第48話
休日を迎えた。俺は約束の昼になると家を出る。近くのカフェなので、そんなに慌てる必要もない。俺はカフェに入って待っていると、母親が顔を出した。俺は手を上げると、母親を呼ぶ。
「待ったかしら」
「いいや、今来たとこだ」
母親は俺の正面に座るとメニューを開く。そしてカプチーノを頼むと、深く息を吐いた。
「まさか、穂高から連絡を貰えるとは思っていなかったわ」
「ああ、俺もまさか自分から母さんに連絡するとは思ってもみなかった」
「やっぱり怒ってるわよね」
「そりゃな」
母親が気まずそうに顔を伏せる。こうして間近に見て思うが、俺はこの人のことが嫌いなんだなと改めて思った。被害者面したその表情も気に食わないし、俺のことを今でも穂高と呼んでくるところがむしに触った。
「俺が聞きたいのはひとつだけ。どうして俺たちを捨てたのかってことだ」
「捨てたって……」
「捨てただろ」
こればかりは譲れない。こいつは自分の幸せの為に俺たちを裏切った。その事実だけは揺るがないのだ。
「そうね。そう言われても仕方ないわ」
小さく溜め息を吐くと、母さんは自嘲気味に笑った。
「あの頃、私もどうかしてたのね」
そう言うと、ぽつぽつと語り出した。
「そう。あの頃の私は凄く不安定だった。穂高を産んで産後鬱に入って。お父さんにも八つ当たりをしたわ」
産後鬱。女性は出産した後に鬱に入ることがあるという。
「でね、そんな時にお父さんは仕事で忙しくて一緒にいる時間がなかなか取れなかった。寂しかったのよ。忠人さんとはそんな時に出会ったの」
忠人さんというのは母さんが余所で見つけた男だ。父さんを裏切って不倫していた男である。
「忠人さんは私が一番不安な時にずっと傍にいてくれた。だからなかなか縁が切れなくて」
母さんが俺たちを捨てたのは俺が四歳の時だ。およそ四年もの間、母さんは不倫していたことになる。
父さんの善意で慰謝料は請求しなかったと聞いている。それほど父さんは母さんを愛していたのに。それを自分が寂しいからという理由で平気で裏切る女が俺は許せない。
「多分、俺は一生母さんを許せないと思う。やっぱり父さんを裏切ったのは許せないよ」
「そうよね。今が幸せだから父さんと別れて後悔はしていないけど、ひとつだけ後悔していることがあるわ」
母さんはそう言うと真っすぐに俺を見てくる。
「たったひとりの息子と離れたことよ」
「なにを今更」
吐き気がした。自分の幸せの為に俺を捨てておいて、今更離れたことを後悔していると言われても、どう消化していいかわからない。複雑な心境のまま、俺は頭を抱える。
「ごめんなさい。あなたを置いていって」
母さんが俺を置いていった理由はわかっている。父さんは慰謝料の請求をしなかった。だからその代わりに子供は引き取らせてくれと願い出たと聞いている。俺も父さんの元に残って良かったと思っているし、後悔なんてしていない。俺の中で母さんは俺を置いていったあの時に大好きな人から大嫌いな人へ変貌したのだ。
「でもどうしてまた会ってくれる気になったの? もう会えないと思っていたのに」
「俺が前へ進む為だ。いつまでもガキの頃のこと引きずってるわけにはいかないからな」
「どういうこと?」
俺は母さんに俺の抱えている問題について話した。女が信用できないこと、それで前に進めないことを話した。
「そう。そうだったのね。私のせいで。でも、穂高、間違ってはいけないわ。女が裏切るんじゃない。男だろうと女だろうと裏切る奴が裏切るのよ」
そう母さんは言った。裏切る奴が裏切る。それはそうだ。男だって平気で浮気するやつはごまんといる。誰かを平気で裏切れる奴らは男女に限らずたくさんいる。だが、俺はそれを女が裏切ると一括りにして考えてしまっている。それは幼少期に根付いた考え方で、なかなかこりほぐすのは容易ではない。
だが、こうして母さんと会ったことで、その考えは少しだけ変わろうとしていた。
この人が裏切る人だっただけだ。女がみんな裏切るわけじゃないと。
「自分で裏切る人って言うの神経図太いな」
「それぐらいじゃなきゃ不倫なんてできないわ」
母さんは苦笑すると、カプチーノを飲み干した。
完全に開き直ったその態度に、俺は心底この人が嫌いだと思えた。俺の中で燻っていた何かが吹っ切れたような気がする。この人と別れたことで、父さんは今幸せを掴んでいる。そう思えば、この人が裏切ったのも悪くないことのように思えてくる。
「母さんは今幸せなのか?」
「ええ、幸せよ」
「ならいいよ。もう会うこともないだろう」
「そうね……」
この人と俺の道はもう交わらない。今後は赤の他人として生きていく。それでいい。ようやく俺も長いトラウマ生活から解放された気がした。心が軽くなった。今日母さんと会って良かった。心からそう思える。
会計は自分の分は自分で払った。そこは意地でも母さんの世話になりたくなかった。そうして俺は母さんと分かれた。恐らく今生の別れだろう。
だが、何も苦しくはない。むしろ清々しい気持ちで俺は帰路に就く。俺は俺で大事な人を見つける。そう心に誓いながら。
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