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 整えられた施設でなければ治すことが出来ないような難病でもない限り、一般的に人々は病院を利用する場合自らの住んでいる場所から最も近い場所を選ぶ。僕だってそうだ。そも、病院に向かったことがここ数年ではないけれど、仮に向かうとすればまず最も近い場所へと向かうのだろう。

 しかし、例外もある。今回のケースもその例外であり、近くにある記憶の改竄を請け負っている病院には僕の施術記録は残っていなかった。もしも残ってさえいれば、僕が本当に記憶を消したのか、何の記憶を消したのかが分かるというのに。

 駄目だろうとは思っていた。本来であれば、記憶を削除をしたとしても「記憶を削除した」という記憶は残る。そのような行動を起こそうとしたという事実までも徹底して削除をされているのだ。そこまでしている人間が近くの病院で施術を行うというようなへまを犯すとは思えない。それに、僕ならば間違いなく遠い病院を、それもアトランダムに選ぶ。もしも記憶が残ったとしても、同じ思考の形跡を辿られて施術の記録へと辿り着かれないために。

 実に僕らしいやり方だ。いざ今の自分が消さなければいけない記憶と対峙をした場合、同じことをするだろう。未来の自分が決定的な矛盾を孕みながら生きなくて済むように。

 ただ、その努力は消したはずの記憶が直截目の前に現れるということによって瓦解した。上京をし、街を離れても尚会うことになったのだから、幾ら僕でもそれを予測することは出来ない。こればかりは不運だったと言うほかにないのだろう。

 僕はいつ、彼女の記憶を消したのだろうかと考える。それを考えたところで何も状況は変わらないけれど、いつから自分が自分ではなくなったのかということはどうしても知っておきたい気がした。

 記憶の改竄には当然ある程度のルールが設けられている。消すことが出来る記憶は半年以上前のもの。作ることが出来る記憶は現実に存在しない人、物であること。十八歳以上の者でなければ受けることが出来ないこと。他にも細かな規定はあるけれど、この三つの基準を満たしさえすれば殆どはすることが出来ると思えば十分だ。

 彼女の言葉を信じるのであれば、僕が彼女と別れたのは高校の卒業を機にのことだ。この時点で十八歳には達しているのだから、施術を受けることは出来る。けれど、彼女の記憶を消すということになるのであれば、別れてから半年は経っていなければいけないはずだ。つまり最短で行ったとして一回生の秋口ということになる。

 施術をしたという事実自体を忘却しているのだから、その時期を強く思い出そうと働きかければ何かしらの違和感や欠落を見つけることが出来るはずだ。しかし、一回生の頃の秋に限らず、僕の記憶というものは常に茫洋としていてまともなかたちを形成していない。不鮮明さという点に関して言うのであればどの時期であろうと一切の例外がなく等しくて、区別をすることが出来ない。

 結局何も分からない、に着地する。今の僕は、誰が被害者なのかも、どのようにして殺されたのかも、どこで殺されたのかも知らずに調査を進めている探偵のようなものだ。この事象の核となる記憶を完全に消し去ってしまった以上、外周を徘徊することしか出来なくて、しかしそれではいつまで経っても本質が分かるわけがない。

 偶然か、遠羽字から会いませんかという連絡が来たのはこのタイミングだった。また、会って話をしないかというメッセージに「分かりました」と返す。公園で話した時は初対面だったにも関わらず敬語を使うようなことはなかったけれど、文面だと互いにどこか余所余所しい口調になっていた。

 僕は、彼女とどのような距離感を保てば良いのだろうか。気兼ねなく話をすればいいのか、距離を取りながら話をすればいいのか。個人的には後者の方が楽だ。誰かに自分というものを曝け出すことは、弱さを曝け出すこととイコールで結びつく。孤独の解れはそのような場所から起こるということを、長らく孤独に慣れた僕は知っていて、ゆえに他人とは一定の距離を作るのが癖になっていた。

