無気力社畜、異世界転職フェアに放り込まれてみた!(5)

 “無気力系社会人のための“疲れない働き方”セミナー会場C-4は、他より椅子のクッションが厚かった。スライドの最初の一枚には、でかでかと「やる気は“燃料”ではなく“結果”です」とある。隣のライナが首をかしげる。


「結果……先に出るのか?」

「そうだってさ。まず“やり始める”と、ちょっとやる気が生まれる。火打石方式」

「ふむ、焚き付けを先に置く、と」


 産業医の講師は「転職“する/しない”は体力設計の後で」と言い切り、参加者に“仕事の栄養バランス表”なる紙を配った。タスクを“狩り(集中)”“農(反復)”“宴(対話)”“祈り(休息)”に仕分ける簡易ワークだ。俺はボールペンで丸をつけていく。気づけば、俺の一日は“農”の欄に偏っていた。反復ばかりで、宴と祈りが薄い。そりゃ疲れる。


「中村殿、祈りゼロだぞ」

「うるさい」


 セミナー後、出口で配られた小冊子の背表紙に、さっきの言葉が再掲されていた。――休むことは義務。俺は二重線を引いて、ポケットに押し込んだ。


 人混みを抜けると、会場中央の“スキル換算エージェント”に空席ができている。ヴァルが顎で合図した。「行け。自分の番だ」


 カウンターに座ると、若いカウンセラーが笑った。「ご希望は?」

「……転職、を“考える”。その初手」

「いいですね。“考える”は立派な動詞です。では“棚卸し”から」


 彼女はノートを三列に分け、“できる”“やれる”“やりたい”と書いた。俺は「Excel」「差分可視化」「会議で冷や汗をかきながらもメモを取り続ける」「クレーム初動3分以内」などを“できる/やれる”に書き込む。ところが“やりたい”は、最初空白だった。


「ここ、白でいいですよ。白は恥ではなく状態です。じゃあ質問を変えましょう。“やりたくない”は?」

「人前で長く喋るのは、苦手です」

「OK。“避けたい刺激”は重要な情報です。では、“やっていて息が合う瞬間”は?」

「数字を揃えて、相手が“助かった”って言ったとき」

「それは“可視化で人を守る”強みですね」


 “やりたい”の欄に、彼女が鉛筆で仮の言葉を書いた。――“可視化で人を守る”。妙にしっくりくる。俺のExcelは剣だと自称してきたけど、剣だけじゃなかったのかもしれない。盾に近い。


「では職種の翻訳。現在は内勤の資料設計寄り……“オペレーション設計”“ナレッジ管理”“CS改善”“バックオフィスの可視化担当”あたりが近い。転職市場に出るなら、“キーワード”を履歴書に。ATSが拾う単語が必要です」

「“頑張りました”じゃダメ?」

「ATSは“頑張り”を読めません。“名詞×数字”です。“差分レポートテンプレをチームに導入→検索時間30%短縮”“クレーム初動3分以内運用で一次解決率を15%改善”――仮でもいい。数字は盾、わかります?」


 ヴァルがにやりと笑い、親指を立てる。俺はうなずいた。


「じゃあ、方針。“すぐ転職”と“残留しながら準備”の二枚看板を立てます。どっちも正解。今日決めるのは“やること3つだけ”。“履歴書のATS対応版を作る”“月1で情報面談を入れる”“現職で“可視化テンプレ”を1つ共有”。――これで“やる気は結果”が回り出す」

「……月1の面談、誰と?」

「求人票の会社でも、知人でも、NPOでも。“話を聞く”自体が情報です。怖かったら“30分だけ”のルールで。退く勇気と同じ、時間に鞘をつける」


 紙の端に、小さなチェックボックスが三つ描かれた。俺は丸をつける。ライナが肩越しに覗き込み、「その三つ、勇者のクエストみたいでいいな」と笑った。


 立ち上がろうとしたとき、背中から声をかけられた。


「中村さん、ですよね?」


 振り向くと、さっきドラゴン向け合同説明会で司会をしていた、落ち着いたスーツの女性が立っている。胸の名札には“ゲート管理センター/人事”とある。異世界との出入り口をモニタリングする公的機関の連携部署だと、案内で見かけた気がする。


「急にすみません。あなたの“差分の出し方”、さっきの質問で聞いていて。人事側のログ整理に似ている。夜勤オペレーターに、“冷や汗耐性”と“可視化”が刺さるんです。今すぐではなくて構いません、もし“考える”なら……」


