第3話




「あ、雨だ。窓閉めなきゃ……」



雨音に気付いたシュガーが壁の上の採光窓に手を伸ばす。

対してQ、マスター、そしてリオンの3人は全く動かなかった。動けなかった。


俗っぽい言い方をするならば、それは交通事故にも近かった。過去と現在のスクランブル交差点で起きてしまった大事故である。



「おい、Q。お前……」


「いや、いいんだマスター。そのハリーとかいうヤ・・・・・・・・・・がリオンの親父さんを殺したってんなら、そりゃ悪いことだ」



マスターは短く「そうか」とだけ答えると、チェリーコークの瓶を取り、〝XYZ〟を作り始める。

シュガーがカウンターに戻ってくるなり、彼女のグラスにコーラを注いだ。気の利く男である。



「だが気になるのは、その名前をどこで知ったか、だ。殺人犯は名乗らねえ、一般論なら」


「『カレン』という方に聞きました。ぼくの父とは仕事上の関係だったらしいですが――」


「――待て。そいつ、まさか『カレン・コルトレーン』だなんて言わねえよな?」


「……知ってるんですか」



Qが前髪をかき上げると、ただでさえボサついた髪がさらに乱れる。

飛びつくように〝XYZ〟のグラスを取ると、一気に飲み干した。緊張すると喉が乾くという。



「依頼は信用と相互信頼の上に成り立っている。信用だけじゃ足りねえんだ。だから答える。カレンのことはよく知ってる」


「……そうなんですか」



Qは確かに素直に答えたが、逆にそれが謎を残すというもの。もちろん、Qはすべてを洗いざらい話すつもりもない。



「ところで、遅いぜマスター。俺は〝メニュー表〟を頼んだはずだが」


「……ならねえ」


「聞いてただろ? リオンは俺の依頼主クライエンテルだ」



今にも、〝メニュー表〟の代わりにマスターの拳が飛び出しそうだった。人が喰らえばひとたまりもない。そんな重機の唸りが聞こえる。



「バカ野郎、テメエ考えてやがんだ! カレンってヤツが絡んでるなら、ろくなコトにゃならねえだろうが!!」


「ガキが見てる前だぜ。大人が平静を崩しちゃいけねえよ」


「好き勝手言いやがって!! クソッタレが!!!!」



Qは胸ぐらを乱暴に掴まれても平気だった。

そこにある理由はマスターに対する信頼だけではない。かつてQを救った大人がそうしていたからでもあった。


マスターは匙を投げる。Qの手元に〝メニュー表〟が叩きつけられ、9mmパラベラム弾の箱も一緒にテーブルを滑った。



「それでいいのさ……だが、ちと先に一服してくらあ」


「ちょ、待てよ! 逃げんじゃねえよ!」



Qは逃げた。

外は小雨が降っている。まるで、ビルとビルに挟まれた夜空が息苦しさで泣いているかのようだった――なんて、おセンチすぎる。


室外機に腰掛けるQは煙草に火をつけた。換気扇、車の走行音、遠くから聞こえる広告の音、街の胎動。

表通りから差し込む薄紫の明かりが、煙草の味を甘くした。



「おい、Q。あいつは何者なんだ」


「運命の出会いさ。俺だってあいつのコト、何にも知らねえよ」



後からついてきたマスターは、Qと同じように室外機に座った。室外機がメキメキと音を立て始める。

マスターは身体の大きさに似合わない煙草をちょこんと咥えた。葉巻なんか吸う大人になっちゃいけない、とはマスターの言葉だ。



「どうするつもりだ。それとも俺のことが信用ならねえってのかよ」


「まさか……。俺は加害者なんだ」


「斬新な自己紹介だなあオイ」



Qは深呼吸をして息を整える。わかりきっていることでも、吐き出すのに思い切りが必要だった。



「そして、リオンは被害者。間違いでなきゃ『コーエン』って名字だろうよ」



