鉄道

増田朋美

鉄道

その日はようやく暑さから遠ざかってきたのかなと思われる日で、なんだかやっと穏やかに過ごせる日がやってきたのかなと言えるような気候の日であった。そうなると稲刈りも近くなって、いろんなものが収穫の季節を迎えて、かえって夏場よりも忙しくなってしまうのではないかと思われるのであるが。

製鉄所では、水穂さんはいつもと変わらないでピアノを弾いていて、杉ちゃんは和裁屋として着物を縫う作業をして、文字通りいつもと変わらない生活をしていたのであった。のだが、

「こんにちは。杉ちゃんいらっしゃいますか?」

聞き覚えのある声がした。あれ、誰だろうと、杉ちゃんと水穂さんは顔を見合わせると、

「玄関の引き戸から、時計まで13歩。」

という声が聞こえてきたので、多分涼さんが来たということがわかった。しかし、いつもなら一人で来るはずなのに今日は様子が違うらしい。というのは、涼さんの声といっしょにこんな女性の声が聞こえてきたからである。

「大丈夫です。あたしが手を引いて差し上げますから、先生はそれに従ってくだされば。」

「涼さんが、弟子を取ったか。」

杉ちゃんは驚いて言ってしまった。

「確かに、珍しいですよね。女性とは縁もゆかりも無いって、言ってた人が、女性を弟子に取るとは。」

と、水穂さんもピアノの前に座っていうのだった。

「廊下を渡って、、、。」

涼さんがそう言っているが、

「大丈夫です。ちゃんと一番奥の部屋まで案内して差し上げますから、しっかりあたしの手に捕まってください。」

という女性の声。杉ちゃんが思わず、

「ずいぶんしっかりした女だな。今日は一体どうしたんだよ。」

でかい声でそういうと、

「ええ、今日は利用者さんである山村さんのコンサルテーションでこさせて頂いたんです。」

そう言いながら、白い杖を持った涼さんが入ってきた。それと同時に、一人の女性も一緒に入ってくる。

「へえ、結構可愛い感じじゃん。」

杉ちゃんが思わずそう言ってしまうほど、可愛らしい感じのする女性であった。どこかアイドルグループにでも入れそうな雰囲気がある。水穂さんが、涼さんの前でそんなことを言っては行けないと杉ちゃんに注意したが、涼さんはそれについて何も言わなかった。

「涼さんこいつは誰だ?」

杉ちゃんが聞くと、女性はその言い方がヤクザのような言い方だったのでちょっと怖いという顔をした。

「ああ、気にしなくて良いんです。杉ちゃん、この人、影山杉三さんこと、杉ちゃんと言うんですが、怖い言い方をすることもあるんですけど、根は優しい人ですから。」

涼さんが、彼女に言った。

「そうじゃなくて、お前さんの名前を教えてくれ。」

杉ちゃんがいうと、

「あ、ああごめんなさい。松井希と申します。」

と、女性は答えた。

「松井希さんね。それで、涼さんの弟子入りでもしたのか?コンサルテーションの勉強でもしてみたいなと思ったの?」

杉ちゃんがそう言うと、

「ええ、それだったら良いんですけど、そういうわけではありません。ただ、道端で座り込んでいるところを僕が見つけて、一緒に住まわせて上げてるだけです。一応、自分の松井希さんと言う名前は思い出してくれましたが、それ以外のことは曖昧で、どこに住んでいるかとか、家族は何をしているかなども全くわからないそうです。まあ一応警察には聞いては見ましたが、まあ事件のことで、忙しいんでしょうね。なかなか返事を下さりません。それで、僕が一緒に住まわせているんです。」

涼さんが事情を説明した。杉ちゃんと、水穂さんは顔を見合わせた。

「そうなんですか。そういうことって、フィクションの世界でしかありえないと思っていましたが、そういうことでも無いんですね。それで、お医者さんなんかに頼んで調べてもらったのでしょうか?」

水穂さんがそう言うと、

「はい。もちろんです。脳には異常が無いようですし、よく話題にされるコルサコフ症候群でもありません。それでも彼女は、思い出せないようなので、おそらくこの前の大災害で精神的なショックを受けたのではないかとおっしゃっていました。」

涼さんはしっかり答えた。

「この前の大災害?」

水穂さんがいうと、

「はい。まあ日本は災害大国として有名ではありますが、月に一度は、大災害が起きる国家でもありますからね。それより、山村さんはどちらですか?今日は彼女のコンサルテーションでこさせていただいたのですが?」

と涼さんは言った。確かに、日本は災害大国でもある。涼さんの言う通り地震が頻発し、台風がやってくるし、又死者が出るほどの暑さなど、災害があとを立たない国家でもある。そのなにかに巻き込まれて、記憶をなくしてしまうということも、ありえない話ではない。