 少し悩んで、身構えるのを辞めることにした。気兼ねなく話すにしても、距離を取るにしても、自然に話すことが出来れば良い。今の僕たちに必要なのはそれなのだろうから。

 どこで会いますか、という問いに対してどこでも大丈夫ですよ、と返す。大学と、自らの部屋と、バイト先を機械的に行ったり来たりするだけの生活なのだ。他人と腰を落ち着けて話すことが出来るような場所についてなんて知っているはずがない。

 そうして彼女が指定したのは、公園から程遠くない場所にあるカフェだった。幸い、僕の部屋からもそれほど遠い場所ではない。了承した旨を伝え、決められた日時にそこへ向かう。

 大通りから外れた人通りの少ない、薄暗い道にそのカフェはあった。ドアを開き中に這入ると、客は隅に座っている女性のみで他に人の影は見えない。それが立地のせいなのか、時間帯のせいなのかは分からなかった。

 席に着き、コーヒーを注文する。待ち合わせの時間よりは些か早い到着だったけれど、本を読んでいれば時間は容易く潰すことが出来る。自らが待つよりも、誰かを待たせることが、僕は嫌いだった。

 コーヒーが着くまで、軽く店内を見回す。小さな店内はレトロな装飾で統一されていて、落ち着いた雰囲気が作られている。人目につきにくい立地にしたのは、あえてのことなのかもしれない。このような空間はそう多くはなくて、多くの客が入ることはないのかもしれないけれど、好んで来る客は必ず居るだろう。

 ジャズピアノの音が意識を侵さない程度に流れていて、それに混じりリズムを刻むように周期的なミルを回す音がする。飲食物に対して拘りのない僕からするとこのような場所は新鮮で、静かな空気を肌に馴染ませるようにして、ピアノと作業の音に耳を傾ける。

 暫くしてから到着したコーヒーを啜り、文庫本を開く。男が、自殺をした知人について回想をしているところだった。

 死んだ人間と忘れられた人間の違いについて、考える。どちらも等しく、個人にとっては存在をしない人間であり、果たして違いはあるのだろうか。人は死を哀しむのに、どうして忘却を恐れないのだろうか。そのようなことを考えながら、頁を繰る。

 彼女が来たのは待ち合わせの十分前で、ゆっくりと飲み続けていた一杯目のコーヒーが底を尽きそうになっていたところだった。

「ごめん、待たせて」

「いや、僕が早く来ていただけだから謝らなくていいよ。それに、どうせ他の場所に居ても本を読んでいるだけだったんだ。問題はないさ」

「そう、なら良かったけど」

 彼女はコーヒーを頼み、ついでに僕も二杯目のコーヒーを頼む。文庫本を閉じて、鞄に仕舞うと遠羽字と対峙をすることになったことに気が付いてどうも気が落ち着かなくなった。彼女からすれば僕は知己の仲なのかもしれないけれど、僕からすれば初対面の他人なのだ。

 それに、遠羽字には人を寄せ付け難い雰囲気があった。整った顔や艶やかな髪、静かで冷たい気配はどこか人から離れているものに感じる。ゆえに孤独になったのか、孤独になったからこその結果なのか、どちらなのだろう。

「笛吹君は、昔から変わらないね」

 唐突に差し向けられたその言葉の意図は当然分からなくて「は?」と間の抜けた声を出してしまう。

「待ち合わせに早く来る性格。どこへ行っても、君は私より先に来ていた」

「まあ、そうかもしれない」

 誰かと待ち合わせをするのであればそうするだろう。丁度今日考えていたような理由で。

「ここにはよく来るのか?」

 咄嗟に出た沈黙を埋めるためだけの質問には自分でも笑いたくなるほどに中身がなかった。僕が知りたいのは僕と彼女の過去についてで、このカフェについてではない。けれど、本当に知りたいことを知るために何を聞くべきなのかが分からなかったから、曖昧に誤魔化しただけだ。

「家から遠くないから、落ち着きたい時はたまに来るんだ。こうもコンクリートだらけの場所だと落ち着くための場所ってなかなか見つからないでしょ」

「ああ、それはそうだな」

 街はどこへ行っても無機質な灰色が囲み、見上げても狭まった空しか見ることが出来ない。人の行き交う音で満ち、空気はどこかくぐもった味がする。娯楽を見つけることは容易でも、気分を落ち着かせるための場所を見つけるのは、ひと気の多い街において案外難しいことなのかもしれない。

