2.罠

 「ついたぁ〜」


 家の敷地内に入り魔狼の包囲網から脱出してきた青年はとりあえずの安堵を見せる。

 家の周りは雨が降っていたせいで少しぬかるんでいるが見通しが良く魔狼が襲ってくる気配は感じられない。

 巨樹から突如現れる草地だけの平地が青年が管理している敷地。大森林との境界線になる。

 境界線だからといって誰も入ってこない訳ではないが青年には一部の魔物を除きここへは侵入してこない自信がある。

 だからこそ、草地に入った時に満ちた自信が青年の安堵の原因でもある。


「一応、もう魔狼は追ってこないから。安心していい」

「……」


 緊張を解く為に女性にも声をかける。だが、女性からの返事はない。


 仲間を置いてきた事に罪悪感を感じているのか。

 または、仲間を置いてきた青年に怒りを感じているのか。

 それはわからない。


 ただ、女性は斜め下を向いて髪から滴り落ちる雨粒も気にせず呆然とする姿はかなりの焦燥感が滲み出ている。自らが命を絶つのではないかと思わせるだけの悲しみに満ちている。


「とりあえず家に入ろう」


 早急に女性の看護が必要だ。

 それを青年は感じているがどのように行動すべきなのか指針が見当たらない。


 5年前までは親父と二人で暮らしていた。

 それ以降の5年間は一人暮らしだ。


 まして、女性などは初めて見る。

 女性を助けたのは久しぶりに人を見た、初めての女性を目にした事で興味を持っただけだ。だから、青年は紳士のように女性をエスコートする術を持ち合わせていない。家の中へ招き入れる動作だけでも心臓の鼓動が女性に聞こえるのではないかと勘ぐるほどに高鳴っていた。短時間の間に青年は思考を巡らせて女性への接し方を構築しようとしているだろう。


 錬成の定義にもある。


 《無》から《有》は生まれない。


 もちろんこれもあのクソ親父と呼ばれる奴が残した言葉だ。

 女性の接し方が《無》なのだから《有》。つまりは対応策など生まれるはずがない事に気づいたのは汚れた服を交換する為に替えの服を探している頃。


 女性の下着ってこれでいいの? などと男物の下着を両手に持ち思案する青年が許容オーバーとなりその場に崩れ落ちた時だった。


 ◇◆◇


 青年は頭を再起動するとすぐに女性を風呂場に押し込んだ。女性の汚れた白いシャツは全体的に裂創や擦過傷が刻まれている。衛生的にも良いはずがない。


 替えの衣服を女性に渡して体だけでも汚れを落とすように促す。


 言葉はないが青年の言葉を理解したのか風呂場に行って体に溜まった汚れを落としに向かう。

 その間に青年は考察すべき事案を検討する。


 これからどうする? という事案だ。


 先刻、女性への対応は青年だけでは無理だと判断した。それでは誰を頼るのか?


 青年は立ち上がると書庫へ向かった。


「誰じゃなくて本を頼るとしよう」


 書庫の中に女性への接し方を書いてある本がないか探す。全てを読破した訳ではない。書庫には可能性が秘められているが時間は限られている。本の題目だけを見て探す他ない。


 ――数十分後。玉砕。


「やっぱそんな本はないか」


 諦め切れずに何度も書庫の本の題目を眺めながら諦めの言葉を呟く。このままでは無言の時間を二人で過ごす事になる。それだけは避けたいと焦りを見せる。


 ガチャッ


 風呂場の戸が開く音がした。


 青年が振り向くと湯気を纏った女性が立っていた。


「あ、あの……。ありがとうございます」


 体の汚れを洗い流した事で意識も変わったのか女性は恥じらいながらも青年に礼をする。

 戦闘中には邪魔にならないようにお団子に纏めていた桃色の髪は解くと肩より少し長くまだ湿っているせいか艶めいている。

 容姿端麗な顔も風呂上がりにより紅潮して妖艶さが際立つ。

 青年が貸した就寝用の衣服も少し女性には大きくブカブカで愛らしく映る。

 何より同じ体を洗う石鹸を使っているのに女性から香る匂いは甘美で、全体を通して風呂上がりの女性というのは青年には強力な毒となりうる存在だという事が分かった。


「あ、あぁ……。それならよかった」


 甘美な匂いと妖艶さが際立つ容姿に飛びそうになる意識を持ち直し女性へ声をかける。


「な、なぁ……。こっちに来て座ったらどうだ?」


 毒に侵されてしまっていると思われる青年は立ったままの女性をそのままにしておくわけにはいかず、自分が座っているリビングの椅子まで来るように積極的に促す。


「は、はいっ」


 そして、女性は手招きされた青年の指示に従い青年と対面の椅子に腰掛ける。


「た、助けてもらってありがとうございましたっ」


 椅子に座るや否や女性は緊張しながら青年に救援の礼をした。

 急に女性からの礼に青年は面食い、微笑みを浮かべて言葉を受け取る事しかできなかった。その青年の笑みを許されたと勘違いした女性は緊張や焦燥はほぐれたのか続けて話し始めた。


