2
梅雨が終わり、初夏の香りがする街の中で、何かが縋るように僕の手首を掴んだ。自らの歩みが引き留められたことと、誰かの温度を感じたこと。先に気が付いたのはどちらだったのだろうか。その問いの答えが出るよりも早く僕は反射的に僕を引き留めた誰かの方を見る。
そこに居たのは、長い黒髪の女性だった。年齢は、僕と同じくらいだろうか。真っすぐと、僕の中を覗くようにこちらを見ている。ただ、幸いなことに、あるいは不幸なことに、誰だろうかという逡巡の時間は僕には要らない。手を掴んで引き留められるほど深く関わり合った人は、僕の人生において存在しないからだ。
けれど、その女性は僕のその考えを容易く打ち砕くようにゆっくりと口を開く。
「笛吹君、だよね」
笛吹。確かにそれは僕の姓だった。似た背恰好をしている人は居るのかもしれないけれど、似た背格好をした同じ姓の人間が居るとは考えづらい。何より彼女は、僕の手を掴んで、向き合って顔を見つめたうえで、それでも尚僕の名前を呼んだのだ。彼女が探していたのは、間違いなく僕なのだということが断片を繋ぎ合わせることで自然と証明される。
けれど、彼女が求めているのが僕なのだとしても僕が彼女のことを知らないことに変わりはなかった。僕が覚えていないだけで、いつか話をしたことがあるのだろうか。しかしそれほどの関係で、突然手を掴み引き留めるようなことを、するだろうか。
「そうだけど、僕は君のことを知らないな」
考えていても、空っぽの引き出しからは何も出てこない。ならば、正直に聞いた方がいい。
僕の何気ない質問は、その当然のように思えていた意図に対して彼女にとっては深刻な問題のようだった。今にも崩れそうな、脆い表情を垣間見せた後で気丈に笑うような表情を作り、僕の言葉と同じような、何気ないトーンを装って言葉を紡ぐ。
「とおば。とおばあざ。前からそんなに変わって見える?」
あくまでも、彼女の言葉には僕が彼女のことを知っているという前提があった。しかし、名前を出されても、改めて顔を見ても、僕は彼女のことを知らない。とおばあざなんていう少女とは会ったことがない。
「悪いけど、人違いだろう」
同性で似た背格好をしている人間が居るとは思い難い。ただ、現実的に解釈をするのであればそうとしか考えることが出来なかった。彼女の知っている笛吹は僕以外の笛吹であり、偶然似ていた僕を引き留めた。それが、真っ当な可能性だ。
曖昧な部分が存在しない、決定的な否定を僕はした。それなのに手首を掴む手の力が、少しだけ強くなったことが分かる。縋るように、彼女は僕を繋ぎ留める。今目の前に居る女性を、僕は知らない。それでも、彼女の切実さを零すような表情は嫌でも引き留められるものがあった。
「笛吹冬司君、だよね」
小さなその呟きは、有耶無耶で済ませた現実的な解釈を崩すには十分なものだった。同性同名で似ている人物が居る可能性は存在するだろう。ただ、その可能性は極めて低い。存在をしていることを肯定することは出来るけれど、それが現実として起こっているということを肯ずるのは出来ない話だろう。
「本当に、私のことを覚えてないの?」
改めて突き付けられた言葉にじりじりと脳が痛みのようなものを覚える。現実と記憶との乖離が焦燥を駆り立てる。
どういう、ことだろうか。彼女は僕を知っていて、僕は彼女のことを知らない。いや、どういうことだろうかと考えること自体がナンセンスだ。このようなケースは聞いたことがある。特別珍しいものでもない、ありふれた事象だ。記憶の改竄というものが当たり前に行われるようになった、現代においては。
それでも僕は否定をしたかった。まさか、自分に限ってそんなことが有り得るはずがないのだから。しかし、考えるほどに可能性はひとつの場所へと集約されていく。
僕は、彼女の記憶を消したのだろうか。
