In Search of Lost Memory.
1
僕にとって、生まれた街は息苦しい場所だった。
嫌悪する父から逃れようとしても、子供にとって街は途方もなく大きく、それだけが世界だ。その先はない。日本地図や地球儀を眺めても、存在しているらしいそこはスクリーン越しに見る空間のように、虚構の世界でしかないのだ。逃げようとしても、世界から逃れるなんていうことは誰にも出来ない。
憂鬱を詰め込んだ瓶詰めのような場所。それこそが、僕にとってのあの街であり、街から逃れた今でも魂にこびりついたその印象は僕の中に根付いている。ゆえに、帰ることになるとは思ってもみなかった。それも、存在しているとも思っていなかった幼馴染とともに。
閑散とした無人駅に降り立つと、潮の香りがするような気がした。自然の多い場所だからか、それとも気が付かないうちに鳴り始めていたのか、蝉の声がする。いよいよ夏は始まったらしい。
夏は、嫌いだ。この季節になると普段は人の居ないこの辺りも昼夜問わず人で溢れ始める。独りきりの時間を作ることが、難しくなる。
それに、何も得ることが出来ていない自分を、蝉時雨や遠くから聞こえる子供の声、容赦なく刺す陽光が責め立てているように錯覚する。焦燥と現実がじりじりと迫ってきている感覚がする。
吐き気がするほど青く広い空を見ると、今年は、何かが変わるだろうかの繰り返しの果てに死んでいくのかもしれないと思う。蝉の死体、枯れた向日葵、喧騒の後の空漠。夏は、いつも死を連想させる季節だった。
「笛吹君はいつぶりに戻って来たの?」
改札を通りながら、先を行く遠羽は身体を半分ほど翻しつつ尋ねる。僕も彼女に倣うようにして改札を通る。残高、三百八十四円。帰る前にチャージをしておかなければいけない。
「高校卒業以来だよ。用事はなかったし、ここは好きじゃないから。用事がないうえでわざわざ行こうとは思わなかった」
腰を据えることの出来る場所が故郷なのだと、昔読んだ小説に書いてあったことを思い出す。だとすれば、ここは僕の故郷ではない。今もまだ、僕はそのような場所を探し続けている。
「そう。連れて来てごめんね」
「いや、謝られるようなことじゃない。僕の過去はここに在ったんだから、どうせここには来るべきだった。早く済ませることが出来るなら、それも遠羽が一緒に居てくれるならこれ以上のことはないよ」
逃げることは悪いことじゃない。ただ、どれほど逃げようとしても逃げることが出来ない出来事というのがあって、それに直面したならば覚悟を決めて向かい合うことしか出来ない。僕にとって、自らの記憶の欠落はそうした向かい合わなければいけないことだ。
人の気配のする海から離れるようにして、僕たちは住宅街の方へと向かう。僕の家は、そこにある。もしも変わらずに建っているのならば、だけれども。
今、あの家がどのよういな場所になっているかを僕は知らない。極端なことを言えば、あの家に独り住んでいるはずの父が僕のことを覚えているのかすらも分からない。あの男なら、僕のことも都合が悪いと思い記憶から消しているかもしれない。消していることはなくとも、歪めている可能性だけで言えばむしろ高いとすら言えるだろう。
憂鬱が身体にのしかかる。家に居なければ、それが最善だ。彼が居ないうちにことを済ませて、出て行く。不必要な患い事は思考のノイズにしかならない。
「遠羽は僕の家に来たことがあるのか?」
「君がそれを許可したと思う?」
「しないだろうな」
どれほど親しい人間であっても、いや、親しい人間だからこそ、僕はあの家に近付けないだろうと思う。血は不可分的なものだ。どこまでいっても自分に纏わりつく。僕がどれほど拒絶をしようとしても、あの男は僕の父親であり、僕の半分を作った人間であり、ゆえにそうした自らの汚点を晒したいとは思えない。本人ではなくて、形跡であったとしても。