「私はマリベルと言います。ここより東側の街クレナミアでギルド職員をしています。第1級守護者ガーディアンの魔法詠唱者です」


 女性は自分をマリベルと名乗ると、青年が知り得ない街の名前や気になる言葉を話した。マリベルの吹っ切れたかに見える顔を見て青年は女性・マリベルの救援を終えた事にやっと心を撫で下ろした。


「オレはゼノ。この森で暮らして15年になる。森の外へ出たことがないからクレ……なんとかって街も知らないし守護者って奴も知らない」


 青年・ゼノは姿勢を正してマリベルへ自己紹介を始める。そして、自己紹介が終わるとゼノは重くなった口を開いて魔狼に襲われていた詳細を聞くべくマリベルへ話を持ちかけた。



「……とこれがゼノさんに会うまでの私達の詳細です」

「なるほど、確かに大蛇グランペントに遭遇したのは不味かったな」

「はい。それで数人が死傷して隊列が瓦解してしまい、魔狼に遭遇して戦っていたのですが……」

「マリベルを残して力尽きたと」

「……」


 マリベルの話によれば大森林には魔物の個体調査に来ていたそうだ。ギルドの調査指針に則り斥候2名、重戦士1名、治癒魔導士1名、剣士2名、魔法詠唱者マジック・ディスペンサー1名の8名編成以上が義務付けられ、どの守護者も第1級守護者と考えうる上位の布陣をしいて向かう事が前提とされている。


 それだけの編成をしていながらマリベルを残して壊滅となったのは大蛇の存在が大いに関係する。

 大森林で他の魔物を寄せ付けない巨躯な体躯を持ち、自分の赴くままに蹂躙する大蛇は大森林の主といえる存在。基本的に移動は雨が降っている日が多く、速度もゆっくりである為注意をしていれば回避は可能だとゼノは考えている。


 しかし、それを許さない原因を作ってしまう時がある。それは、雨の降り始めだ。

 基本動かない大蛇は表鱗が乾いてしまい地面を這う事が難しい。


 そんな時に雨が乾いた表鱗に落ちるどうなるか?


 潤いを取り戻した表鱗は大蛇の動き出す合図に変わり、大蛇は蠢き始める。

 そして、日頃動かない大蛇は一体どのような状態なのか?


 答えは、『飢餓』だ。ジッとしていることで消耗を抑えているが巨躯な体躯を維持するにはそれ相応の食料を必要とする。

 動き出すとはお腹を満たす為に蹂躙すると同義なのだ。

 そこに出くわしてしまったマリベル達は目の前に現れた大蛇に蹂躙され仲間が腹の中に取り込まれることはなかったが下敷きになった者や大蛇の毒牙にかかり倒れ込む者が出てきた。

 それを隠れて観察していたのが魔狼である。

 雨の日には動かない魔狼が大蛇の這った跡を凝視していたのは大蛇が残していった残り物マリベル達に貪りつく為だ。


「それで魔狼が遠吠えをしていた訳だな。しかし、妙だな。ここ7日は雨が降りっぱなしだった。今頃大蛇が動き出す訳がないんだがな」

「それは私もそう思います。雨が降り続いていたので大蛇が動き出す要件に当てはまらないとタカを括っていましたから」


 疑問は残るが結果として壊滅という最悪の事態を起こしてしまったマリベルは話し終わると肩を落とす。


「そ、そういえばな。マリベルが来ていた服はちゃんと治せるんだぞ」


 話を変えようとゼノはマリベルが戦闘時に着ていた白いシャツをテーブルに広げる。胴体部分は皮の胸当てをしていたが為に傷はないが両腕には擦れや裂けた跡が多く惨劇を物語る。