その可能性は、考えるだけでも恐ろしいものだった。今まで自分が拒絶をし続けていたものがいつの間にか自らの中に存在していたというアンビバレンスな状態。それが僅かで有り得るというだけで気分を最低にするのには十分だった。
記憶すら信じることが出来ない人間に、現実を信じることが出来るだろうか。時間が異なったとしても、どちらも同じ意識なのだ。今ここにいる僕は僕の意思によって立っているのかが、分からなくなる。
空っぽの記憶が自らの存在を証明するように頭の中で響いた。けれど、どこまでも、いつまでも、その中に彼女の記憶は見つからない。証明されるのは僕が彼女のことを決定的に覚えていないという事実だけだ。
吐き気がする。足元が忽然となくなったような浮遊感を覚える。動悸がする。自分がどこに立っているのかが分からなくなる。世界との接続点がぼやけて、見えなくなる。
不意に肩に何かがぶつかる感触と、鈍い音がして意識が現実へと引き揚げられた。避けきれなかったのか、往来の最中で立ち止まっている僕たちに対する無言の抗議なのか、誰かが僕にぶつかったのだ。
「大丈夫? 顔色、悪いよ」
「……少し、適当な場所で落ち着いて話そう」
気分が悪いことは確かだった。脳味噌と内臓をぐちゃぐちゃにかき混ぜられたような、最悪の気分がする。ただ、今このタイミングを逃せばきっと問題はずっと解決をしない。僕が本当に記憶を消しているのか、それ以外の何かの原因があるのかは分からないけれど、いずれにしても放っておいては呪いのような禍根が僕の中に残り続ける。そのような苦しみを抱えて生きていくのは、嫌だった。
彼女の手首を今度は僕が掴んで歩き始める。思考は纏まらない。脳が軋んでいるような痛みを発する。それでも歩く。立ち止まれば、もう歩き出せない気がして。
目的地なんていうものがあるはずもなくて、人混みから逃れるようにひたすらにひと気のない道を選んで進む。街の喧騒から離れていく。離れる、というより逃げていると言った方が近いのかもしれない。今まで、自分とは違うと思っていた、記憶を、自分という存在を簡単に改竄する人々に迎合することが嫌だった。あと少しでもあの場所に立ち止まっていれば、常識という怪物に呑み込まれてしまうような気がした。
視界は現実の世界をなぞれど、意識は空転する思考の中に囚われていて、どれほど歩いたのかは分からなくなっていた。随分と遠くまで来たような気もするし、それほど歩いていないような気もする。ただ、気が付けば閑散とした道へと抜け出していた。ひと気が少ないことは確かだけれども、落ち着いて話をするような場所は見つからない。
「笛吹君も、この辺りに住んでるの?」
「いや、違う。取り敢えずひと気のない方に歩いただけで、目的地みたいな場所はなかったんだ」
「なら、公園があるからそこに行こう。あそこなら誰も居ないだろうから」
そう言って彼女は僕の手を引いて歩き始める。主導権が、ごく自然に彼女の方へと移る。あるいは、手を引いている時ですらも主導権は常に彼女の方にあったのかもしれない。僕は彼女の言葉により突き動かされ、動揺し、行動をしていたのだから。
笛吹君も、ということは彼女はこの辺りに住んでいるのだろうか。僕の家から遠くはない、と思う。現に、僕は大学からの帰途の最中に手を掴まれたのだ。近いとは言えないけれど、少なくとも歩いて行くことは出来る。
それでもこの辺り、という言葉に対して否定をしたのは、彼女と深く関わることを本能的に忌避したのかもしれない。一度繋がってしまえば離れることが出来ないような気がして。虚しい抵抗なのかもしれないけれど、溺れてしまった以上足掻くしかないのだ。泳ぐことが出来なかったとしても、助からないと分かっていても。
