第10話 ハチ公
向島のホテルに当たらせたが、松上の顔を覚えている人間はひとりもいなかった。
それは無理も無いことで、夜景を売りにしているバーはその時間帯何処も満席で、その殆どがカップルなのだ。
大半は宿泊客だが、そうでない客も多い。その中でひとりを探し出すのは無理だ。
捜査に当たった刑事は口を揃えてそう報告してきた。丘頭もだろうなと思う。
ラブホテルにも捜査員を行かせて監視カメラの映像を確認していったが、松上の顔は確認できなかった。
不倫客が多いのか、恥ずかしいからなのかほどんどの客はカメラから逃れるように入退館している。
キャップでも被ってたら見つけるのは不可能だ。
松上にその時の服装を訊くとキャップは被っていなかったが、女と抱き合いキスをしながら入ったと言うので捜査を打ち切った。
結局、バンソコ以外松上の主張を裏付けるものは何も出なかった。
「松上さん、あんたを信じて数十人の捜査員を動かしたけど、裏付けは取れなかった。だから、あんたの主張は認められない。ほかに、覚えていることは無いの?」丘頭は念のために訊く。
松上は連日の取調べにすっかり憔悴しきっていて最初の元気も無くなり静かにかぶりを振る。
「じゃ、殺害を認めるか?」
丘頭のその問いにだけは「俺は殺ってない」とはっきり答える。
これまで丘頭は自供しない容疑者を送検したことは無かった。それが自慢でもあった。
「なぁ、ハチ公のとこで待たされてるとき、誰かと会わなかったか? 一時間以上待ったんだろう?」
勾留期限のある話なので何処かで決断しなければならないのだ。
これを最後の質問にして、何も無ければ起訴しかないなと丘頭は意を決していた。
「そんな事言われてもよ……」
松上がそう言ってるときに、外でパトカーのサイレンがけたたましく聞こえて言葉を遮った。
騒音が遠ざかって「……何も……」それだけ言って松上が急に腕組みをし、にたりとして丘頭を睨んだ。
活力ある眼差しだった。
「何? なんか思い出したのか?」
「あぁ、そうよ。酔っ払いだ。酔っ払いに絡まれて殴り合いになるところで、パトカーが停まって警官が仲裁に入ったんだった。それで交番に連れて行かれてあーだこーだ聞かれてよ。だから、記録残ってるんじゃないか?」
「嘘じゃないだろうな!」丘頭は思わず怒鳴る。
「すぐ分かるような嘘ついてどうすんだ。ばーか、考えろ」
ムッとしたが「市森すぐ確認しろ!」と反射的に叫んでいた。
……
「松上さん、遠見里桜さん殺害時のあんたのアリバイが証明されたよ。良かったな」
「あたりめーだ。散々犯人扱いしやがって、あったまくる」
「まぁそう怒るな。それだけあんたが可笑しな行動をとってたってことなんだから。それにしても、それじゃ、何であんたの体液が遺体の体内から発見されたんだ?」丘頭は暴行だけはこいつの仕業かとも思った。
殺害時刻は分かっても暴行時刻を示す死亡推定時刻では無いからだ。
丘頭は上層部とも相談し、松上を釈放した。逮捕から九日目の事だった。
そして署を出る松上を尾行させた。
*
釈放された松上幸三郎はアパートに戻り酒を手にしていた。
頭に血が上り過ぎていて、時間とともに怒りが収まるどころか激しくなって警察を恨んだ。
「あの女刑事、ぶっ殺してやる」ひとりごちる。
翌日から、懐にナイフを隠し持って浅草警察の周りをうろついていた。道路向いのレストランから署を睨み続けたりもした。
しばらくして女刑事が出てきた。松上は急いで後を追う。
ひとりでひさご通りを歩いてゆく。そこは古い商店街で今では人通りはまばらだ。
チャンスだと思ってナイフを握りしめ、急ぎ足で女刑事に近づく。
もう少し、というところで女刑事が急に古ぼけたビルに入ってしまった。
見上げると二階の窓に大きく、<岡引探偵事務所>と書かれている。
「あいつか、何回か話を聞きに来た探偵だ」と呟いた。
二階から誰かがこっちを見ている気がして傍のラーメン屋に入った。
そこのおやじは話し好きらしくあれこれ世間話をする。
松上に関係のある話もした。
「警察は何考えてるのか分からんが、一心さんは逮捕された男の犯行じゃ無いって言ってたのさ。そしたらその通り釈放されて、端から警察が一心さんの言う事聞いとけば良かったのによ」
「その一心ってなんで違うって言ってたんだ?」
「あぁ、確か、遺体の状況を見てな、故意に作られたんじゃないかって言ってたらしいよ。それをさ、浅草署の女の警部さんも認めたんだけど、上層部が認めてくれなかったって言って結構その丘頭って警部さん悩んでたらしい」
「それにしても、とうさん詳しいな」
「あぁ、一心さんとは親戚みたいなもんだからな。警部さんも良く遊びに来てるんだ。警察より遥かに優秀な探偵さんだよ、なぁ十和ちゃん」
ラーメンを運んできた女性がにっこり微笑んで「えぇ、私も助けられたんです。探偵さんと丘頭警部さんに、今回も丘頭さんは逮捕した男の人は犯人じゃないんじゃないかと思ってて、無実の証拠や証言を随分走り回って探したって言ってたわ。良い人たちよ。お客さんも何か困ったら、一心さんか丘頭警部さんに相談したらきっと助けてくれるわよ」
