第2章 In vino veritas.

2-1

 大陸暦1850年10月28日、雨。

 ヴィーチェ帝国から南西に1000キロメートルの場所に位置する、アウトランド王国の首都・ルーメン。戦争の真っ只中、戦火に包まれた市街地の片隅に、幼少期の偽アンゼリカもいた。


 服と形容できるかも分からない汚れたボロ布に身を包み、這う這うの体で路地裏から大通りに顔を出す。するとすぐさま、敵砲兵が放ったであろう砲弾が、目の前を通り過ぎ道路を大きく抉って爆発した。


 一切の教育を施されてこなかった彼女にも分かること――それは、大陸中央部に位置するこの新興の王国が、敵帝国に対し戦争を仕掛け、大敗を喫して逆に攻め込まれているということ。すなわち、完全なる自業自得なのである。


 雨に混じって土埃と銃弾が舞うこの市街地で、さすがの彼女も生き残れる気がしなかった。これまで6年間、誰にも頼らず、誰とも関わらず、自力で生きてきたのだが、もう無理だろう。帝国主義の荒波は、力なき少女に生存を許さないのだ。


――もういっか。どうせ、何も意味のない人生だったし。


 幼女は、その年端では感じ得ないような諦念の面持ちでレンガ造りの建物にもたれかかり、目を閉じて最後の時を待つ。いずれ来る不幸が、彼女を永遠の眠りにつかせてくれるまで。――願わくば、次はもっと意味のある人生を、役割のある人生を送れますように。






 次に彼女が目を開けたとき、そこは死後の世界ではなかった。薄暗い地下室のような場所で、手首に手錠をかけられた状態で椅子に縛り付けられて、ボロボロの木の机に顔を横たえていた。


「お目覚めかな?」


 その声で、偽アンゼリカはこの部屋に自分以外にも誰かいることに気付く。朦朧とした意識の中で顔を起こし、声の主を見上げる。そこにいたのは、軍服姿で長身の、黒いくちばしマスクで顔を覆った男だった。初対面ながら、胡散臭い雰囲気を醸し出している男。マスク越しでも分かる、人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべてこちらをじろじろと眺めていた。


 その笑みを見て、自然と反発心が湧いてくる。意識を失った後に何があったかは知らないが、この薄気味悪い男に両手を拘束されて身動きできない状態にされているというだけで、不信感を抱くには十分だった。


「あんた誰」


 少女は吐き捨てるようにそう言った。すると、男はニヤニヤしたまま頭に乗せた軍帽を外し、静かに机に置いた。


「やあはじめまして。僕はアンダンテ、王国憲兵大尉のアンダンテだ」


「……。」


「ああそっか、”けんぺい”なんて言われても分からないよねえ。なんて説明しよ。……うーん、お巡りさんみたいなものだよ」


 あからさまな子供扱い。いや、確かに幼女には言葉の意味が分からなかったが、スラム街の擦れた大人に囲まれていた身にとって、そういう態度が一番気に食わないのであった。


 男はそんな彼女の反応も楽しむかのようにケタケタ笑って、一言付け加える。


「あ、ちなみにさっき言った名前は偽名ニセモノね」


 どこまでふざけた男なんだろう。腹が立った偽アンゼリカは、再び顔を机に押し付けて無視の姿勢に入った。――しかし、彼女の態度はここから軟化することになる。その発端は、彼の次の台詞であった。


「ところでさ……君、スパイになってみる気、ない?」

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