無気力社畜、異世界転職フェアに放り込まれてみた!(4)
会場の一角、黒い幕で囲まれたブースから、甘い香りのする煙がもわっと流れ出ていた。
天幕には金文字でこうある――「魔界コンツェルン・異世界支社(人界採用)」。その下の小さな文字は目が滑るように細かい。特典の羅列だ。「週六勤務・宿舎完備・従魔貸与・魂の前払い」……最後のやつがどう考えてもおかしい。
「ここだな、中村殿。戦の匂いがする」
「ライナ、剣は抜くなよ。ここは“フェア”だ。決闘は禁止って書いてある」
「決闘は概ね禁止、だ」
ヴァルが規約パネルを指で叩き、薄く笑う。「概ね、の穴に落ちるな。ここは“言葉の戦場”だ」
黒幕の内は、やけに照明が落ちていて、通路のカーペットだけが赤く光っている。黒燕尾服の男が入り口で会釈した。背は高く、声は蜂蜜のようにとろい。
「ようこそ。働き方は“逃避”ではなく“征服”。あなたの可能性に先行投資を――本日内定なら、特別手当が上乗せです」
目の奥が笑っていないタイプだ。
俺は愛想笑いで返しつつ、配られたパンフに目を落とす。
大きな数字ほどフォントが太い。「初任給:日給一万五千円」「皆勤賞:月五万円」。細字で「寮費:五万円」「装備リース:三万円」「研修費分割:月二万円」「従魔維持費:変動」「違約精算金:上限なし」……やっぱりな。
「ねえ、先輩」
袖を引っ張られて振り返ると、エルフのシェリが不安げに眉を寄せていた。
「ここ、木工の部署もあるって……森の再開発、って」
「再開発は“伐採”の言い換えに使われるやつだ」
ヴァルが低く制した。「焦るな。紙を読む。まず“算”から入れ」
俺はスマホのメモを開いた。日給一万五千円×二十六日で三十九万円……見た目の数字は強い。けれど控除がえげつない。寮費五万、装備リース三万、研修費二万、従魔維持費の“変動”が曲者だ。
「変動っていくら?」
俺が聞くと、燕尾服の男は涼しい顔で言った。
「平均三万円ほど。ただし“現場状況により上下します”。あなたの努力次第、ということですよ」
努力次第、という言葉で中身をぼかすのは悪手の常套手段だ。
「中村。差分を見せろ」
ヴァルの声に背中を押され、俺はパンフの数字を打ち込んで差し引いた。
「仮に“平均”前提で……三十九万から寮費五万、装備三万、研修二万、維持費三万、ここまでは引いて二十六万。で、“健康保険・年金は自助”とあるから、国保国年でざっくり四万は飛ぶ。食費と交通、雑費……残るのは、多くて十数万。しかも“違約精算金:上限なし”。やめる時に何を請求されるか読めない」
燕尾服の男は微笑みを崩さぬまま、パンフの下段を指差した。
「ご安心を。当社は“魂の前払金”をご用意しています。入社初日に二十万円。夢を先取りできる仕組みです」
ライナが一歩、前に出かけた。
「魂を担保にするな」
声に刃が混ざりかける。俺は慌てて袖をつかんだ。「落ち着け。手順に戻る」
「……うむ」
勇者の肩が一度、上下する。深呼吸三拍、吐く七拍。合言葉は機能する。
「魂前払い契約は、この会場のルールで“無効”と明記されています」
背後から、赤いベストのスタッフが入ってきた。“法務ボランティア”の腕章。短髪の女性が、事務的に書類を開く。
「“魂”という概念の契約対象性はさておき、労働契約における前借り相殺は厳格な制限がある。しかも“違約精算金:上限なし”は消費者契約法的に不当条項となり得る。さらにここ、“研修費の返還”に“退職時全額”とありますが、合理的実費の範囲を超えるとアウトです。……はい、ここ“無効”」
女性は蛍光マーカーでスッと引き、ポン、と“無効”スタンプを押した。
燕尾服の男の笑みがコンマ一秒だけ硬くなる。
「本社は魔界でして。人界の法は及ばないのでは?」
「ここで働かせるのが日本なら、適用は日本法です」
ボランティアの口調に容赦がない。
「“異世界支社”を名乗っても、現場がここなら逃げられません」
「……論は承った。だが、当社は“家族的”な会社で――」
「“家族的”は危険ワードだ」
ヴァルが淡々と切った。「家族なら残業代は要らぬ、と続くのが相場だ。私はそういう家族を、戦場で見飽きた」
男が視線だけで苛立つ。擬似的な香りの煙が濃くなった。
その時、隣の面談机で、獣人の青年が震える手でペンを取ろうとしているのが見えた。耳がぴんと立ち、尻尾が不安で丸くなる。
「母ちゃんに仕送りしたくて……今日中に決めろって言われて……」
「待った」
俺は思わず口を挟んでいた。
