A×h××ag×r×pho×i×.

しがない

Only Alogos.

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 時折、存在しない恋人の記憶を作ろうかと考えることがある。

 恋人が欲しいというわけではない。仮にそのようなものを作ったとしても、記憶に過ぎず、現実は何も変わらない。それでも、記憶の中だけでも縋ることが出来るものがあるのだとすれば、それは幸福なことなのではないだろうかと考えてしまうのだ。

 結局、いつも考えるだけで行動に移すことはない。記憶を改竄するということは、自分を改竄することにもなるのだから。僕は自分というものが好きではないけれど、自分というものを捨てたいとも思わない。けれど、多くの人にとって自分というものはそれほどの価値を持っていないようで、記憶への干渉はひとつの技術として当然のように膾炙した。

 記憶の作成、削除。元はアルツハイマーの治療やトラウマの克服のためという名目で進展した技術は、より多くの人の偽りの生活を豊かにするために瞬く間に広まっていった。一度きっかけが出来てしまえば、倫理や常識なんていうものは簡単に瓦解する。記憶という、アイデンティティに繋がるものの改竄は最初こそ抵抗感や嫌悪感を抱かれれど、それも砂糖がコーヒーに溶けていくように消えていった。

 個人が抱える過去を変えたところで現実は何も変わらない。だからこそ、それを都合のいいものに変えても良いはずだ。そのような考えに基づいて人々は記憶を変えていく。

 存在しなかったノスタルジアを植え付け、時折フラッシュバックする気恥ずかしさをかき消す。虚構の人間を投影し現実の穴を埋め、嫌いだった人間の存在をせめて自分の中だけから抹消する。

 一億以上の人間がこの国には住んでいる。けれど、多くの人が自分にとって都合のいいように世界を歪め、認識している。世界を共有するという体験は、もう殆ど出来ない、死んでしまった遺跡だ。

 僕の父は記憶改竄のヘビーユーザーだった。僕に意識が芽生えた時には既に彼の記憶は歪なパッチワークになっていて、本当の彼を僕は見たことがないのだろうと思う。

 父は僕と母を見ていなかった。父の中だけに存在する、父だけの世界の中を生きていたのだ。一見完成されたように見える幸福な家庭は、そうして静かに崩壊する。母が自殺をしたのだ。

 その原因が全て父によるものだったとは言わない。自殺というものはひとつのセンセーショナルな事件によってのに決行されるものではなくて、あらゆる物事の堆積が僅かなトリガーによって決壊し、濁流となった結果なのだ。父だけのせい、というのは暴力的な括り方だと、僕は思う。

 ただ、それと同時に父がその原因の一部であるということもまた確かなことと言えるのだろう。僕が記憶の改竄を厭うているのは、アイデンティティを歪めることに対する忌避という理由でもあるけれど、それは論理的に解釈をしようと後から付け加えた言い訳に過ぎなくて、本当の理由は父への嫌悪感がゆえなのかもしれない。

 父は母の死因を病死という風に改竄した。人の死にまつわる改竄は認可が通りにくいけれど、自殺者の遺族であるということを理由にして母が死んで半年が経った頃には既に処置が済まされているほど迅速にことは済んでいた。その日を境に、僕は僕の意志で父の記憶を消すことに努めるようになった。今はもう、口座にある数字でのやり取りしかしていない父は、既に僕のことも都合のいいように歪めているのかもしれない。

 二十歳を過ぎた僕には、改竄する余地がないほどに記憶というものがなかった。特異な症状があるというわけではなくて、過ぎ去る現実を思い出として消化出来るほどに大切に思うことが出来なくなっていた。

 脳裏に焼き付く風景も、思い出す度に心が鼓動する出来事も、何もない。時折浮かぶノスタルジアは真夏の畦道というありふれた原風景でしかなくて、虚しさだけが増えていく。

 僕を構成するべき思い出が、何もない。記憶を改竄することが自らを改竄することになるのであれば、記憶らしい記憶が存在しない僕には、自分というものが存在しないのだろうか。存在もしないものを、僕は大切に抱え続けているだけなのだろうか。

 温度のない、プラスチック製品のような人生。それならば、偽りであっても温かな中身を注いだ方が良いのではないだろうか。世界の限界は自分自身の限界と等しいのだ。偽りであっても、他人から見たら滑稽で醜悪なものだとしても幸福は幸福に代わりないのだから。

 けれど、僕は踏み出さない。魂の根底に染みついた拒絶というのは根深いもので、きっと僕は死ぬまで記憶の改竄を肯定することは出来ないのだろうと思う。根絶をするべきだと声高に叫ぶほど他人に対しての思い入れはないけれど、少なくとも僕自身は自らの記憶に針を通すことを拒絶し続ける。

 ゆえに、僕の人生は何も変わらない。惰性的に、地面と擦れ合いながら、地面を見つめながら、生の滑空を続ける。劇的な墜落事故を起こすことがないという耐久性の代わりに、いつか音もなく、静かに墜ちていくという確信を抱きながら。

 代り映えのない日々の延長線上に何があるのだろうか。その問いすらも、日常の中に埋没していく。時によって流されていく。存在しているだけの世界が、空気が、僕にとっては息苦しいもので、生きているだけで溺れそうになる。

 そんな中で伸ばされた手は僕を引き揚げるためのものなのだろうか。暗い水底へと誘うためのものなのだろうか。それは分からない。ただ、その手の温度に触れられてしまった途端に、僕はただ溺れているだけではなくなる。プラスチック製の殻が世界によって弾かれ、虚しい音が身体の中に響く。

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