「アルバムを探すのは僕だけで出来る。ここまで付いて来て貰って悪いけど、家には這入らないで貰えるかな」
「うん、分かってる。じゃあ、近くの公園で待ってるね」
そう言われてから、自分の家から程遠くない場所に公園があったことを思い出した。遠羽に引き留められ、話をしたあの公園よりは広い場所。家から出来る限り離れたくて、あの場所に腰を落ち着けるようなことはなかったのでどういう場所だったのかという記憶が殆ど存在しない。行けば、思い出すのだろうか。思い出したところで意味なんてないのかもしれないけれど、今の僕にとって当たり前だと思っていた記憶の不連続性は不安を駆り立てる。
「君の家も、ここから近いのか?」
「どうだろう。歩いて行ける距離ではあるけど、近いと言うと語弊があるかもしれない」
あの公園から僕の家までの距離のようなものだろうか。それならば、近くはないのかもしれないけれど遠くはないのだろう。同じ小学校に通っていたという事実を考えれば当たり前のことなのかもしれないけれど。
住宅街の方へと這入るにつれて、徐々に閑散としていく。人の気配はするけれど、それは残されたものに過ぎなくて、今ここに居るという雰囲気はしない。人が居るべき、生活をしている空間に僕たちしか居ないという状況は、どこか漠然とした不安を抱かせるようなものを覚えさせた。あるべき場所にあるべきものがない欠落は、名状することの出来ない漣を心の中に立てる。
沈黙が蝉の声を浮き彫りにする。夏の始めの蝉は五月蠅いというほど活発ではなかったけれど、それだけが聞こえて続けると嫌な気分になる。夏が嫌いだからこそ、夏を象徴するような蝉の声はどうしても好きになれなかった。
通りがかった家の前に、向日葵が咲いていた。向日葵と言って思い浮かぶような背の高いものではなくて、僕の腰ほどの大きさしかない小さなものだったがそれでも力強く咲いている。
「そう言えば、丁度向日葵の季節だね」
「丁度なのか。向日葵というと、もっと夏が盛った時期に咲くものだと思っていたけど」
「種を蒔いた時期や場所なんかにもよるだろうけど、八月に入る頃には枯れてるものも少なくないと思う。この辺りの向日葵畑だと、むしろそういうものの方が多かったかな」
夏を象徴する花のように思っていたので、その事実は意外だった。こうして、イメージによる思い込みだけが頭の中に存在している、事実から乖離した概念というのは往々にしてあるのだろう。
「七月の終わりに向日葵畑に行ったんだよ、私たち」
再び歩き始めながら、彼女はそう言った。
「そうなのか」
「うん、高校二年生の頃。もう時期からして閉じる直前で、ぎりぎりに向日葵を見に行ったんだ。ここからは遠い場所で、もう陽が落ち始めている時間に着いたんだけどそれがまた綺麗だったな」
言うまでもないことだけれども、僕にはその記憶がない。遠羽字と向日葵畑に行ったという記憶も、そも向日葵畑に行ったという記憶も。自分の覚えていない範囲で自分が遠いどこかへと行っているという事実は、やはり実感が湧かない。
「でも、意外だな、向日葵畑に行ったなんて」
「そう?」
「あんまり、向日葵って好きじゃないんだ。どこか不気味な気がして」
綺麗な花だとは思う。それが立ち並べば、さぞ圧倒あれる美しい景色になるのだろうと想像することも出来る。ただ、僕はどうしてもそれを不気味だと思ってしまうのだ。
きっとそれは、枯れた姿を知っているからだと思う。あれほどまで気高く、力強く咲いていた花も、僅かな季節を過ぎれば色は腐ったように黒ずみ、花は空ではなく地面を向き、花弁が徐々に落ちて、朽ちていく。不変の存在なんていうものは幻想で、あらゆるものはいずれ朽ちる運命であるということは分かっているけれど、まざまざとそうした姿を見せつけられるのは快いものではなかった。
「向日葵はキク科の植物だから、不気味に思えるのも仕方がないのかもしれないね」