「私は自分の生まれ育った場所が好きっていうわけじゃないけど、ふとした時に海が懐かしいと思う。また行きたいなって」

 海。つい数年前まで歩いて行ける場所にあったそこがやけに懐かしく遠い存在に思える。中途半端に開発が進んだあの街の中でも、夜の海に向かえば人の気配は消えた。周期的な波の音、独特の香り、吹き付ける風、靴に入り込んだ砂の感触、潮でべたついた肌、恐ろしいほどに黒い海。あの冷たい砂浜は、独りで居るためのような場所だった。

 彼女もまた、あの海に行ったことがあるのか。あるいは、僕と共に行ったのかもしれない。誰かと共にあそこで月を眺めるのは、ひどく似合わないことのように思えるけれど。

 コーヒーが二人分届く。彼女は卓上にあったミルクを取り、ひとつ分コーヒーの中に入れて飲む。砂糖は入れないらしい。

「笛吹君は砂糖だっけ」

「いや、何も要らない」

 僕の場合コーヒーは味というよりも眠気覚ましのためとして飲むことが多い。砂糖やミルクを入れた方が僕の舌に合うという可能性もあるんだろうけれど、単純に億劫でそれを試したことはなかった。僕からしてみれば飲むことが出来るのであれば、それでいいのだ。

 コーヒーを飲む。それだけで、時間がいくばくか浪費される。奥に座っていた女性が席を立ち、会計をしてカフェから出て行く。誂えたように、店内には僕たちと店主しか居なくなった。

「あれから、一応記憶の施術に関して調べてみたんだ」

「どう、だったの?」

「この近くにある病院には施術記録が残っていない。もしも僕が記憶に関する施術を行ったのだとすれば、それはここから離れた場所で行われたんだろう」

「未来の自分に気付かれないようにかな」

「恐らくは。だから、僕が正確に何の記憶を消したのかは分からない」

 遠羽字の記憶を消したのかもしれないし、他の何かの記憶を消すうえで不可分であった遠羽字の記憶も消えてしまったのかもしれない。彼女の記憶を消したという事実は変わりがないのかもしれないけれど、過程によって当事者の内情は変わり得る。

「私も、何か君に示せるものがあればと思って探したんだけど、今は持ってないや。実家に戻れば卒業アルバムなんかがあると思うんだけど」

「ああ、卒業アルバム」

 確かに、それを見れば僕と彼女が繋がっていたという証拠となるだろう。そもそも、彼女の言葉自体が戯言であるという、土台から切り崩されるような可能性は潰えるわけだ。

「それなら僕も実家にある。確認しておこう」

「……あのさ、もし戻るなら、私も一緒に行っていいかな」

「どうして?」

「久しぶりに、笛吹君と海に行きたいなって。勿論、駄目ならいいんだけど」

「駄目というわけじゃないが、一緒に海に行ったところで、過去をなぞったところで何も変わらないだろう。期待はしない方がいい」

 記憶は残しておくか、完全に削除をするか、どちらかしかすることが出来ない。過去と同じシチュエーションをなぞることで記憶が取り戻されるなんていうフィクションのように都合のいいことは、起こり得ない。

「分かってるよ。期待をしてるわけじゃない。ただ、私は笛吹君とまた、あの場所を歩きたいだけなんだ。自己満足に過ぎないなんてことも、分かってるけどさ」

 表情に翳りが差す。その原因が僕にあることは分かっているけれど、その罪を自覚していないからこそ感情のやり場を見失う。僕は、同情をしても良いのだろうか。

 彼女が求めているものはきっと、再び笛吹冬司と関係を繋ぐことだ。元通りにならないということは分かっていても、以前とは異なるかたちであったとしても、限りなく以前のそれに似た関係になろうと思っている。だからこそ、手を掴んでまで僕を呼び留め、こうして再び会う場を設けているのだろう。