辿り着いた公園は、コンクリートで出来た街から取り残されたような、小さな公園だった。寂しさと沈黙で敷き詰められたそこには滑り台と鞦韆、それから街灯とベンチしかなく、人影は見えない。世界から見捨てられたような場所だ。
彼女は僕の手を引いてベンチへと向かい、座る。僕は逡巡をした後で、少しだけ距離を置いたうえで彼女の隣に座った。何かの偶然や間違いが起こったとしても触れ合うことがないような距離。それくらいが、最も適した距離だろう。
再び対峙して、されど言葉は見つからない。当たり前だ、他人に話すようなことを見つける以前に、僕は未だこの状況を嚥下することが出来ていない。現実として消化をすることが、出来ていない。それなのに、どうして話すべきことが見つかるのだろうか。
「久しぶり」
沈黙を静かに軋ませたのは繰り返される郷愁を孕んだ声だった。その感傷が明確に僕に向けられていることは分かれど、それに共鳴することが出来ない。一方的な感情は、僕の身体のどこに留まることもなくすり抜けていく。
好きな人に嫌われることが、嫌いな人に好かれることが悲劇であるように。関係性の認識のすれ違いというのはひたすらに悲劇だ。僕たちは今、その居る。
「とおばあざさん、だっけ」と名前を呼んでみる。不思議な響きの名前で、どのような漢字なのかが今一つ想像がつかない。
「……うん」
「確かに僕は笛吹冬司だ。ただ、重ねて言うけれど、僕は君のことを知らない。あるいは覚えていない。だから、確認をさせて欲しい。笛吹冬司とどのような関係だったのかを」
恣意的な記憶の消去ではなく、時の流れによって自然に彼女の記憶がなくなった可能性は、有り得ることだ。例えば、幼年期の思い出などは殆どが既に忘却をされていて、残った僅かなもので想像をした記憶に近い。その忘却をされた部分に彼女が居るのかもしれない。例えば、彼女だけが僕のことを認知しているような、意識のずれが存在していたのかもしれない。
「そうだね」と言って彼女は考え込むようにして指を組む。それが思案する時の癖なのかもしれない。
「どういう関係だったかって聞かれると答えるのが難しいかもしれない。友達、というのもおかしな感じがするし、付き合っていたわけでもなかったから。ただ、強いて言うなら幼馴染って言えるんじゃないかな」
「幼馴染?」
僕だけが一方的に記憶をしていないという可能性が容易く消される。人の名前や顔を覚えることが苦手なことは肯定するけれど、幼馴染と言えるような人間が居たことを忘れるほど薄情な人間ではない。やはり、恣意的な何かの力が働いたことを邪推せざるを得ない。
「本当に覚えてないんだよね」
「……ああ、全く」
幼馴染という関係を確認されたことで、僕の記憶の欠落は一層確かなものへと変わった。何かの間違いや個人的な問題ではなくて、僕は確かに彼女の存在を知らない。
「そっか」と彼女は頷いて、それから何かを言いかけてやめた。本当に彼女が僕の幼馴染だというのであれば、彼女の方もまた僕に聞きたいことがあるのだろう。それでも自らの言葉を押し殺したのは彼女の強さがゆえなのだろうと思う。
「私たちは、小学校三年生の時に同じクラスになって初めて出会ったの。あの頃、というより学校という場所において、私は居場所がなくて、いつも図書室に居た。そして、君もまた図書室に居た。それが私と同じような逃避の末の選択だったのか、君自身の意志だったのかは分からないけど」
小学生の頃の記憶は、殆どが茫洋としている。何があったか、という事象は思い出せるけれど、それに伴う感情までなぞることは出来ないし、思い出せる事象も運動会や修学旅行と言った個人的なものというよりは常識的なものだ。その中には当然少女の影は見えない。
けれど、三年生という学年に限らず、小学校を通して教室という空間から逃れるように図書室を利用していたことは覚えている。それは空想の世界に引き込まれたからという真っ当な理由であることも確かだったけれど、それよりも他人という存在が恐ろしかったからなのだろうと振り返ってみて思う。