「いいか。見とけよ〜」


 ゼノは白いシャツの上に白く細い糸を置く。

 そして、錬成陣を展開する。

 いつもは、展開から発現、行使までを最短で行うが今回はマリベルが分かるように1行程ずつゆっくり行う。


 展開――錬成陣を対象の下に広げる事。


 発現――展開した錬成陣を通して《有》となる媒体、今回で言えば白いシャツと糸に魔力を流す。


 行使――流し終えた魔力を元に白いシャツを構成する細い絹糸とゼノが持ってきた糸を合わせて元の形へ戻していく。


 意思を持っているかのように動く糸。

 ゆっくりと錬成する姿は白いシャツが時間を遡っていく様に見える。


「すごい……」


 感嘆して目を輝かせるマリベルを見てゼノも満足気に口角が上がる。


「ほら、出来上がりだっ!!」


 戦闘がなかったかのように擦れや切り跡がゼノの手により掻き消された。マリベルは手に取り白いシャツの解れや傷があった箇所を触って確認する。


「すごい、すごいです。ゼノさん! あなたって修復工だったのですね」

「ん? 修復工?」


 聞き慣れない言葉に頭を傾げる。


「えっ、違うんですか?? 物を修理する職人の事です。とはいえ、ゼノさんのような修復の仕方をする職人は初めて見ましたが」


 ゼノが行った事を生業とする職業が存在することにゼノは興味を持ったが、マリベルの修復工という認識を否定はしなかった。


「錬成っていうのはな、広く括れば物を直すって事にもなる。修復工だって錬成の一部だとしても不思議じゃないさっ。でも、錬成術師っていう事には誇りを持っているがな」


 錬成という行為自体は否定しないが錬成術師としての自分には誇りを持っていると一見、言葉遊びのような話をマリベルに話す。


「それで、街から救援はいつ頃来そうなんだ?」

「来るとは思いますが……いつになるかは分かりません」


 調査期間を過ぎても帰還しなかった場合、救援を出す事がある。

 救援する者が街にとって有益な者なのか。

 失うと街に多大な損失が発生しかねないのか。


 そのどちらかに該当すれば救援が編成されて直ちに向かう手順となる。問題は、救援で発生する対価だ。


 救援に向かう者はもちろん守護者が多く含まれる。守護者は職業であり慈善団体ではない。自らの肉体を生業としている為に対価に似合わない依頼は受ける事がない。鼻で笑われて捨てられてしまう。

 大森林で大蛇が蹂躙するような場所へ救援に向かう守護者へ支払う対価がいかほどになるのか。考えただけで冷や汗が出て普通は諦める。ギルド職員であれば可能性はある――もしかしたらという低い可能性の範疇でだが。


「なので、自力で帰るしかありません」

「一人で帰るのか? そりゃまた難儀な話だな」

「えぇ、それに……みんなのタグも回収したいですし」

「タグゥ?」

「守護者が首からかけている……お守りみたいな物ですね」


 マリベルは両手を使い四角形に指で形取る。小さい形の物は確かに首にかけても問題はなさそうだ。


「あの、ゼノさん。私の依頼を受ける気はありませんか?」

「……断る。どーせ、そのタグを拾いに行くか街まで連れてけっていうんだろ?」

「その両方だとしたら……?」

「ことわぁーるっ!!」


 意地悪にも見えるゼノの拒否の仕方にマリベルは前のめりで懇願する。

 マリベルの着ている服はゼノの服でありブカブカだ。前のめりになれば服の隙間からマリベルの豊かな双胸が顔を覗かせる。


「すごいな……」


 無意識に賛美を声に出してしまいすぐに口を塞ぐ。しかし、話してしまった声は止める事はできない。その声はしっかりマリベルに届いた。


「ありがとうございます。でも、私は皆のタグを持ち帰り家族へ渡さなければいけないという使命があります。こんな我儘な私を凄いと褒めていただけるのはありがたいですがどうか依頼を受けてはくれませんか?」

「えっ」


 ゼノの言葉はマリベルの“ある部位”に関してのものでマリベルの“行い”についての事ではない。賞賛を履き違えたマリベルは更に食い下がり、ゼノに依頼を受けてもらおうとより一層前のめりでゼノに迫る。


 もうこれは故意ではないだろうか。

 試されているのではないだろうか。


 そう取れる行動に既に許容限界を超えそうになるゼノ。もう残された言葉の中に『拒否』という言葉は消え去った。


「わかった。わかったから、もうやめてくれ」

「は、はい? ありがとうございます?」


 やめてほしい理由が分からずに困惑するマリベルは依頼を受けてくれたゼノに礼をする。


「但し、今すぐじゃない。雨が上がって2日経ってからだ」

「はいっ。ありがとうございます」


 にこやかな笑みを浮かべたマリベルも前のめりの姿勢から元の位置へ戻る。


 依頼開始は雨上がりから2日後。

 雨が上がり通常の大森林へ戻ったと判断できた日だ。


「とりあえず、今日は寝るとしよう」


 そう考えての行動はマリベルをベッドがある以前クソ親父が使っていた部屋で休ませる事だ。


 体を休める場所を教えると急に疲労を思い出したマリベルは目を擦りながら部屋に向かう。扉の取っ手に手を掛けて少しだけ戸を開けると振り返る。


「エッチ」


 恥じらいながら話した一言で全てを悟った。

 やられた。 ゼノはそう感じている。

 マリベルの策略にまんまと嵌った事を理解した。


 それでも、顔色が良くなったマリベル見て再度、胸を撫で下ろすと部屋に入っていく策略家マリベルを見送った。

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