無気力社畜、勇者に定時退社させられてみた!(2)
定時に退社した社会人にしか味わえない、神聖なる“空の明るさ”。
外に出た瞬間、俺――中村翔太はそのまばゆさに目を細めた。ああ、まだ空は青い。夕焼けにもなりきっていない。これが……これこそが……。
「この世界の空が、こんなにも美しかったとは……」
勇者ライナも、隣で空を見上げて感動していた。
ちなみに、彼女にとって今日は“インターン勤務一日目”。もちろん時給は出ないが、昼に社員食堂のカレーを「これは魔法だ」と絶賛し、すでにこの世界の労働文化に何かを感じ取っている様子だった。
「これが……“残業回避”という偉業なのだな?」
「ああ……そうだ。俺にとっては、年に数度あるかないかの奇跡だ」
「中村殿……貴殿は本当に、この世界を戦い抜いているのだな」
「戦いたくないけどな」
冗談まじりに答えつつも、俺の心の中には、ほんの少しの誇りのようなものが芽生えていた。
ただ、ここで真っ直ぐ帰るのはもったいない気がする。まだ太陽が沈んでいない。駅に向かう道には、部活帰りの高校生や、犬の散歩をする老人、学生カップル……ああ、社会に染まっていない人々の顔がある。彼らの目には、きっと“今日という一日”が映っている。
俺は、たまらず言った。
「なあライナ、せっかくだし寄り道でもするか」
「寄り道! それは我が世界では“道草”と呼ばれ、経験値が倍増するという伝説が……!」
「そんなゲームシステムみたいな……いやまあ、ある意味人生はRPGか」
* * *
俺たちはその足で、駅前のカフェに立ち寄った。
普段の帰宅時間ではとっくに閉まっているそのカフェは、まだ夕方の陽を受けて、木漏れ日のような店内を照らしていた。
「……こういう空間、久しぶりだな」
俺はカフェラテを手に、ボソッとつぶやく。
仕事帰りにカフェ。そんなのは、リア充か意識高い系のすることだと勝手に決めつけていた。でも今、俺はこうして、テーブルの向かいに異世界の勇者を座らせながら、カフェで一息ついている。
どう考えても“普通”じゃない。でも、悪くない。
「中村殿、これが“カフェラテ”か……」
ライナは恐る恐るカップに口をつけ、一口飲んで目を丸くした。
「ふわっ……! これは……心が、癒される味……!」
「ミルクとコーヒーの融合……いわば異文化の調和だな」
「異文化の調和……なるほど。かくあるべし」
そんなやり取りをしていると、後ろの席からOL風の女性たちの会話が聞こえてきた。
「えー、マジで!? うちの上司、五時半から資料作りとか言い出してさあ、結局九時よ!? ありえなくない?」
「わかるー。今日、定時で帰れた人って、都市伝説じゃないの?」
俺とライナは無言で顔を見合わせた。
――都市伝説、それが“定時退社”。
まさか俺たちが、それを実現させてしまったとは……。
「中村殿、我らの偉業は……この世界においても、英雄譚になり得るのでは?」
「たぶん俺たちが名乗っても誰も信じないけどな」
「なればこそ、密やかなる誇りとせよ、ということか……」
ライナが小さくうなずき、再びカフェラテを飲む。その姿はまるで、長い戦いの後に故郷へ戻った騎士のように穏やかだった。
俺も続いてカップを口に運び、ふと気づいた。
――あ、今日、初めて仕事のことを考えてないかも。
この瞬間、俺は“仕事以外の時間”をちゃんと味わえている。いつぶりだろう、こういう感覚。
* * *
その後、コンビニで軽く晩飯を買って帰宅。
部屋に戻ると、いつもよりも時間がゆっくり流れていることに気づいた。風呂にゆっくり浸かり、テレビをぼんやり眺め、缶ビールを片手にベランダに出て夜風を浴びる。
「……これが、“定時退社”の威力か……」
思わずつぶやく。
ライナはベランダの隣で、真剣な顔で夜空を見上げていた。
「中村殿。この世界には“魔王”こそいないが、それに匹敵する“社会”という魔物がいるのだな」
「……そうかもしれないな」
ライナは腕を組み、小さくため息をついた。
「しかしその中で、貴殿は今日、確かに勝利した。たった一度かもしれぬが、それは偉大な一歩だ」
「ライナ、お前……時々すげぇいいこと言うよな」
「我は勇者。勇者とは、世界を救う者。そして時に、隣にいる誰かを救う者だ」
それは勇者としての矜持なのか、それとも……ただの優しさか。
どちらにせよ、俺は救われた。そんな気がした。
「……サンキュな」
「ふふ。ならば、明日も“定時退社”を目指そうではないか!」
「いやそれは無理」
「なぜだ!?」
「明日はプロジェクトの進捗会議があるんだよ……」
「……この世界の魔王は、あまりにも根深いな……」
ライナはしんみりと言い、缶チューハイを開けた。
たぶん、勇者が戦った魔王よりも、この社会のほうが手強いのかもしれない。
でも、今日は勝てた。
それだけで、十分だった。
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