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 大陸暦1860年3月7日、晴れ。

 どんより雲が続いた昨日とはうってかわって、雲一つない青空であった。


 午前8時15分、臨時判事としての正式な登庁を果たした偽アンゼリカは、帝国裁判所2階の第3法廷執務室へと足を進めていった。


「おはようございます!」


 扉をノックし、元気よく挨拶しながら入室する彼女。すると、中央に置かれた4つのデスクのうち、一番左奥の席で突っ伏していた人影が、その声で起き上がり彼女の顔にゆっくりと焦点を合わせ始める。


「んー……アンゼリカさん、おはようございます」


 人影の正体はサーシャであった。明らかに寝起きの彼女は、大きく伸びをして眠そうな声で挨拶を返す。


「あれサーシャさん、あれから帰られなかったんですか?」


「ええ、ちょっとタスクが溜まっていたものだから。でもアンゼリカさんも早いのね。裁判官の始業は9時だから、もっと遅くに来てもよかったのに」


 そう言って、彼女の昨日と変わらず優しい笑みをこちらに向ける。しかし髪はボサボサで目の下のクマも深く、疲れ切った様子は隠しきれていなかった。無理もない、急に裁判長の重責を引き受ける形となり、彼が担当であった事件の引継ぎや、部署全体の業務の把握などに追われて家に帰る暇もなかったのだろう。


「そういえば……アンゼリカさんは今どちらで寝泊まりされているの?」


 サーシャは立ち上がり、多少乱れた身なりを整える。そしてそのまま、偽アンゼリカが入ってきた扉の脇にあるクローゼットを漁りだした。


「今は中央停車場から徒歩で5分くらいのホテルで」


「そう……。でもずっとホテル暮らしはお金がかかるでしょう?もしよかったら、女性用の官舎を使わない?結構広くて綺麗な建物よ」


「いいんですか?とても助かります~」


「あとで鍵を渡してあげるわね。それと……」


 何度か偽アンゼリカの背丈をちらちら見て、一着の黒いローブを取り出した。今サーシャが来ているものと同じ、判事用の法服であった。


「うん、これが一番あなたにあったサイズだと思うわ。一回着てみて?」


 彼女の見立て通り、選ばれた法服は偽アンゼリカの体型に見事にフィットしていた。ぴったりなサイズを探し当てられてご満悦なサーシャ。どうやら、世話焼き気質の彼女は上司としての適性もしっかりあるようだった。


「これでアンゼリカさんも裁判官の仲間入りね」


「ありがとうございます」


 丁寧に頭を下げる偽アンゼリカ。馬子にも衣装とはまさにこのことで、小娘にしか見えない彼女でも、コレを着れば威厳のある帝国判事に見えないこともなかった。






「……お、おはようございます」


 数分も経たないうちに、扉がノックされたと思うと、少女が1人ゆっくり入室してきた。


 偽アンゼリカと同じく小柄で年齢も近そうな女の子。しかし控えめな性格なのか、か細い声でおどおどとした表情で、偽アンゼリカやサーシャがいる方向に顔を向ける。


「おはよう、ソフィア。今日も素敵な髪飾りね」


 サーシャがそう挨拶すると、少女はその長い髪を押さえて照れ始めた。しばらくは声にならない声を上げていた少女であったが、ふと何かに気付いたかのようにこう言った。


「……誰かいるんですか?」


 不思議なことを言うものだ、と戸惑いの表情を見せる偽アンゼリカに、サーシャは慌てて説明する。


「この子は、書記官のソフィアさん。昔、事故に遭って目が不自由になってしまったの。でも、この裁判所の誰よりも仕事ができる優秀な書記官さんよ」


 そしてサーシャはソフィアにも偽アンゼリカの紹介を始める。


「今日から臨時でこの法廷のお手伝いをしてくれる、アンゼリカ・フランセルさん。これから色々と教えてあげてね」


 不安が安心に変わり、安堵の表情となったソフィアは、手探りで偽アンゼリカの正面に立って手を差し出す。それに応える偽アンゼリカ。この子からは彼女の計画上、何らの脅威も感じなかった。


 しかし、しばらく続いたこのほのぼのした空気は、突如として飛んできたぶっきらぼうな挨拶で終焉を迎える。


「はよっす」


 気づけば、怠そうな眼つきの青年が、ソフィアの背後に立っていた。猫背で陰鬱な雰囲気を纏っており、くしゃくしゃの髪をかきむしりながらの入室であった。


「誰そいつ」


 その男は、声のトーンを変えぬまま偽アンゼリカをじろっと威圧するかのように直視した。思わずたじろぐ彼女に代わり、サーシャがソフィアにしたのと同じ紹介をすると、彼は「ふーん」と興味なさげな反応をしてみせる。


「彼は判事のヴァン・クリス君。ちょっと不愛想でマイペースだけど……ソフィアさんと同じで仕事は良く出来る人だから、困ったら是非頼ってみてね」


 サーシャはそう言うものの、他の2人と違い、彼は初対面ではいささか近寄りがたいオーラを纏っていた。人は見かけによらないと言うし、いざとなれば頼れる存在なのかもしれないが……職場で要らぬ衝突が起こらないよう願うばかりだ。


 若干の不安要素がありつつ、ともかくも第3法廷の面子が揃った。――ここから、偽アンゼリカの判事生活の始まりである。

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