「なら、向日葵畑は華やかな葬式に似ているのかもしれないな」
「だとすれば、何を葬っているんだと思う?」
「夏の生前葬じゃないか」
八月を前にして枯れ始めるのであれば、夏はこれから始まるものなのかもしれないけれど、多くの日本人の中にある原風景としての夏には向日葵が存在している。向日葵が枯れた時、きっと一度夏は死ぬのだ。哀しみのように密やかに。そして、再び夏が始まる。
二人だけの道を歩いて行くと、見慣れた道に出る。どれほど時間を置いても、嫌いだと拒絶をしても、そこで育った以上逃れることは出来ない。故郷ではなかったとしても、ここは僕の生まれた場所なのだ。
立ち止まって、息を深く吸う。どろりとした生温かい空気で肺が満ちる。気分は悪くなったけれど、落ち着くことは出来た。
「じゃあ、公園で待っててくれ」
「分かった、待ってる」
僕が家の方向へ向かって歩き始めると同時に、遠羽は別の道へと歩いて行く。そう言えば、公園はそちらの方にあった。よく、あの道から子供が公園へと向かっている姿を見たことを思い出す。素直にあの中に混じることが出来ていれば、きっと今は変わっていたのだろう。けれど、もしもやけれどが存在するのは小説の中だけだ。生きている以上、僕は今を進み続けなければいけない。
改めてその家を見ると、元は白だった外装が雨風によって汚れ、惨めな見た目になっていた。元からそういう性格だったのか、それとも母が死んだことが原因なのか、父は衆目を気にすることが極端に減った。きっと、それが原因なのだろう。
この家の鬱屈とした空気は父の実情と、それによって現れた家庭の事情を知っているからこそのものなのだと思っていたけれど、この外装を見れば誰でも感じ得るものなのかもしれない。
もう長らく使っていなかった、再び使うことになるとは思っていなかった鍵をポケットから取り出して、鍵穴に刺す。かちり、と音がしてドアが開いた。やけに重たい気がするそれを押して、僕は二度と足を踏み入れるとは思っていなかった自らが育った場所へと回帰する。
幸いなことに、父の声が出迎えるようなことはなかった。どうやら、まだ居ないようだ。ならば、そのうちにことを済ませてしまおうと家に上がり、僕が使っていた部屋へと向かう。階段を上がり、廊下を進む。懐かしいと思わないかと言えば、嘘になる。好むと好まざるに関わらずこの場所にはやはり思い出があって、息を吸うごとにそれが頭の隅を掠める。
この家には、この家族には良い思い出も存在していたのだろう。ただ、どれほど美しい絵画も黒で塗り潰せば黒としか見ることが出来なくなる。僕にとって家族についての思い出は既にそうして塗り潰されてしまったものだった。
部屋のドアを開く。窓から入ってくる斜陽に目を細め、ゆっくりと光に慣れた目を開ける。
僕の部屋は、化石のように昔のままのかたちを保ち、そこに存在していた。あらゆるものの上に堆積している埃は時間の経過と誰もこの部屋に立ち入っていないことを証明している。
「また、来たんだな」
誰に言うでもなく、僕は確認のためにそう呟いた。無意識的にですら帰ってきたと言わなかったのは、ここが自らの場所ではないと、帰るべき、最後に眠るべき場所ではないと思っているからなのだろう。
埃っぽい空気を入れ替えるために窓を開けると蝉の声と熱気が部屋に這入ってくる。密閉され、蒸されていた部屋の中よりはずっとましだけれども、とても涼しいと言うことは出来ない。
既にじっとりと肌が汗ばんでいるのが分かる。あまり長く居ると暑さで頭がおかしくなりそうだ。出来る限り早く済ませようと、棚の中を漁り始める。
卒業アルバムに思い入れはなかった。むしろ、それらの過去はただ存在しているだけの煩わしいものとさえ思っていた。それでも捨てていないのは、何よりもシンプルに捨てるのが面倒くさいという理由だった。卒業アルバムというものは勝手に押し渡されるくせに、処理が極めて面倒くさい、極めて厄介なもので、死ぬまでこうして埃を被っているのだろうと思う。煩わしいけれど、手間をかけるほどの興味もない。