 しかし、その行為は虚しいものだとも思う。同じ人間が同じ経験をしたとしても、その経験を通過したタイミングというのが、人間にとっては大切なのだ。今の僕が彼女と関わったところで、どこまでいっても、僕は彼女が知っていた笛吹冬司に為ることは出来ない。

 それに、彼女が想いを伝えてくれる度に、僕の感情との乖離が進んでいることが分かる。切実な人間の祈りにも似た言葉を聞いていて、何も感じないということはない。ただ、感じるのは表層的な同情だけで、共感をすることは出来ない。

 それが無為なことであるとしても、彼女の気が済むまで付き合うことが贖罪になるのだろうか。それとも、深く関わるよりも前に離れることが、互いのためになるのだろうか。

 一度交わった直線は、離れていくことしか出来ない。僕たちもまた、一度交わり、終わってしまったのであれば離れていくことしか出来ないのかもしれない。離れるために再び出会ったなんて、悲劇としか言えないのだろうけれど。

「分かったよ。一緒に行こう。僕に出来ることは、ないけど」

 逡巡の後、諦めたように、僕はそう言った。いずれにしても、会話は既に断ることが出来ないところまで進んでしまっていた。それに決断を下すのはもう少し、進んでみてからでも遅くはないだろう。あまりにも楽天的な見方なのかもしれないけれど、悲観的な見方ばかりではとてもじゃないが生きてはいけない。

「何かをして欲しいんじゃないよ。ただ、そこに居てくれることが嬉しいんだから」

 彼女はそう言ってはにかんだ。自分に向けられた極めて純粋なその表情は、温かな何かが含まれていて、胸に疼痛のようなものが走った。僕のような人間にとって、優しさは時に毒となることがある。

 人生において代替可能な誰かとしてではなく、僕自身を求められることがあるとは思っていなかった。その事実に嬉しくなってしまうことが、自らの単純さと孤独の耐久性のなさに、嫌気が差す。

 記憶の改竄への嫌悪感というアイデンティティの一部が揺らいでいる中で、自分というもの自体を見失いそうになる。誰かに頼るべきではない。他人とはどこまでいっても自分以外の何かに過ぎず、過度な信用はいずれ身勝手な失望を生むことになる。

 意識を外界から内在に戻すために、コーヒーをひと口飲み込んだ。少し冷めて苦くなった味は適度に思考を醒ましてくれる。

「君は、記憶の改竄をしたことはあるのか」

「ないよ。考えたことはあるけどね」

「それでもやめたと」

「すれば笛吹君に嫌われる気がしてからさ。まあ、その笛吹君の記憶を消そうかと悩んでいたわけだから消してしまえばその悩みもなくなったんだろうけど。それでも好きな人に嫌われることはしたくないでしょ」

 形骸化した感情は呪いだ。既に失くしてしまったことは分かっていても、ことあるごとにそれが思考の隅を掠めていつまでもそこから逃れることは出来ない。だからこそ、その人の存在を記憶から消してしまうということは現代において一般的な鬱屈の解決策のひとつだった。

 けれど、彼女は消さなかった。記憶の改竄を厭うていた僕のために。その僕が記憶を消していたのだから、これほど酷い結末はないんだろうけれど。

 僕は、自分が記憶を消すなんてことをする人間だとは思っていなかった。どれほど痛く、苦しい記憶であったとしても、抱えて生きていくべきものだと思っていた。ただ、それは所詮、今までの人生の全てを否定してでも消したくなるような出来事に相対していないからこそ言うことが出来る、楽観的な考えだったのだろう。どれほど強固な信念を持っていたとしても、それは所詮形而上的な概念に過ぎない。暴力的なまでの現実に直面をすれば、いとも容易くそれは捻じ曲げる。良いとか悪いという話ではなくて、それが事実だ。