松上はショックだった。その女警部を刺そうとしていた。 ――俺に罪を認めさせるためじゃなくて、無実を示そうとしてあんなにしつこく、何か覚えてないかって聞いてきたんだ……
松上の心の闇に少し明かりがさした気がした。
店の電話が鳴った。
「十和ちゃん、今喋ってた一心さんとこに出前だ。六人前だから丘頭さん来てんじゃないか?」
「はーい」
松上が店を出ると、続いてその女性が岡持ちを両手に持ってそのビルの階段の下から「まいどー」
叫ぶと上から男二人が駆け下りてきて、岡持ちを受取って行った。
その様子を見ていて、その家族や警部の<ひと>が見えたようなきがして真っすぐアパートに向かう。
途中、今度はホテルへ一緒に行った女をとっ捕まえてやろうと言う気持が芽生えてきた。
*
美紗は、婚活パーティーに参加しカップルになったもう一人の女性、乙女塚真琴(おとめづか・まこと)を調べていた。
葛飾区の荒川近くの戸建て住宅に生まれ育ち、大学卒業までは両親と住んでいたが司書資格を取得し西浅草の図書館に就職が決まると、その近所にアパートを借りて一人住まいを始めた。
スリムで百七十センチの恵まれた体格で生まれつき足が早かったようで、学生時代にはリレーの選手に選ばれている。しかし、本人は本が好きで暇があれば読書するような女の子で、学校の図書委員をずーっと務めていた。
恋愛に疎く二十五になって親から婚活パーティーに参加するよう勧められたようだった。
そこで童結翔(わらべ・ゆいと)と言う男性と知合ってカップルになる。
童の家は邸宅という感じで二世帯住宅になっていて、それ以外に教室を併設している。
彼は真琴と同じ年で幼いころからヴァイオリン教室に通い相応の腕前だったようで、音楽大学へ進んでいる。
しかし、プロの演奏家を目指したがどのオーケストラの試験にも受からず、自宅でヴァイオリン教室を開いて子供から老人までを相手に教えている。
彼も恋愛に疎く親に勧められて婚活パーティーに参加したようだった。
二人は五分間と言う決められた時間に愛読書の作家が同じだったという所から話が合ってカップルになったようだ。
休日にデートを重ねているがどこまで進んでいるのかは定かではないし、美紗もそこまで聞き出そうとは思わなかった。
けど、ふたりを尾行しデート中の様子を窺う限り、深い仲であることはその道に疎い美紗でもわかった。
ふたりとも他人から恨まれる要素はまったく無いように見えた。
「婚活パーティー以降身の回りで可笑しなことが起きていませんか?」美紗が真琴に訊いた。
「えー、普段と変わらないですけど、どうしてです?」と、真琴。
「そのパーティーに参加した女性が三人も殺されてるんですよね、それで私もちょっと心配になっちゃって……」
「そうなの、ごめんなさい、私全然気にしてなかった。狙われてるんですか?」
真琴は「殺されてる」と言う言葉に驚き、急に不安な気持になったようだ。
「いえ、はっきりとは言えないんですけど、五人のうち三人なんで気にした方が良いのかなって」
「そうですか、じゃ夜は一人歩きしないようにします」
「えぇその方が良いと思いますよ。あと、何か気になることがあったら私に連絡してください」
美紗はそう言って名刺を渡した。
*
一助がカフェ<かれん>の周辺を調べていて、渋谷署管内で起きたストーカー事件に行きついた。
<かれん>の客で高木一平(たかぎ・いっぺい)と言う二十三歳の男が渋谷の繁華街で花恋と偶然を装って出合い「花恋さんこんにちわ。お買い物ですか?」と声を掛けたようだが、花恋は「どちら様ですか?」と返したと言う。
「店ではあんなに愛想を振りまいて親しく話してくれるのにどうして覚えていないのよ!」と、高木は激しく怒鳴ったらしい。
さらに高木が嫌がる花恋の腕を掴んで引っ張って行こうとし、花恋の悲鳴を聞いた通行人が警察へ通報し高木が警察署へ連行されるという事件があったのだった。
そこで高木は刑事に「女の子と付き合ったことが無くて、いきなり冷たく言われどうして良いのか分からず強引になってしまった」そう言って頭を下げたと言う。
刑事からがっちりと怒られ二度と声を掛けないと約束させられて解放されていた。
花恋殺害事件の一年前の事だった。
高木は母子家庭で高校へは行かず、生活の為小料理屋で住み込みで働き始めていた。朝は六時から仕込みが始まり昼の休憩は有るものの夜の十時まで働き通しだから、彼女なんて作る暇はなかったようだ。
初めて好きな女ができ、その女も自分に愛想を振りまくからてっきり好きなんだと思い込んでいたのに、赤の他人のように扱われて腹が立ち友達と飲んで酔っぱらうと思い出して「ぶっ殺してやる」なんて言ってたのを警察に嗅ぎつけられ、花恋が殺されたあとしばらくして警察に事情を聞かれた。
親方が「仕事を十時までやっていた」と証言してくれたが、死亡推定時刻が午後十時から十一時の間のため、完全なアリバイとはならず、警察は周辺を嗅ぎまわっている。
一助が高木を居酒屋に誘ってビールを飲ませながら話を訊くとそんな風に語った。
さらに、高木の話は続いた。
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