで真っすぐではない、捻くれた挨拶。だからこそ、僕は彼のことが嫌いではなくて、一緒に居ることが出来たのだろうけれど。

「君も満足のいく生き方が出来るように」

 そう言って、僕は歩き始める。夕暮れは未だ浅く、空気は藍色に染まっていないけれどそれでも一日が終わっていく音がする。

 もう会うことのない遊上は、僕の記憶の中で徐々に色褪せてやがて完全に消えていくのだろう。そうなれば、死んだ人間と変わりはない。僕は緩やかに僕の世界における遊上祐介を殺すのだろう。

 そういうことの積み重ねこそが、人生なのだ。ただ、分かっていても割り切れないことはあるよな、と思いながら、少しだけ冷静になった思考を空転させる。

 遠羽字と僕は、本当に繋がりを持っていた人間なのだろうか。彼女の言葉には一切の嘘が含まれていないのだろうか。どういう表情をすればいいのかが、分からない。どういう表情をしているのかが、分からない。そうした漠然とした不安を引き摺ったまま、僕は駅へと近付いて行く。一歩ずつ、秒針が進むように確かに。

 駅に着く頃には夕闇が空気の中に満ちていた。夏の始まりにも関わらずひぐらしの鳴く声がして、自分が季節のどこに居るのかを見失いそうになる。

 無人駅の中で独り、遠羽は木製のベンチに座っている。一応は観光客が来ることを予定しているのか、公園のベンチのようにみすぼらしい見た目をしているわけではないけれど、殆ど使われていないそれは妙な真新しさを持っていてこの街の寂しさを強調しているように見えた。

「悪い、待たせて」

「元々私が無理を言って君についてきたかたちなんだから、謝られるようなことじゃないよ」

 僕は彼女の隣に腰をかける。ほんの僅かな沈黙がやけに息苦しい気がしてポケットに手を伸ばしたけれど、煙草は入っていない。遊上と話をしたついでに買っておくべきだったかもしれないと思う。

 確認をするなら、電車が訪れるまでの間が良い。一度機を逃せば、疑念はそのままのかたちでずるずると言葉にならないままで心の奥底へと沈殿していくような気がするから。ただ、適切な質問は思い浮かばなくて、沈黙は苦しくて、電車が早く訪れることを願ってしまっている自分が居ることも確かだった。願いを嘲笑うように、あるいは覚悟を後押しするように、踏切の警告音も警笛も轍を踏む音も、何も聞こえない。夏の夕暮れの音だけが駅の中に充満していく。

「僕たちは高校生の頃、何をしていて、どこに居たんだ?」

 上手い質問は結局思い浮かばなくて、遠羽からすれば脈絡のない、ぎこちない質問を投げかける。何かを疑われるだろうかと心配をしたけれど、それは遊上から話を聞いた僕だけが抱き得る懸念だったようで、遠羽は何かを疑うような調子もなく、今まで通りの声音で言葉を紡ぐ。

「前も言った通り、高校になってからは遠くに出掛けるようになった。でも、勿論そんなのは特別な日に限られたことであって、普段は今までとあまり変わらないような日常の連続だったと思う」

 色彩を持たない過去は何の証明にもなってくれやしない。存在しない、嘘だという確固たる証拠が見つからない代わりに、存在した、確かな事実だという証拠もまたない。

 違う。そもそも、彼女に尋ねるのが間違いなのかもしれない。もしも嘘を吐いているのだとすれば、彼女と僕の間に何も存在しないのだとすれば、彼女は自分にとって都合のいい嘘をまた重ねることになるのだろう。そしてその重ねられた嘘ですらも、僕は気付くことが出来ない。

 状況は最悪だった。僕の過去を知っているのは彼女だけであり、その彼女が嘘を吐いているのかもしれないのであれば、僕は消したはずの過去について何も信じることが出来ない。僕に出来ることは、あらゆる疑念を置き去って彼女に身を委ねることか、あらゆるものを疑って彼女を突き放すことか、極端などちらかだけだ。

 何か、微かでもいいから残っていないだろうかと記憶の中を漁っても何も出てこない。僕は、日頃から過去というものに執着をしなさすぎた。きっともう少し日常を大切にしていれば何かしらの証拠は頭の中に保存されていたのだろう。けれど、僕には本当に、何一つ残っていなかったのだ。過去と現在を繋ぐ糸が、哀しくて笑いたくなるほどに存在していない。

 どうするべきなのだろうか。何を、探すべきなのか。そう考えたところで、答えは生まれない。答案用紙は存在していても、問題文が書き込まれていないようなものなのだ。何を書けばいいのかという見当をつけることすらも出来ない。

 思考の隘路へと迷い込んだそのタイミングで「ああ」と彼女は思い出したように呟く。

「でもその頃になると私が少し遠い高校に行くようになったから、その近くで会うことが増えたと思う」

 遠い高校。

 僕はここから電車で乗り換えることもなく二十分程度で向かうことの出来る、近いと言えるような場所に通っていた。高校への進学を機に、僕と彼女がゆっくりと分かたれていったことを実感する。

「どこに通ってたんだ?」と尋ねて答えられた高校は、確かにこの場所からは遠いと言えるような場所だった。どうしてその高校を選んだのか、という問いは些末で、そして意味がないもので飲み込む。

 轍を踏む鉄の音が聞こえて、左手に見える踏切が警告音を立てながら下がっていくのが見える。電車がもうすぐ訪れる。僕たちは再び過去から離れて現在へと戻っていく。まだ、何も得られていないのに。

 駅へと這入って来る電車を眺めながら、考える。彼女の言っていた高校の近くは今の僕にとってはあまり行った記憶のない場所だった。あったかもしれない、というよりは存在していた、けれど今の自分とは違う自分を確認すると、いつになっても気持ちの悪い感覚がする。

 電車のドアが開く。遠羽が這入っていく。そこで、ふとした違和感に気が付いた。本当に、僕にはあらゆる記憶がなくなっているべきなのか。それは違う。残っているものも確かにあるはずだ。ならば、彼女の言葉は――

「笛吹君」

 その言葉で意識は思考から引き剥がされて、僕は急いで電車に乗る。

 疑念の答えは、見つかったかもしれない。あとは、それを証明するだけだ。ただ、それは僕の立場を確定させることになる。

 真実を知りたいと思うとともに、何かを決定的にしてしまうことは恐れるべきことであるという考えが、僕の中には染み付いていた。例え振うものが正しさであるのだとしても、他人を踏みつけて自らの意志を通すのは気持ちの良いことではない。

 ただ、僕は知らなければならないのだ。

 電車の中で、僕たちには会話がなかった。行きも同じように、静かに着くまでの時間を待つだけだったけれど、今の僕にとって遠羽と共に居る沈黙というのはやけに長く、そして居心地の悪いものに感じられた。

 車窓の外はゆっくりと藍色と暗闇が支配していく。寂寞ばかりが広がる街が闇のヴェールで隠されていき、僕たちはそれから遠ざかっていく。

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