無気力社畜、勇者に定時退社させられてみた!(1)

 朝の通勤電車というものは、まるで人類に対する悪意の塊のように思える。誰も彼もが無言で押し合い、顔にスマホ、肘にカバン、腰にリュック。そんな密集した状況のなか、俺――中村翔太(なかむらしょうた)、28歳、無気力社畜――は、今日も変わらず会社へと向かっていた。


 唯一の違いは、隣に金髪の女勇者が立っていることだろう。


「中村殿、これは拷問なのか? なぜ人々はこの鉄の箱の中で、これほどまでに押し合い圧し合う?」


「それは……会社に行くからだよ」


 俺の言葉に、勇者ライナ・フレイリオット(異世界出身、職業:勇者)は真剣な面持ちで顎に手をあてた。


「なるほど……この世界では、通勤という名の“試練”を経てこそ、日々の戦いが始まるというわけだな。まるで異世界での“試練の塔”だ」


「全然ロマンないぞ、試練の塔と一緒にするな」


 ライナがこの世界にやって来て、もうすぐ三週間が経つ。彼女は魔王討伐を終えた直後、異世界ゲートに吸い込まれて気がつけば俺の部屋に倒れていた。


 その後、なんやかんやあってうちに居候中。そして、なぜか俺の会社にインターン的な形で“社会勉強”として出入りしている。


「そういえば、中村殿。今日こそ“定時退社”という秘技を見せてくれるのだな?」


「定時退社は秘技じゃない。ていうか、俺だって滅多に成功しない」


「貴様、この世に“定時退社”が存在すると言っていたではないか。ならば実践してみせよ!」


「なんで勇者にそんな詰められなきゃならんのだ」


 俺はげんなりしながらも、ライナの純粋な目に負けて小さくうなずいた。


「まぁ、今日は奇跡的に予定が空いてる。定時で帰れる可能性は……10%くらいだ」


「ほう……10%の確率に命を賭けるのか。やはり中村殿は我が盟友、真の勇者だな」


 その基準、おかしくない?


 


 * * * 


 


「おはようございまーす……」


 出社して最初に発するその声のトーンは、世界一低いと言われても否定できない。


「おはようございます、中村さん。あ、隣の金髪の子、今日も一緒なんですね」


「ええ、社会勉強ってことで」


 受付の後輩・小田さんが笑顔で挨拶してくれる。彼女はこの会社の数少ない“人の心を残している人間”の一人だ。


「おはよう、戦士よ。今日も一日、善き戦いを」


「……えっ?」


 ライナはすれ違う社員一人ひとりに、いちいちそう声をかけていく。中二病か貴族か宗教か、とにかく異世界スタイルが全開だ。


 ――そして案の定、部長に睨まれた。


「中村くん。最近よくわからない金髪の女性を連れてきてるけど、あれ業務に差し支えないの?」


「ええと、まぁ、なんか“社長の知り合い”ってことで、研修扱いらしいです」


 うちの社長、時々意味不明なコネで異世界人を拾ってくるの、本当にやめてほしい。


「まぁいいけど。今日の午後は営業部と共同で会議だから。新プロジェクトの件、資料まとめておいてね」


「……あ、はい……」


 ああ……定時退社がまた遠のいた。プロジェクトと聞くだけで、俺の背中がズーンと重くなる。


「むう、中村殿。顔が曇っているぞ。なにか良からぬことでも?」


「定時退社率、3%に下がった……」


「なんと! もはやそれは神域の技……」


「神域っていうか、幻」


 


 * * *


 


 昼休み。社食のカレーを前にしても、俺の心は晴れなかった。


「そもそも、定時ってなんだっけな……」


 無意識にそんな言葉が口をついて出る。


 ライナはそんな俺を不思議そうに見つめていたが、やがて真剣な顔になった。


「中村殿。“定時退社”とは、貴殿にとってどんな意味を持つ?」


「え? いや、まあ……プライベートの時間が増えるとか、疲れが減るとか……」


「それは人生を取り戻す行為ではないのか?」


「……あー……まぁ……言われてみれば」


「ならば、今日こそ定時に帰るのだ。我が盟友よ、貴様がこの世界で生きる意味を思い出すのだ!」


 謎のテンションで説教される俺。


 でも、不思議と少しだけ……少しだけ、やってみようかなと思った。


 たかが定時退社、されど定時退社。勇者に言われると、なんか重みがある気がしてくるから不思議だ。


 


 * * * 


 


 ――そして夕方。


 奇跡が、起きた。


「……あれ? 今日、俺のタスク全部終わったぞ……?」


「おおっ!」


 隣で歓声をあげるライナ。


 気がつけば、時計の針は18:00を指している。つまり――


 定時だ。


「……帰れる……帰れるんじゃないか、俺……」


「中村殿、いざ参らん!」


 俺たちは静かに、そして堂々と、デスクから立ち上がった。


 誰よりも早く、タイムカードに向かう。


 打刻。


 そして――


「お疲れさまでしたァアアアアアア!!!」


 ライナ、なぜか絶叫。


「いや、うるさいうるさい! 社内だぞ!」


「すまぬ……だが、これが……“解放”なのだな……」


 ライナの目にはうっすらと涙。


 なんだこの展開。


 でも、少しだけ胸の奥が温かかった。


 きっと、これが“生きてる”ってことなのかもしれない。

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