大まかにどの辺りに置いたのかという記憶すらなくて、ひとつずつ、棚を矯めつ探していく。懐かしい表題の書かれた本の背表紙が陽に焼けて色褪せていた。少なくない数の並んだ本は、僕の今までの人生を表している。けれど、結末や主人公の名前すらも覚えている本はむしろ少なくて、自らの人生だと思っていたものの脆さに自嘲する。僕の人生ってやつは本当にどこまでいっても空っぽらしい。
汗が首筋を伝ったことに気が付いたあたりで、ようやく卒業アルバムが見つかった。幸いだったのは、小学校から高校までの全てのアルバムが纏めて同じ場所に置かれていたことだろう。これで再び別のものを探し始めなければいけないと言われたら流石に気が滅入る。
まず、小学校のものを開く。クラスごとの集合写真の頁を捲りながら、僕と遠羽の影を追う。
僕は遠羽の小学校の頃の姿を覚えていない。それなのに、ふと目が止まった少女を見てみると遠羽だと分かったのは、彼女の持つ冷たい雰囲気が変わっていないことを差し引いても不思議なことだった。
六年二組。僕とは異なるクラスだけれども、遠羽字は確かに僕と同じ学校に存在している。念のため、中学のアルバムを繰っても、彼女の姿は変わらず確認することが出来た。確かに、僕と遠羽字の繋がりは存在していたことを確認して、アルバムを閉じる。
高校のアルバムを開きかけて、止める。高校は別の場所へと行ったと言っていたのだ、ここを探しても何も見つからない。置かれていた場所と同じ場所にアルバムを仕舞い、僕が来る以前の状態に戻しておく。
部屋の中を見回して、するべきことを考える。他に記憶の断片となるようなものがあるだろうかと考えるけれど、どれほど記憶の中を漁っても、それらしいものは一切見つからない。世界を厭うていた僕は現在をかたちにして残そうとしなかった。写真も、手紙も、何も残っていない。あるのはただ、本と捨て忘れている参考書だけだ。
少し考えた後で、僕は結局部屋を出た。何か忘れているものがあったとして、もう一度戻ることになることは嫌だったけれど、今ここに佇み続けても得られるものは何もない。だったら、この場所には長く居たくない。
そう考えて、ドアを開いたところでかちり、という小さな金属音がした。嫌な感覚が脳の裏側をノックする。肌に貼り付いたシャツの不快感を自覚する。この家に帰って来る人間は、一人しか居ない。靴を脱ぐ音がして、何歩か足音が廊下を進んだところでふと立ち止まる。
「冬司、帰って来てるのか」
二度と聞きたくなかったその声の主は、しっかりと僕の靴が存在していることに気が付き、帰省した我が子に声をかける。実に良い父親らしい行動だ。その良さは、都合の悪い事実を忘却の虚に投棄し続けたからこそ演じることが出来る、どこまでも醜いものだけれども。
他の誰に間違われても面倒で、「ああ」と短く返事をする。それに言葉で応える代わりに階段を足音が上って来る。どうやら、話をするつもりらしい。
いっそ、勢いよく部屋を出て、あの人を突き飛ばして家を出てやりたかった。ただ、父としての尊敬のようなものは当の昔に剥落していても、血の繋がりは断てるものではないし、現在進行形で資金的な援助をしてもらっているのは事実だった。最低限表層を取り繕うためのコミュニケーションを取るだけの技術は軋んだ家庭の中で過ごしていたお陰で会得している。
「どうしたんだ、長らく帰っていなかったのに急に帰って来るなんて」
「必要なものがあったから、取りに帰っていただけだよ。すぐに戻る」
「久しぶりに帰って来たんだ、もう少しゆっくりして行けばいいだろう」
「……この後にも用事があるんだ。ゆっくりするような時間はなくてさ」