「なあ、僕は何をすればいい」

「何をすればって、どういうこと」

「贖いみたいなものだよ。僕はきっと、君に対して酷いことをした。そういうこともあったといってなあなあで済ませていい問題じゃないだろう」

 無自覚的な罪を、僕は恐れる。その実害を被ることも、それから何より自らがそれを振るってしまうということを。

 それは彼女のためというよりも自分を許すことが出来ないというエゴイスティックな感情がゆえ考えなのだろうと思う。それでも体裁だけでも彼女のためになるのであれば、意味のある行為なのではないだろうか。優しさでさえも、遺伝子にプログラミングされた利己的な行為なのだから。完全な利他的行為はイデアとしてしか存在しなくて、ならば奥底にエゴイスティックなものがあるとしても、見せかけだけでも他人のために動くべきなのだろう。

「苦しかったし、恨んだのは事実だけど、それは君に罪があることじゃない。私が望んでいるのはそういうアンフェアな関係じゃないから。贖いみたいなことはやめて欲しいし、それを理由にして今もこうして話しているのであればいっそ拒絶して欲しい」

「いや、違う。話しているのは、確かに贖いという意味もあるんだろうと思う。ただ、それだけじゃない」

「君自身の消した過去を知りたいから、でしょ」

「……ああ」

 彼女が求めているのは目的の存在している会話ではなくて、もっと何気ない、気兼ねのない会話なのだろう。けれど、今の僕にはそれが出来ない。遠羽字は僕にとって未だそのように気の許せる知人ではないのだから。

「今はそれでいい。でも、君の過去が分かって、問題が解決して、それでも話を出来ればいいと私は思ってる」

「ああ」と曖昧に頷きながら、それは果たして出来ることなのだろうかと思う。

 出来ないのであれば、僕は彼女と別れるべきなのだろう。それ以上の惰性的な関係の持続は彼女が嫌う贖いによるものになるのだろうから。

 彼女はコーヒーを口につけてから、テーブルの上で指を組む。やけに冗長な思考は左手の親指を上にするんだな、という不要な事実を記録する。

「君がどうして記憶を消したのかということは、私も出来れば知りたいと思ってる。それは、私に関係することなんだろうし、あれほど記憶の改竄を嫌っていた君が削除をしたということは大きな意味を持っているんだろうから。だから、協力させて欲しい」

「……君の力を借りることが出来るなら問題の解決は早くなるだろう。僕の消えた過去について知っているのは君だけなんだろうから。ただ、それは君にとって残酷なことじゃないか」

「残酷なことかもしれない。でも、だからこそ向き合わなきゃいけないことでもあるんだと思う。そうしないと、私は前に進めない。君とこうして話して傷を癒したつもりになっても、きっといつか誤魔化し続けた限界が訪れるんだろうから」

 真っすぐ、僕の目を見つめながら、彼女は言う。元より否定をするつもりはなかったけれど、仮に否定をしていたとしても彼女の意志は曲がらなかったのだろう。

「強いな、君は」

「強くないよ。強くないから、こうして生きることしか出来ないだけ」

 究極的な強さは、強さという概念にそれ自体について思考する必要がなくなり、執着をすることがなくなることなのだろう。ただ、自らの強さを自覚してそれを補うための生き方をするのは僕からすれば十分強い生き方をしているように見えた。僕自身が、そのような生き方をすることが出来ていないからこそ。

「ねえ、笛吹君。贖いとか、そういう堅苦しいものじゃなくて、個人的な頼みごとをしてもいいかな」

「する分には構わない。それが実行可能なことかは分からないけれど」

「君じゃなくて、遠羽って呼んでくれないかな。昔みたいに」

 言われてから、僕がずっと彼女のことを名前ではなく二人称で呼んでいることに気が付いた。それは僕に染みついた防衛機構にも似たものなのだろう。必要以上に他人を自らの近くに置かないようにするために、名前で呼ばないようにするという、拙い防衛手段。思えば、彼女に限らずもう暫く他人の名前を呼んでいない気がした。それが癖となっている僕が「遠羽」と名前で呼んでいたということは、やはり彼女とは親しい仲だったんだろうと思う。

「分かったよ、遠羽」と口にしてみる。とおば。頭の中で意識をするのと、実際に口に出してその響きを実感するのとでは大きな差がある。足下が安定していないような、浮ついた感覚がする。