父の歪んだ認識の下で育てられた僕には、他人を信頼するということが出来なかった。今から考えてみれば、その年齢の子供に記憶の改竄をすることは禁止されていることは分かっているけれど、当時の僕はそんなことを知るはずもなく、自分とは違う世界を見ているのではないかと常に怯えていた。
それに対して、小説は全てが嘘によって作られているという前提を受け入れさえすれば、その中に嘘は存在しない。全てが真実によって作られている。登場人物の「愛している」という言葉には一切の偽善や作為が存在せず、どこまでも純粋な愛の告白となる。その言葉が仮に嘘だったとしても、物語が終わるまでにはそれが嘘だったという真実が明かされ、何を思っていたのかが明らかになる。
彼らの世界には嘘や改竄が存在しない。疑うことなく、身を委ねることが出来る。だからこそ、僕は今も虚構を愛している。溺れている現実から逃れ息を継ぐために、虚構を求めている。
「暫くして、私は君と話すようになった。同じクラスの人が同じ孤独を共有しているような気がして、嬉しかったから。それから、私たちは話をするようになった。クラスが離れても、私たちの間には図書室があって、それが私たちを繋いでいたから」
図書室は、僕にとって居心地のよい場所だった。ただ、それは孤独の理解者が居たからという理由ではなくて、孤独の強度を高めることが出来る場所だったからだ。
「中学校に上がって、私たちの間に特別な場所は必要がなくなった。そこに行くから会うんじゃなくて、会うためにどこかに行くようになったから。ひと気のない階段とか、誰も使っていない時の体育館とか、それこそこういう公園とかで、私たちは会うようになった。その殆どは会話じゃなくて本を読んでいるだけだったけれど、そうした時間を共有することが出来る人が居るということが、私には嬉しかった」
僕の通っていた中学校の図書室には、人が多かった。年齢を重ねて本を読むことを楽しむ人が増えたというのもそうだし、小学校の図書室のような教養に重きを置いた本ばかりが並ぶのではなくて、中学校の図書室には書店に平積みされているような分かりやすく面白い作品が置かれていたのだ。借りる人、それからその友人。人で溢れた僕はひと気のない場所を転々としながら孤独を保ち続けた。それこそ、ひと気のない階段や誰も使っていない体育館に向かい、カタコンベの中で祈り続けた信徒のように、僕は独りで本を読み続けた。
「高校は別の場所になったけれど、それは私たちの関係を途切れさせるものではなくて、今まで通りの関係を続けてた。いや、遠くに出掛けたこともあったから今までより距離は縮まったって言えたのかもしれない。それも、私の思い込みに過ぎなかったのかもしれないけど」
「思い込みに過ぎなかったっていうのは、どういうことだ?」
記憶を語る彼女の言葉には常に郷愁の温かな色が差し込まれていた。けれど、最後の部分にはどこか冷たい寂しさが含まれていて、感情の揺らぎが見える。
彼女は何度か呼吸をしながら、ゆっくりと言葉を探すように押し黙る。これから話そうとしていることは、彼女の中でもまだ整理のついていないことなのかもしれない。しかし、僕が知らないということは変わらない。
「高校を卒業して、君は何も言わずに私の前から姿を消したんだ。連絡をすることも出来なくて、それ以来会えていなかった。そんな君を、ようやく見つけたの」
感情に共感をして、共有をするには、僕はあまりにも彼女のことを知らなさすぎる。けれど、今まで共に居るのが当たり前だった人間が何も言わずに自らの前から姿を消したという、裏切りにも思えるような現実に対する思いを想像することは出来る。やるせなさ、憤り、恨み、切望。その堆積が、あの手首を掴んだ温度だったのだろう。