あんたの都合のいい作り話を聞いて何になるんだよ、という言葉は飲み込んで適当な理由をでっちあげる。今日に限らず、喫緊の予定なんていうものは僕の人生に存在していないけれど、この場所に居てこの人と話すよりは何もせずに部屋の中で命を浪費している方がましだ。同じ空虚でも、後者の方が不快ではない。
「そうか」と父は頷く。尤もらしい喋り方は見かけだけを見れば父親らしいのかもしれないけれど、その内情を知っている人間からすれば白々しい響きにしか聞こえない。
「体調なんかは大丈夫なのか」
「問題ないよ」
「足りないものはあるか」
「ないね」
親子のイデアをなぞるようにして問われる、形式的な会話。言葉として存在はしているけれど、その中身は空っぽで意味がない。
理想通りに生きるなんていうことは、普通の人間には出来ない。理想や普通と言われるものに達するには相応の能力が必要であり、仮にそれがあったとしても現実はイレギュラーだ。些細なものに躓き、徐々に現実的なそれぞれの人生に引き摺り下ろされることになる。
けれど、記憶を変えれば、そうした生き方をすることが出来る。失敗によって齎された結果を消すことは出来ないのかもしれないけれど、失敗をしなかったことにすることは出来る。過去と呼ばれるものは、人間の想像力のよって作られた想像物に過ぎないのだから。
きっとこの人はそうして、理想的な、模範的な人生の中で死んでいくのだろう。憐れな生き方だと思う。自らが作った幸福な微睡の中で死んでいくのは、惨めとしか言えない。
「記憶に価値はあると思う?」
そうした問いが零れたのは、僕の中で記憶という概念と彼は不可分に結びついた存在だったからと思う。どれほど嫌っていても、最悪なかたちであったとしても、僕の中の価値観を作ったのは紛れもなく父なのだから、聞いてみたかったのかもしれない。
父は驚いたような表情をした後で「ああ」と頷く。
「当たり前だろう」
その言葉は吐き気がするほど断定的な色を含んでいた。
聞くまでもないことだった。彼は、記憶をかけがえのない価値があるものだと思っている。だからこそ、それを改竄するのだ。都合のいいかたちに変えるのだ。そのかけがえのないように見えるものを、出来る限り美しく彩るために。
けれど、黄鉄鉱はどこまでいっても金にはならない。見せかけだけの、偽物の記憶には価値がない。その考えがあるかどうかが、それだけが彼と僕の違いなのかもしれない。
「何か消したい記憶があるのか」
「まさか」
むしろ、消したという記憶を取り戻すためにここに戻って来たのだ。見当違いも甚だしい言葉だった。
「記憶のことで何かがあるなら、聞いてくれ。決断をするのはお前だが、助けられることはあるかもしれない」
都合の悪い記憶を消したという事実を除いて、彼の中には記憶の改竄を行ったという記憶は存在している。だからこそ、父親らしく役に立てると思いそう言ったのかもしれないけれど、僕の心の中に浮かぶのは乾いた感情でしかなかった。何も誇れるようなことではないのに、どうしてそうも胸を張って言うことが出来るのだろうか。
「……分かったよ」と言いつつ、僕は歩き始める。失望をするほどの望みを抱いていたわけではないけれど、心の中でただ虚しさが響いた。
階段を降りて、靴を履き、家を出る。父はありきたりな別れの言葉を吐いたのかもしれないけれど、夏の熱気と蝉の声に掻き消され僕には何も届かなかった。
僕は公園とは違う道を歩き始める。真っすぐに目的地に行くことが出来ない時というのが、度々あった。あるいは、僕の人生はそういう風にしか進むことが出来ないのかもしれない。待たせることに対する申し訳なさはありながらも、ゆっくりと夏を染み込ませるようにして歩いて行く。
久しぶりに母のことを思い出した。嫌いだったというわけではないけれど、彼女について覚えていることは僅かだし、何より思い出そうとすると常に死が纏わりついて来るので意識的か、あるいは無意識的に思い出したくない存在だったのかもしれない。
