1-12

 午前7時。

 首都監獄での取り調べを終えた偽アンゼリカは、その足でそのまま裁判所に向かった。


 昨日にように、サーシャが徹夜で作業している可能性もゼロではないが、さすがに彼女が職場に2泊することは考えにくい。この時間にはまだ誰も登庁していないと考えるのが妥当だろう。それにもし仮に誰かがいたとしても、これからやろうとすることを行動に移さなければ済む話だ。


 第3法廷の執務室の扉を開けて、室内を注意深く見渡す偽アンゼリカ。思った通り、人の気配はなかった。


 早速彼女は、昨日隙を見てサーシャの執務デスクからくすねた印璽を元の場所に戻す。サーシャは殺された前裁判長にかなりの恩義を感じていた。であれば、この事件の捜査への思い入れから、前例のない裁判官直々の職権取調を実施したとしても、そこまで違和感のある話ではなかった。それに――。


 サーシャのデスクに置かれている、彼女の起案した法律文書をじっと眺める。昨日5時間の研修の中で何度も目にする中で、その筆跡を習得することは偽アンゼリカにとってさほど難しいことではなかった。印璽のみならず、筆跡もサーシャのものであれば、誰も偽アンゼリカが独断でした越権行為とは思わないだろう。


 いずれにせよ、ここまでは計画通り。だが、偽アンゼリカの存在意義が試されるのはここからだ。


――ふと、彼女は背後に何らかの気配を感じた。もちろんそこに誰かがいたとかではない。しかし、彼女の執務デスクからは全く見えていなかったが、壁際の本棚と本棚の間に隠れて、扉のようなものが設置されていた。壁の色と全く同じ、濃い茶色で目立たない配色となっている。恐る恐る近づき開けてみると、そこには執務室と同じぐらいのスペースに、大きな執務机とラウンドテーブル、そして応接用とみられるソファが置かれていた。


 なるほど、ここが殺された裁判長の執務スペースだったのか。よく見ると、窓ガラスの一枚が割れており、警察の現場検証の名残がある。あたりにはガラスの破片と書類が散乱しており、とてもじゃないが、この部屋をそのまま使えるというふうには見えなかった。


 偽アンゼリカがこの国に来て殺したのは合わせて2人。これからも目的達成のために多くの人を殺していかなければならないと思うと、多少骨が折れる気がする。


「やってやりますよ。祖国の……いや、私自身のために」


 決意表明のつもりだろうか。誰もいない部屋で、ぼそっとそんな言葉が出てきた。






「あれ、アンゼリカさん。こんなところでどうしたの?」


 いつの間にか、サーシャも登庁していた。裁判長室にぽつりと佇む偽アンゼリカを発見すると、驚くと同時に怪訝そうな表情で尋ねてきた。一方、偽アンゼリカも自身の今後を見据えるあまり、背後の物音には全く気付いていなかった。


「おはようございます。こちらが亡くなった裁判長のお部屋だったんですね」


「……ええ、そうよ。見ての通りこの有様だし、掃除する時間もないからって放置しちゃってるんだけど」


「そうですか……」


 ここで偽アンゼリカは閃いた。目を輝かせてサーシャのもとへ駆け寄り、元気よくこう提案する。


「あの、私も掃除お手伝いしますので、サーシャさんこの部屋使いませんか?心機一転、後任の裁判長として職務を全うするという心構えを示すためにも」


――なんてことはない。裁判長暗殺事件の捜査がこれ以上進展しないようにするためにも、この現場は早めに”汚して”おいたほうが都合がいいのだ。

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