人は孤独に慣れることは出来ても、孤独に為ることは出来ない。完全な孤独に耐えるには、人は弱すぎる。ゆえに、拠り所が必要なのだ。それが、僕の場合には本であり、彼女の場合には僕だった。あるいは、彼女の記憶通りの僕が居たのだとすれば、僕もまた彼女に拠っていたのかもしれない。どこまで突き詰めても、僕にとっては存在しない仮定の話に過ぎないけれど。
過去の手がかりを差し出されて記憶が戻る、なんていうお伽噺みたいな展開は有り得ない。記憶の削除は徹底して行われて、僕の脳内には痕跡ひとつ残されないのだから。
どうして僕は彼女の前から消えたのか。どうして僕は記憶を消したのか。それを尋ねたいのは、彼女もまた同じなのだろう。けれど、知っている人間は既に世界の中に居ない。彼女との過去が形成した笛吹冬司という人間は、科学技術によって世界から姿を消したのだ。
「君の話が正しいんだとするならば、恐らく僕は記憶を削除したんだろう。ただ、僕は記憶の改竄という行為を受け入れることが出来ていない人間なんだ。嫌悪し、拒絶していると言っても良い。そういう僕自身のバックボーンを含めると、そうなのかもしれないと頷きがたい事実でもあるんだ」
「……うん。君が記憶の改竄に対して嫌悪感を抱いていることは知っているし、だからこそ君自身が記憶を削除したかもしれないという可能性を受け入れられないことは分かってる。私も、君がそうしているかもしれないという可能性は今もまだ信じられていない。でも、私は嘘を吐いているわけじゃないっていうことは、知っておいて欲しい」
彼女は僕の心に楔を打ち込むように真っすぐと目を見て、そう言った。その言葉には純粋な熱が籠っていて、だからこそ嫌になる。それに応えることが出来ていない僕が悪人であるように思えてしまうから。僕の偏執病じみた考えに過ぎないことは、分かっているんだけれども。
記憶を消去せずに、彼女の記憶だけが抜け落ちるということは有り得るのだろうかと考えて、そんな都合のいい話があるわけがないと否定する。他の記憶まで欠落しているのであればまだしも、僕の記憶には幼馴染の少女の存在を除いて確かな連続性が存在している。僕の魂にこびりついた拒絶感と、彼女の過去に折衷案は存在しないのだ。
纏まらない思考を抱えたままで沈黙が肌に染みる。温い、夏の気配がする空気が肺を満たす。今の僕に、能動的に彼女を繋ぎ留める理由はない。そして、彼女に対してどのような言葉をかけるべきなのかが分かるほど、僕は彼女と近くない。情けないけれど、何も出来ることがなくて、ただどろりと湿った空気を吸い込む。
「ごめん、私混乱してて、君に何を言えばいいのかが分からない」
「僕もそうだよ。何を言えばいいのか、何をすればいいのかが分からない」
「……今日は帰ろう。これ以上、ちゃんと話せる自信がないや」
そう言って彼女は立ち上がる。それをどこか止めたいと思ってしまったのは、彼女が持っている脆く寂しい魅力がゆえなのか、あるいは記憶の幻肢痛が疼いているのか、どちらなのだろうか。けれど僕は立ち上がることすら出来ずに、彼女の後姿を眺める。
「これからもまた、私は君に会っていいかな」
「君が許してくれるなら、僕に断る理由はないよ」
彼女の存在が僕という存在に対してどのようなものだったのかは分からない。自分が嫌悪していたものにさえ縋って、切り捨てたものと再び交わることを過去の自分は拒絶するかもしれない。けれど、今ここに生きているのは過去の僕ではなく、今の僕なのだ。後悔をすることになったとしても、僕は彼女のことが、自分のことが知りたかった。
「連絡先を交換しておこう」といってスマートフォンを取り出す。こうして容易く他人との繋がりを作ることが出来る時代というのは、どこか恐ろしいところがあるものだと思いながら。