例えば、彼女もまた記憶を歪めていれば幸せだったのだろうか。生きているなら、それで幸せじゃないかという人が居る。けれど、望んでいるわけでもなく、ただ適応するために自らの過去を歪めて、本来の自分すらも捨て去って、それでも生きていくことは果たして死んでいることよりもましなことなのだろうか。生きているだけならば、死んだ方がましだ。
喉の渇きを覚えて、自動販売機の前で立ち止まる。安価な、見慣れないブランドの水を買って、同じものをもう一本買う。この暑い中で待たせた分としてこれで足りるのかは分からないけれど、何も持っていかないよりはいいだろう。
緩やかな遠回りをして僕はようやく公園に辿り着いた。殆ど来たことのない場所なはずなのに迷うことなく向かうことが出来たことが、僕にとってこの場所は不可分的なものであるということを証明しているようで嫌だった。
その公園は僕の記憶にある通りに広く、けれど記憶とは異なり荒涼としていた。人の気配はなく、野放図に生えた雑草と腐りかけの木製遊具は頽落を象徴しているようで、公園はただ存在している以上に空漠として見える。この街の衰退を、如実に表しているみたいだと思う。
木陰にあるベンチから影が立ち上がり、こちらに向けて手を振った。結露し、冷えたペットボトルを握りながら僕は小走りでその方へと向かっていく。
「ごめん、待たせた」
「ごめんって言われるほど待ってないよ。それに、付いてきたのは私の意志なんだから私の都合の合わせる必要はないでしょ」
「そういう風に考えられて、割り切ることが出来れば良かったと思うよ」
付いてくると判断をしたのは遠羽なのだから僕が責任や負い目を感じる必要はないのだと、思い切って切り捨てることが出来るような人間になりたかったとつくづく思う。誰しもが何かを糧にしている以上、何も貪ることなく完全に独立をして生きていくなんていうことは出来ない。だからこそ、他人を自らのために傷付けることを認めて、受け入れて生きていく方がずっと楽だ。
けれど、僕にそういう生き方をすることは出来ないから買ったペットボトルを彼女の方に差し出す。
「くれるの?」
「木陰でも暑かっただろ」
「まあ、そうだね。ならありがたくいただくことにします」
遠羽はペットボトルを受け取り、キャップを開け水を飲む。喉がこくこくと動き、水が彼女の身体の中に染み込んでいくことが分かる。なんだか見るべきものではないものを見たような気がして、僕は薄く目を逸らした。
「ああ、美味しい。ただの水でも、やっぱり暑い時に飲むと美味しく感じるね」
「それなら良かったよ」と言って僕も自分の分の水を飲む。手の温度と気温によって買ったばかりのような冷たさはなくなっていたけれど、それでもじりじりとした夏の暑さから比べると随分と冷たくて、暑さにやられた細胞が甦ったような感覚がする。
「君も座ったら?」
「ああ」
頷いて、僕は彼女の隣に座る。距離は置いているけれど、以前よりは少しだけ近い場所に。直射日光の当たっていないベンチは心地よく冷たいけれど、僕が座っただけで軋んだような音を立てたのが不安だった。
「何か見つかった?」
「小学校と中学校の頃の遠羽くらいかな」
そう報告をすると遠羽は小さく苦笑する。
「証拠としてそれを提示したいと言ったのは私だけど、なんだか自分の過去を改めて見られるのって恥ずかしいや」
「既にどうしようもない自分を振り返るっていうのはなかなかどうして嫌なところがあるよな」
人間は良い記憶と悪い記憶だと、後者の方が鮮明に記憶に残る。前者はただ思い出すだけで終わるのに対して、後者は反省をするから、その時の感情が深く心の中に残ることになる。
難儀なものだ。誰だって、良い記憶ばかりを思い出したくて悪い記憶は消したいはずなのに人間は真逆の構造をしている。だからこそ、そういう人間本来の不都合を技術で打ち消そうとしたんだろう。今までも、人間はそうして進歩をしていたのだから。
