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 大陸暦1860年3月6日、小雨のち曇り。

 薄い水色のアフタヌーンドレスに花柄のレースキャップを纏い、これまた水色の傘を差す一人の少女が、旅行鞄を片手にラブルンスク市の官庁通りを歩いている。ぽつぽつとほんの僅かに降る霧のような雨粒が、陰鬱な雰囲気を醸し出していた。


 殺されたはずのアンゼリカ・フランセル――少女はそのアンゼリカと、容姿も仕草も服装も、何もかもが全くの瓜二つであった。


 しばらく歩き続けた少女は、『帝国裁判所』と彫られた表札を掲げる荘厳な大理石造りの建物の前で足を止める。そしてそのまま、建物の入り口に向かって数段の段差をゆっくりと昇って行った。






 エントランスに入ると、中では多くの人がごった返していた。……確かに、裁判所には多くの訴訟関係者、裁判官や書記官、それに事務方の人間も大勢いると聞いていた。が、現状あまりにも警察官が多数を占めており、しかも各々がとても忙しなく右往左往している。


 「フランセル侯爵の使者として裁判所長様宛の書簡を預かって参りました、アンゼリカ・フランセルと申します。所長様へ取次をお願いしたいのですが……何かあったのですか?」


 少女はにこりと一礼して、自らをアンゼリカ・フランセルであると詐称した後、受付係の事務官に対して怪訝そうにそう訊ねる。すると、事務官は余裕のない表情で、声を潜めてこう返答した。


「実は……今朝裁判官が一人、死体となって庁舎内で発見されたんです。現在警察の方で現場保存と事情聴取が行われている最中ですので、申し訳ございませんが、所長の体が空くまでかなりの時間を要することになるかと」


 なるほど、この物々しい雰囲気の原因はそれだったのか。


 少女――否、偽アンゼリカとでも呼称しておくべきか――は、携行していた小ぶりの懐中時計を取り出してちらっと眺める。午前10時25分。警察の初動捜査は長く見積もっても6時間以内には終わるだろう。であれば、何としても今日中に、所長に会っておく必要がある。


「こちらこそ、間の悪い時にご訪問してしまい申し訳ございません。父共々ご冥福をお祈り申し上げます。……もしご迷惑でなければ、状況が落ち着くまでこちらで待たせていただいてもよろしいでしょうか?」


「それは構いませんが……」


 てっきり日を改めるのかと思っていた受付係は、偽アンゼリカの長尺の待機宣言に呆気にとられた様子で了承した。


 それから彼女は、多くの大人たちが頻繁に行き来するエントランスの一角に設置されたソファに腰を下ろし、何をするでもなく、ただその景色を眺めていた。






 偽アンゼリカが所長室に通されたのは、午後3時40分。現場の警察官の数がめっきり減り、午前中の騒がしさが嘘のように、庁舎内が静けさで包まれた頃だった。


「はじめまして、父フランセル侯爵の代わりに書簡をお届けに参りましたアンゼリカ・フランセルと申します。以後お見知り置きを」


 彼女が入室した時、所長と思わしき小太りの中年男性と、もう一人、20代中頃かと思われる細身の女性が、中央のローテーブルを囲む形でソファに座っていた。このうち男性の方が、偽アンゼリカの方に目を遣り口を開く。


「はるばる遠方の侯爵領から済まないね……。私が所長のドマーク・パラディです。そしてこちらが、第3法廷所属の裁判官、サーシャ・ベルクリフ君」


 そう紹介した後、所長は偽アンゼリカから件の信書を受け取って、それを一読する。5分も経たずに読了した彼は、配慮が足りなくて申し訳ないといった風に、偽アンゼリカに「まあ座ってください」と声をかけた。


「御父君のご意向は理解しました」


 娘に長旅を強いてまで直接届けさせたものだ。さぞや重要な事柄について記載されていたのだろう。


「帝国における昨今の事件数増加とそれに反して一向に増えない裁判官数の現状、これを打開するため、抜本的な司法の構造改革を緊急で要するというご意見は、成程法務卿をも務められたフランセル侯爵ならではの発想ですな」


 パラディは、そう言ってソファから立ち上がり、所長室の大きなガラス窓から左右に伸びる官庁通りを眺める。


「確かに裁判官の仕事は激務な上、高度な専門知識が要求されるために登用試験も難関にせざるを得ない。当裁判所でも、採用される新任判事の数は年々減少傾向だ。……それに、本日また欠員が出てしまった」


 ここで彼は振り向き、ソファに座る2人の顔を交互に眺めつつ話を続けた。


「お嬢様も既にお聞き及びかもしれないが、今朝うちの裁判官が一人、執務室で亡くなっているのが発見された。登庁したベルクリフ君が第一発見者となったのだが……彼は法廷にあっては裁判長、すなわちベルクリフ君の直接の上司でね。彼女もよく慕っていただけあって、そのショックは相当なものだろう」


 彼の話で、偽アンゼリカの目の前に座るベルクリフがうつむき青ざめた表情をしている理由がよく分かった。長年ともに仕事をしてきた上司の死が、突如目の前に襲い掛かってきたのだ。


 しかし、パラディにもベルクリフにも、そして亡くなった裁判長にも悪いが、これは偽アンゼリカにとって、用意された絶好の機会であった。

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