簡単に繋がることが出来る代わりに、簡単に繋がりを断つことが出来るという人も居るのかもしれない。確かに、電子上のやり取りを中心とした関係であればその繋がりを数回のタップかクリックで断ち切ることが出来るだろう。けれど、簡単に断ち切ることが出来るのは情報だけで、その人との間に存在していた過去は消えるはずがない。だからこそ、それすらも消すために記憶の削除は使われるのだろうか。だとすれば感情も、記憶も、ゼロとイチの羅列のように単なる情報として処理されているような気がして、やはり僕は好きになれない。
「名前の漢字を教えて貰ってもいいかな」
とおばあざ、と登録をすることも出来るんだろうけれど、くだらない拘りが気の抜けた五文字を登録することに対して抵抗感を示した。
「遠近の遠いに、羽で遠羽。文字の字で字。変わった名前でしょ?」
「いい響きだと思うよ。そして名前において響きは大切だ」
見かけない名前であることは否定しないけれど、その響きが良いと思ったのは世辞ではなくて本心だった。
「僕の漢字は――」
「分かってるよ、杵と碓の碓に氷でしょう」
言葉を遮って、彼女はそう言った。彼女には僕との過去の記憶があるのだ。分かっていても何も不思議ではない。ただ、その情報は間違っていた。
「いや、そっちじゃない。笛を吹くで笛吹だ」
確かにそちらの漢字でもうすいとは読むけれど、僕の苗字は違う。
「本当に?」
「どうして僕が自分の名前の、それも漢字で嘘を吐かなければならないんだ。笛を吹くで笛吹、冬を司るで冬司だよ」
改めて自らの漢字を口頭で説明すると彼女はひどく驚いたような顔をする。どうやら、彼女の認識していた表記は異なったものであったらしい。
「……まあ、ただ会話をするだけなら名前の漢字まで気にすることはないし、間違えて覚えていることだってあるだろ」
「でも――いや、そうだね。私の記憶違いだったんだと思う」
彼女の中で碓氷という表記は深く根付いていたものだったようで、飲み込んだような言葉を口にしても完全に嚥下し、受け入れることは出来ていないようだった。けれど、事実なのだから仕方がない。
人間の記憶は容易く変容するものだ。どれほど事実だと思っていたことも、記憶へと加工をされ、思い出へと退色する。過去もまた、人間の想像物に過ぎないのだから。
連絡先の一覧に、遠羽字の三文字が追加される。一覧といっても、そこはもう言葉を交わすこともない形骸化したものが堆積しているばかりで、現在進行形で話をしている人となれば彼女だけになるのだろう。たった一人の誰かを作るという機会が僕に巡って来るとは思っておらず、とても奇妙な感覚を覚える。
本当にこれでいいのだろうか、という問いは意味がない。あの往来の中で手を掴まれた時に、既にことは始まっているのだ。振られた賽に出来ることは、ただ祈るだけだ。
「それじゃあ、また」
「ああ、また」
公園を出て行く彼女の背中を見送ってから、僕は背凭れに体重を任せ、空を見上げた。梅雨を切り裂いて現れた空は目が痛くなるほどに青い。これからまた、暑くなってゆくのか。気が滅入ることばかりで嫌になる。
低空飛行だったとしても、あの惰性的な日常を繰り返す方がマシだったのか、それとも先の見えない劇的な今の方がマシなのか。少しだけ考えて、その先にあるものが憂鬱しかないことに気が付き思考を止める。
記憶を消すことが出来るようになり、疑似的に過去を操作出来るのだとしても、未だ人類は未来を操ることは出来ない。先の見えない道を進んでいくしかない。空の青を瞼の裏に染み込ませるように少しの間目を瞑ってから、僕はベンチから立ち上がり今までとは違う世界を歩き始める。歩き始めなければならない。
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