「悪いけど、アルバムを見て昔の君を見たところで何かを思い出すようなことはなかったよ」
「だろうね。そうならないようにするのが記憶の消去なんだから」
「どうして、消された記憶を取り戻すことは出来ないんだろうな」
消去した記憶を甦らせることは出来ない。勿論、病院の方に残されている書類からどのような記憶を消したのかということを確認することは出来るけれど、どこまでいっても取り戻せるのは情報でしかなくて、その時に覚えた感情などは世界から完全に消されてしまった。
「技術の問題じゃないかな。消すことは簡単でも、壊すことは簡単でも、治すことは、作ることは難しい。何事でもそういうものだよ」
「治すことが出来ないのに壊そうとするのが、僕には理解が出来ないな」
「……でも、仮に治すことが出来るようになったとしても、きっとその技術は普及しないんじゃないかな」
「どうして」
「誰だって、自分が棄ててしまったものを改めて見つめ直したくはないでしょ。もう取り戻すことが出来ないものを確認しても、生まれるのは後悔だけだよ」
あるいはそうなのかもしれない。棄てたものを見つめていては先に進むことなんて出来ないのだから、振り返るべきではないのだろう。
その考えを理解することが出来ていても、今こうして過去と向かい合うために行動をしているのは記憶の改竄に対する反発心や、当事者である遠羽との邂逅などによるものなのだろう。独りでその事実に出会ったとしても、逃げるように自分が記憶を改竄することなんて有り得ないと否定していたのだろうから。
「もう戻らないものに対して執着するのは、無駄なことなのかな」
呟くようにして漏らした言葉が蝉時雨に掻き消されるには、僕たちの距離は近すぎた。「違うよ」と遠羽は僕の言葉を掬い上げる。
「それがもう手に入れることの出来ないものでも、意味のないことだったとしても、手を伸ばすことに意味があるんだと思う。祈りは世界を救ってはくれないだろうけれど、祈っている人を救ってくれるものなんだろうから」
祈りという響きは、いやに僕の中の的確な位置にすとんと落ちたような気がした。僕の今の行いはある意味で宗教的な純粋さを持っているのかもしれない。記憶の改竄に対する嫌悪という信仰が破れたからこそ、せめて真実を追い求めて、僕は進んでいるのだ。
「全く、そうだよ。その通りだ。僕たちに出来ることなんて元より少なくて、だから悔いがないように、本当に大切なものを追い求めなければならないんだ」
少し力を入れると、安っぽいペットボトルはべこりと音を立てて歪んだ。それを紛らわせるように水を飲む。いつの間にか温くなったそれがゆっくりと喉を通っていっていることが分かる。
「海に行こうか」という言葉が意識的に出たものなのか、無意識的に出たものなのかは自分でも分からない。意識と無意識の境界は、溶けたかき氷のようにいつだって曖昧だ。
「行きたいって言ってただろ」
「行きたいのは確かだけど、いいの? それは私のエゴに過ぎなくて、他に優先するべきことがあるなら後にしてもらうべきことだと思うんだけど」
「他にするべきことは、今のところ思いつかないんだよ。なら、海に行けば何かがあるかもしれない」
今更奇跡を信じることが出来るほど、僕は世界というものに対して期待をしていないけれど、奇跡ではなく必然のようなものとして、海に行けば何かがあるかもしれない。少なくとも、この暑い中当てもなく方々を歩くよりはずっと楽で、可能性として高いはずだ。
「……うん、なら海に行こう、一緒に」
そう言って立ち上がった遠羽に倣うようにして、僕もベンチから立ち上がる。海はここからそう遠くない。僕たちは木陰を出て、罰のように夏の日差しが降り注ぐ中を歩いていく。
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