なあなあにしていた罪悪感が、その言葉を辿ってQの全身に降り掛かった。どうして今まで自分がのさばり生きていたのかとすら、彼は思った。



「俺は、リオンの父親を殺した」



真実。かつ、事実。



「リオンは――そう、シュガーと同じ。俺の被害者さ」


「それは……いつのことだ。任務でか」


「いや、あんたと出会った夜。6年前さ」


「血迷ったな。どうしてリオンの依頼を請け負おうと思った。過去を清算するいい機会だとでも?」



それは本質を突いた問いかけだった。

答えに窮する。なぜなら彼自身、どんな思いで引き受けたのか定かではなかったから。



「もしもお前が楽になろうとしてんのならよ、その気持ちは勝手だが、周りに迷惑かけてんじゃねえぞ」


「……迷惑だったか? 子供ひとり助け出すことがそんなに迷惑なのかよ」


「ああ。はた迷惑だ。お前は〝お人好し〟になると、自分の力量を見誤ることがある」



両者ともに憤りを見せた。相手を信じているからこそ煮えきらない、お互いに。

室外機は貧乏ゆすりに合わせて歪む。



「これが俺の生き方なんだよ」


「死に方だ、そりゃあよ………」



普段のマスターからは想像もつかない、掠れた声。



「お前はよ、死ぬつもりなんだろ。死んで過去を断ち切ろうとしてるよな」


「…………いや、そんなに思い上がってないさ」



――俺は。



「あいつを助けてやりたい。それだけだ」


「よく言うぜ……お前こそ助けて欲しがってる癖によ」



咄嗟に出てきた言葉こそ本音だった。


マスターは立つ。多くを聞かない。信頼に足る大人。

Qはその命の恩人に憧れ、6年間、彼の背中を追ってきた。



「俺の〝煙草道〟……『煙草は人知れず吸うこと、背筋を伸ばして生きること……そして、バカであること』。あんたは俺に煙草の吸い方を教えてくれた」


「ああ。その3分の1だがな」


「俺はリオンに顔向けができない」


「……青いぜ、若造が。お前はリオンから逃げてない。罪悪感を真正面から受け止めようとしてるんだろ」



Qは深く煙を吐き出した。紫煙は暗がりの空へ消えていく。



「まだ、Qが『ハリー・チンタオ』だと知られたワケじゃねえ。リオンにはどうにでも誤魔化せるだろ」


「ん、もはや俺は野良犬レイン・ドッグだがな……道化師になるつもりはねえんだ」



そうか、とマスターは煙草を室外機に押し付け、立ち上がった。

そしてひと呼吸、ふた呼吸をおいて口を開く。



「……シュガーに打ち明けるのは然るべき時が来たらでいい。お前が〝お人好し〟で死のうとしてんなら、あいつは許しちゃくれない」



それだけを言い残してバーへ戻った。まさにQが憧れたハードボイルドの体現者だ。



「知ってるよ。ンなことくらいさ」



――この依頼が終わったとき、果たしてリオンは幸せになれるだろうか。シュガーは。そして俺は。


Qは思いにふける。



「あの……Qさん」


「……! おっと、リオンか。どうした。煙草吸ってる姿なんて見せもんじゃねえんだぜ」



彼は物陰からじっと見ていた。

――いつからだろうか。聞かれただろうか。いや、聞かれていたら殺しにくるはず。



「Qさんは、大丈夫なんですか。ぼくのお願いを聞いてもらって」


「あ……? ああ、心配すんなよ」



弱音は聞かれていた。だが、彼の平然さからしてリオンは〝真実〟を聞いてはいない。



「せっかくだ。お前に話したいことがある」



Qはそう言うと、リオンから預かっていた拳銃を取り出した。

単に取っただけなら取り上げて書くことでもない。しかし、あろうことか、Qはその銃口をリオンへと向けたのであった。

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