「ありがとう、笛吹君」

 ただ名前を呼んだだけなのにそうも顔を綻ばせられると、妙なことをしたような感覚になるからやめて欲しい。他人から純粋な好意を向けられることに慣れていない人間は、そうしたものにとことん弱いのだ。

 コーヒーを飲む。更に冷えたそれは苦味を増して、美味しいと言えるようなものではなくなっているけれどそれを飲んでいる間は沈黙を気にせずに済む。

 カフェのドアが開いて、老人が這入って来た。二人だけの空間が終わってしまったことは哀しむべきことなのか、喜ぶべきことなのか、判断につきかねる。

「まだ、本は読んでるんだね」

「ああ、これくらいしか僕にはないから」

 本当に、僕にはこれくらいしかないのだ。自らのことを振り返ってみて、空っぽなことが嫌になる。せめて、読書という経験を他に活かすことが出来ていればましなんだろうけれど、それを活かすような機会も能力も、僕にはない。読書のために行われる読書。トートロジーは一種の潔癖とも言える崇高な色を持っているのかもしれないけれど、それは突き詰めた先に何かを得られたからこそ認められるものに過ぎない。惰性的に何も生み出さないもののトートロジーは無為なだけだ。

「今は何を読んでるの?」

「恋愛小説だよ。人が死んだりもする、ね」

「君は昔から人が死ぬ小説をよく読んでる」

「選り好みをしているつもりはないけど。ドラマティックな物語というのは人が死ぬことが多いからなんじゃないかな」

「多いことは認めるけど、人が死なない物語も多いよ。笛吹君の読む小説は、よく人が死ぬ。それもミステリ小説のような、娯楽的で記号的な死に方ではなくて、意味を持った死に方として」

 そうなのだろうか。人が死ぬかどうかという基準を持ちながら小説を読んだことはないので、いまいち納得をすることが出来ない。ただ、気に入っている小説を幾つか頭の中に思い浮かべてみると、確かにそれらの中ではどれも人が死んでいた。

 人間は意識的な判断よりも、無意識的な判断の方が多くする生き物だ。僕が人の死ぬ小説を選って読んでいるというのも、僕の無意識による嗜好なのだろう。

「小説における人の死には、どういう意味があるんだろうな」

「……例えば、疑似的な死。死という概念は毎日のようにニュースで流れているけれど、結局それらはどこか遠く、実感出来るものではない。だからこそ、他者の死を、そして自らの死を小説によって疑似体験する。例えば、喪失による存在の実感。感覚を覚えることで身体の存在を確かなものだと思えるように、虚構であったとしても痛みを覚えることで自分という存在があることを確かめようとしている。みたいな可能性はどうかな」

 何気ない呟きにそこまではっきりとした回答を貰うことが出来るとは思っていなかったので時間をかけて話を飲み込む。

「……面白いと思うよ。個人的には後者の方に近い気がしてるけど、それが正解だと断言することは出来ないな」

「咄嗟に考えたものだからね。急いで答えを出すべきものでもないし、もう少し時間をかけて考えるべき問題だと思う。考えるべき価値があるなら、だけど」

「価値は十分にあるよ」

 これが何かを生むことはないのかもしれないけれど、自分のことを理解することは大切だ。あらゆる動機は自分という土台の上に成り立っている。そこが不安定で茫洋としているのであれば、上には何も積み上がらない。

 昔から僕たちはこういう話ばかりしていたのだろうかと思う。理屈めいたものばかりで満たされる会話は気の置けない知人同士のものとしては奇妙なもののように見られるかもしれないけれど、僕の性にはあっているような気がした。剥き出しの感情みたいな、べたついたものを介在させないシンプルな関係。あるいは虚しいものだと言う人も居るのかもしれないけれど、虚しさの中が居心地の良い人間も居るのだ。

 幸い、時間はあった。僕たちはコーヒーを飲みながら話を続ける。昔も、同じような状況はあったのだろうかと、欠落に対する郷愁を思いながら。

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