 差し出された名刺には“夜間監視・記録整備・インシデント初動”。俺の心臓が、少しだけ跳ねた。無気力な俺に、夜勤。笑うところだ。でも、女性は続けた。


「ここは“燃え尽きやすい人”が続かないのです。あなたは“低燃費”。悪口ではなく、資質です。整えたまま長く立つ人が必要なんです」


 無気力、が、資質。言い換えはただの飾りじゃない。俺の内側に、違う名前で置かれた石が、すっと座り直す感覚があった。


「……すぐには決められません」

「もちろん。“持ち帰ってください”。私たちは“退く勇気”を尊重します」


 女性は頭を下げ、去っていった。ライナがひそひそ声で言う。「中村殿、今のは“スカウト”というやつか」「かもな」「低燃費勇者、中村」。やめろ。


 夕方。フェアの片隅で、履歴書撮影コーナーがまだ開いている。俺は列に並んだ。背景布の前で、カメラマンが軽く指示を飛ばす。「顎を少し引いて。目線はこの赤い点。呼吸三拍、吐く七拍」


 シャッターが切られる前、胸の奥に件の言葉を唱える。手順に戻る。すると、肩の力が少し抜けた。モニターに映る俺は、いつもよりマシだった。無敵ではないが、敗北でもない顔。


 写真を受け取ってから、俺たちは休憩スペースへ移動した。紙コップのコーヒーをすすり、ヴァルがため息をひとつ。


「中村。転職は“戦”ではない。配備だ。自分という装備を、どの戦線に配置するかを決める作業だ」

「……今の戦線で、配置換えする、って手もあるな」

「ある。“職務の再設計”は立派な移動だ。上に数字と理を持って話せ。差分で」


 ライナが屈伸して、パンッと膝を叩く。「なら、当面の陣形だ。“三つのクエスト”を回す。勇者は付き添いで“サボり防止”を監督する」

「監督は要らない」

「要る」


 半ば押し切られ、その場で俺はスマホを開き、自分宛てに件名だけのメールを送った。【件名:ATS版履歴書/差分テンプレ共有/月1面談】。本文は空。けれど、件名が旗みたいに立った。旗は遠くからでも見える。これでいい。


 帰り際、会場出口で例の反射バンドが光った。俺は腕に巻いてみる。恥ずかしいけど、悪くない。夜道で光るのは、安全の合図だ。無気力は光らないけれど、手順は光る。旗と同じ。


 新宿の風に押されながら、俺はぽつぽつと口を開いた。


「……たぶん、すぐには動かない」

「うむ」

「でも、“考える”は続ける。今日の三つを回して、数カ月経っても心臓が同じ場所を叩いていたら、その時は動く」

「それでよい」とヴァル。「焦らないは戦の基本だ」


「中村殿」

 ライナが横顔を覗き込む。「怖いか?」

「怖い。けど、怖いって、悪いだけじゃない。『退く勇気』と『戻る手順』を渡されたから、怖さの持ち運び方を覚えた気がする」


 駅へ向かう横断歩道で、信号が青になる。人の群れが一斉に動き出す。俺たちも歩く。肩が触れても、前を見ている限り転ばない。ビルの窓に夕方の色が映り、反射バンドがちいさく瞬く。


 ふと思い出して、カバンから今日の名刺を出した。ゲート管理センター、人事の女性のカード。裏にはさらりと文字がある。“夜は静かで、長いです。静けさを怖がらない人を探しています”。


 静けさを、怖がらない。たぶん俺は、それだけは得意だ。燃えないから。低燃費だから。笑われてもいい。笑われない言葉に、いつか変えていけばいい。


 家に帰ったら、洗濯機を回して、履歴書のフォーマットをダウンロードする。テンプレに数字を入れ、空欄を残す。空欄は、恥ではなく状態だ。空欄は、今の俺がどこまで来て、どこから先を“考える”のかを教えてくれる地図だ。


 改札の手前で、俺は二人に向き直った。


「なあ、ライナ。ヴァル」

「うむ」

「今日、俺は“転職を考えた”。それ自体が、たぶん俺の“定時退社”だった。自分の時間を、少し取り返した気がする」


 二人は顔を見合わせ、そして同時に笑った。


「ならば祝杯だ」とライナ。「今日は家で、麦の聖水を開けよう」

「その前に、水分と塩分」とヴァル。「手順に戻る」


 俺は笑いながら頷き、改札を抜けた。

 ポケットの中で、小冊子の背表紙が指に触れる。――休むことは義務。

 旗は立った。手順は光る。

 “転職する/しない”は、もう少し先でいい。

 今は、考える。そして、動き始める。やる気は燃料ではなく結果――なら、ほんの少しだけ、結果を積んでみよう。


 家までの道、反射バンドが三度、やさしく光った。

 誰も見ていなくても、俺には見えた。

 ああ、進んでる。

 それで十分だ。

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