1-9

 大陸暦1860年3月8日、晴れ。

 まだ空は青白く、遠くから明烏の声も聞こえる午前5時。

 官舎から官庁街に抜ける小道を、偽アンゼリカは一人で歩いていた。


 昨夜から一睡もしていない彼女であったが、その顔からは一切の眠気も疲労も感じられず、どことなく涼しげな表情すら浮かべている。


 彼女の目的地は、ラブルンスク市官庁通り三番町の官庁通警察署。以前裁判所で会ったユリスとソロモンが所属している警察署である。


 普段から昼夜を問わず捜査や警備、地域の見廻りを業としている警察は、早朝に訪問しても夜間受付で対応してくれる。それを知っていた偽アンゼリカは、まるで奇襲をかけるが如くこの時間帯を選んだのだ。


 官庁通りに出た彼女は、この通りを南北に行き来する路面馬車に乗り込み、5分程整備された車道を揺られる。町往く人々の数は未だ多くなく、既に法服に袖を通した少女が街中を横断していても、気に留める者はいなかった。







「刑事課捜査掛のユリスに御用ですか……」


 夜間受付の年老いた警察官は、鼻にかけた老眼鏡を上下させつつ偽アンゼリカの風貌と身元を確認する。どうもユリスは部署に在室のようで、所定の手続を終えた受付係は入館許可の証たるバッヂを偽アンゼリカに手渡し着用するよう促す。


「真っ直ぐ進んで突き当りを右に曲がったところにある階段をお使いください」


「ありがとうございます」


 署内の案内までしてくれた老警察官に礼を言い、荷物を持って言われた順路に進む偽アンゼリカ。この、いかにも事なかれ主義を標榜してそうな一公務員が、仮に彼女に何らかの不審を感じ取ったとしても、それを基に何かしらの行動に出るとは考え難い。であれば、この時間帯に裁判官が刑事を訪問する理由をわざわざ説明しなかったのは正解だったといえるだろう。


 こうして無事、捜査掛のフロアに到着する。さすがに警察の花形部署だけあって、第3法廷の執務室の10倍はあろうかという広さの部屋に、100名弱の捜査員がそれでも人員の足りんとばかり忙しなく動いていた。


 ユリス警部は、いくつかのデスクの島のうち真ん中のお誕生日席に座って、コーヒー片手に新聞を読んでいた。その横にはソロモン巡査が上着を毛布代わりに羽織って爆睡している。どうやら、この2人も偽アンゼリカ同様徹夜だったらしい。


「ユリス警部」


 島と島の狭い隙間を何とか潜り抜けて、偽アンゼリカが彼のもとにたどり着く。予期しない来訪客に思わずコーヒーを勢いよく啜り込んでしまい、大きく咽るユリス。


「君は……」


 偽アンゼリカの顔を見た途端、ユリスの表情がわずかに曇ったように見えた。不適切な時間に凸られたからだけではない、何か嫌な気配を感じ取ったような含みをもった顔つきだった。


「確か、フランセル嬢とか言ったね。こんな時間に何の用だい?それにその服装は……」


 やはり、法服姿は殊更に目立つ。そこで彼女は、胸ポケットから1枚の紙を取り出しつつ、神妙な口ぶりで用件を告げる。


「一昨日より帝国裁判所長から臨時判事を仰せつかっております。今日はこちらをお願いしに参りました」


「はあ?」


 この小娘が裁判官?何かの冗談ではないか。彼女の口上を耳にして、ユリスだけでなく周囲の刑事達も一斉に反応してしまう。皆開いた口が閉まらないといった様子で、さっきまで部屋中を支配していた雑音が一気に鳴りやんだ。


 しかしそんな外野の反応など気にも留めず、偽アンゼリカは容赦なく手にした紙をユリスの眼前に呈示する。『職権取調通知』と題したその書面には、作成年月日の表示の真下にでかでかと裁判長の印璽が捺してあった。


「帝国判事殺人事件について、裁判官の職権で被疑者の取調べを実施します。ジョレスが収容されている首都監獄にその旨お伝えください」


「待て待て!……仮に君が判事であると認めたとしよう。だが、警察が起訴する前に判事が被疑者を取り調べるなど、前例がない!!」


 机を勢いよく叩き、途端に口調が粗くなるユリス。辺り一帯の緊張感が高まる中、それでも偽アンゼリカは平然と彼との距離をわずかに縮めると、その机に並べてあった六法全書を手に取り、パラパラとめくり始めた。


「前例がなくとも――」


 しばらく条文を目で追った彼女は、目当ての一文を見つけるとユリスに示してみせる。


「『刑事訴訟ノ取扱ニ関スル法律』73条1項。『裁判長は、必要があるときは、起訴前後を問わず職権で被疑者を取り調べることができる』。そして2項で『前項の取調べは、法廷を構成する裁判官一人に委ねることができる』……ご存じですよね?」


 淡々と条文を読み上げる偽アンゼリカに、警部は何か言いたげだった。まあ確かに、この規定は制定当初からほとんど使われていない、謂わば死文化した法。今更持ち出すのが不意打ち的だと言われればそれまでだ。しかし、彼女が手にする紙っぺらが、この屁理屈に正当性を与えている。


 サーシャの筆跡で書かれ、サーシャの印璽によってその真正な成立が証されている書面は、警察に対して抗いきれない絶大な効力を有していた。ユリスはその隅々まで穴が開くほど見つめつつも、結局どこにも瑕疵を見つけることのできないまましぶしぶ折れた。


「……分かった。君の言うとおりにしよう」


 そう呟くと、ユリスは未だ爆睡を続けるソロモンを叩き起こして首都監獄への連絡票を書かせた。

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