1-7

 午後3時。

 偽アンゼリカの存在に特段の興味を示さなかったクリス判事を後目に、サーシャとソフィアが代わる代わる裁判官業務のいろはを教えること5時間が経過した。


 そこで分かったのが、偽アンゼリカの法学に対する知識と素養が、紙っぺらに書かれた上辺だけの成績評価ではなく、真の理解に基づくものであったこと――それ以上に、彼女の理解力と事務処理能力がそこらの新任判事を遥かに凌駕するものであったことである。


 彼女は、一たび法律文書の起案の仕方を教われば、様式とその趣旨を瞬時に習得し、手早く完璧な書面を書き上げた。裁判上のお作法も、所内のややこしい決裁手続の手順も、通常であれば説明だけで3日は要しそうなところ、彼女はものの数時間で頭に入れた。当初、サーシャは新任育成に多少の時間と手間がかかるのは承知の上で、その労力も将来のためには仕方ないと割り切っていた部分もあったが、彼女の素地を目の当たりにして唖然とし、教えることがむしろ心地よいと感じるようにまでなっていた。


「……それじゃあ、説明はここまで。アンゼリカさんには早速、この事件を担当してもらおうかしら」


 サーシャは未だ茫然としながらも、そう言って彼女に一冊の事件記録ファイルを渡す。本来なら初日から事件を任すというのは、いくらそれが単純な事件であれあり得ないことだった。しかしそんな常識を覆すほどに、偽アンゼリカの理解度は信用に足るものがあった。


「裁判長、これって……」


 偽アンゼリカが記録の表紙ラベルを読み上げると、それを聞いたソフィアが不安げにサーシャの顔を見る。無理もない。そこには物々しいフォントで「帝国判事殺人事件」と記されており、すなわち昨日警察が初動捜査を終えたばかりの前裁判長の殺人事件だったのだ。


「最初から殺人事件というのは……その、荷が重くないですか?」


 ソフィアの懸念に、サーシャは仕方ないと言わんばかりに首を横に振る。


「現状、クリス君も私も抱えている事件だけで手一杯で、新件を担当する余裕がないのよ。それに、この事件のあらましは昨日アンゼリカさんも既に聞いているから、事案を掴みやすいかと思って」


「大丈夫です。やれますよ」


 ここで皆に無用の心配をかけるのはよくない。それに、これは偽アンゼリカにとっても好都合だった。彼女は、大げさに胸を叩いてそう宣言した。






 午後5時30分。

 終業の鐘が庁舎内に響き渡り、職員がぞろぞろと退庁する様子が廊下から感じ取れた。しかし、サーシャもクリスも帰る様子はない。デスクの上に高々と積み上げられた書類の山が、2人の多忙さを物語っていた。


 上司が居残っている手前、部下も中々帰ることはできないのだろうか。そう懸念した偽アンゼリカだったが、書類の山からひょっこりと顔を出したサーシャの言葉でそれは払拭された。


「アンゼリカさん、今日はもう帰っても大丈夫よ。私もクリス君も、今日は遅くなりそうだから」


 そしてサーシャは、ふと思い出したかのようにデスクの引き出しをまさぐり、偽アンゼリカの元に駆けよってきた。


「はい、官舎の鍵」


「ありがとうございます、サーシャさん」


 鍵を受け取り礼を言う彼女の傍に、身支度を済ませたソフィアも寄ってきた。今日一日で分かったが大分人懐っこいようであった。


「そういえば、ソフィアさんも同じ官舎だったわね。いつもは私と帰ってるけど……よかったらアンゼリカさん、一緒に帰ってあげて」


 くすくす笑うサーシャに、ソフィアはまた顔を真っ赤に照れ始める。まだ出会って数時間なのにも関わらず、偽アンゼリカの私服のドレスの裾を軽く掴んでうつむく姿が可愛かった。


「一緒に帰りましょうか、ソフィアさん。……それじゃあ、私たちはこれで、お疲れさまでした」


 2人合わせてぺこりとお辞儀をし、そのまま偽アンゼリカはソフィアを連れて退室した。

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