「“今日中でないと消える”オファーは、だいたい消えない。消えるべきだ」
青年はぎょっとして俺を見る。燕尾服の男の目が細くなる。
「弊社はスピード感を大切に――」
「大切にするのは“検討時間”です」
法務ボランティアが被せる。「“持ち帰っていいか”と聞いて、それで渋る会社は、持ち帰るべきです」
ライナが青年の隣にしゃがみ、目の高さを合わせた。
「君が守りたいものは、今日の“手当”か? それとも“仕送りを続けられる日常”か?」
青年の喉が鳴る。
「俺は――日常を、守りたい」
「ならば、退く勇気だ。手順に戻れ。“持ち帰る”。それは臆病ではない。賢さだ」
燕尾服の男はなおも微笑んだまま、“別紙”と称する書類を差し出した。
「では、こちらの“覚書”だけでも。本契約ではありません。前向きな意思表示として――」
ボランティアが即座に遮る。「覚書であっても、拘束条項が入っていれば契約と同視される場合があります。しかも“違約精算”の文言がここにも。撤回権の説明もない」
ヴァルが小さく鼻で笑った。「二重に罠を敷くのは、良くない参謀のやり方だ」
「――やかましい。外野はお引き取りを」
男の声が一瞬だけ地声を覗かせ、黒い幕の奥で何かが蠢いた。
フロアに温度差が生まれる。虫が羽音を止めるような、妙な静けさ。
黒布の影から、細長い影が伸び――青年の手首へ、紙片のような“呪印”が貼りつこうとする。
「そこまでだ」
パシン。
空気を切る音とともに、ライナの手が走り、透明な下敷きで“呪印”を弾いた。
下敷きには青い文字でこう印刷されている――「就業規則」。
「え、勇者、それ武器なの?」
「就業規則斬り。第十三章で編み出した秘技だ」
「だめ押しで言うな」
呪印は床でカサリと消えた。
同時に、会場のスピーカーからスタッフの声が落ちてくる。
「ご来場の皆さまへ:会場ルールに反する勧誘行為が確認されました。法務ボランティア、運営スタッフは該当ブースへ集合してください」
黒い幕の外から赤いベストが数人、白いスタッフジャンパーが二人入ってきた。ボランティアが手際よく書類を押さえ、運営が男に告げる。
「本日は退場です。改善後の出展は、審査の上で検討します」
燕尾服の男は、最後まで笑っていた。
笑顔は、ほんの数ミリだけ、壊れていた。
「覚えておけ。夢は“前払う”ものではない。“重ねる”ものだ」
ヴァルが静かに言う。男は返事をせず、黒幕の向こうに消えた。
◇
騒ぎのあと。
獣人の青年は、法務ボランティアに連れられて“ブラック企業判定所”のテントへ。減免制度や緊急支援の案内を聞き、深々と頭を下げた。
俺たちは通路のベンチで、紙コップの水を飲む。
「中村」
ライナが肩で息を整え、いつもの調子で笑う。
「就業規則斬り、効いたな」
「下敷きだろ、それ」
「武器は形ではない。理だ」
ヴァルが頷く。「武器は理。盾は数字。矢は言葉。今日の戦利品は“退く勇気”だ」
シェリが胸に手を当てる。
「ありがとう。森の再開発の話、うっかりサインしそうだった」
「サインは“未来の自分”の手を縛る」
ヴァルはポケットから付箋を出し、手のひらに貼った。橙色の小さな四角だ。
「ここに“持ち帰る”と書いて、契約の場に行け」
シェリは笑って頷き、付箋に小さく葉っぱの絵を描いた。
「……なあ、中村」
俺の隣で、ライナが珍しく声を落とした。
「世界を救う戦より、こういう小さな戦のほうが、手が震える」
「俺もそうだ。剣よりボールペンのほうが怖い」
「だが、怖いからこそ“手順に戻る”のだな」
「そういうこと」
フェアの照明が少しずつ夕方色に落ちていく。
場内アナウンスが流れる。「本日のご来場、ありがとうございました。契約は“帰宅後に”」
さっきまで黒く見えた天幕の跡が、ただの骨組みに戻っている。
そこに風が通り、薄い紙のパンフがばさばさと鳴った。
「ブラック企業は、いつも笑顔でやってくる」
ふと、あの言葉が頭をよぎる。
十二話の夕方、俺は同じことを思った。
でも今は続きがある。
笑顔でやってきても、笑顔で返せる。
理と数字と、少しのユーモアで。
「行こう、次のブースへ」
俺が立ち上がると、ライナが「おう!」と拳を掲げ、ヴァルは「まずは休憩」と現実に引き戻す。
笑ってしまう。
今日も“退く勇気”と“戻る手順”を手に入れた。
夢は折らない。曲げて栞にする。
その栞をポケットに挟んで、俺たちは夕暮れの新宿をもう少し、歩くことにした。
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