「ああ、山村さんなら、まだ学校に行って帰ってこないよ。あと、30分はかかるんじゃないかな。まあ、ここでまってな。お茶でも飲んで行くといいさ。退屈なら水穂さんに一曲聞かせてもらえ。」

杉ちゃんがそう言うと、

「そうですか。それなら、しばらく待たせていただきます。水穂さんお体は大丈夫なんですか?」

と涼さんは聞いた。水穂さんがええ今のところはというと、隣りにいた希さんが、ピアノを聞いてみたいという感じの顔をしたので、水穂さんはそういうことなら、一曲演らせてもらいましょうかといった。ゴドフスキーは体を壊すからだめだと涼さんがいうと、水穂さんはわかりましたと言って、アルカンの鉄道という曲を弾き始めた。すると、涼さんの隣に座っていた希さんが、急に

「やめて!」

と言って、激しく泣き出した。杉ちゃんも水穂さんもびっくりしてしまった。

「この曲、ご存知あるんですか?アルカンという人が作曲した鉄道という曲ですが、、、。」

と、水穂さんがいうと、

「わかりません。」

と彼女は言った。

「わからないんだったら、どうして泣き出すんです?」

涼さんがいうと、

「わかりません。だけど、なんだか、すごく悲しい気持ちが沸き上がってしまって、とても抑えきれなくなってしまって、申し訳ありません!ごめんなさい!」

希さんは、そう言って泣き崩れてしまったのであった。

「なにか理由があるのかなあ?」

杉ちゃんがいうと、

「いろんなことを思い出してくれると良いんですけどね。もしかしたら、怖いという感情だけは覚えているのかもしれませんね。しかし、アルカンの鉄道を知っているということは、結構な音楽の知識が必要ですからね。そこをうまく使えば、思い出してくれるかも。」

涼さんが盲人らしく静かに言った。

「もう泣かないでくださいね。お辛いことがあったのでしょう。アルカンの鉄道はもう弾きませんから、安心してください。どこか怖い目にでもあったんでしょうか?そういうことなら、」

水穂さんは、優しくそう言いかけたのであるが、疲れてしまったらしく、えらく咳き込んでしまった。それと同時に、

「只今戻りました。今日も雨でしたね。全く、水たまりとか、通り抜けるのが大変ですよ。まあそれでも、こっちへ来たいから、こさせてもらうんですけどね。」

と言いながら、山村さんが戻ってきた。いつの間に、雨が降ってきていたらしい。なんだか希さんのことで雨が降るのも忘れていた。杉ちゃんが、今日は涼さんのコンサルテーションの日だったねというと、山村さんは、はいお願いしますと言って、涼さんの手を引っ張って、食堂へ歩いていった。食堂から、山村さんと涼さんが、家族関係のことなど、一生懸命話しているのが聞こえてくる。その間に、彼女、松井希さんは、水穂さんのピアノの前で涙をこぼし続けるのであった。

「お前さん一体、どっからきたとか、そういうこともわからないの?」

杉ちゃんがいうと、

「一応、希ということはわかっているのですが、それ以外は何も思い出せないんです。」

と希さんは答えた。

「ほんじゃあアルカンの鉄道を聞いて、ああして泣いたのは、理由があるのか?」

杉ちゃんが又聞くと、

「杉ちゃん言い方をもうちょっと優しく。わかっていたらとっくに答えを出しているでしょう。それなら、アルカンの鉄道を僕が弾いたとき、どんな気持ちがしていたのかを教えてくれませんか。あのときは悲しかったと言っていたけど、ああいう泣き方をされたんじゃ、きっともっと、深いわけがあるんじゃないかなと思うんですよ。」

と、水穂さんは優しく聞いた。

「お前さんは黙ってろ。又倒れるぞ。」

杉ちゃんがいうが、

「いいえ、教えてほしいのです。」

水穂さんは言った。

「ああ、あの、悲しかったってさっきは言いましたけど、本当は怖かったんです。どこかで聞いたことがあったのかもしれませんが、それもよく覚えていません。ただすごい怖いっていう気持ちになってしまって。ごめんなさい。だって、すごい曲で、演奏するのだってものすごく苦労したはずなのに。」

希さんはそういうのであった。

「怖かったのねえ。それでは、そういう体験をしたのか?やっぱり、おっきな災害に巻き込まれたんかな?でも、どこの出身かもわからないんじゃ、どこでおきた災害に巻き込まれたのかもわからないか。まあ、この日本では、至りつくせりで、災害が起きているからな。」

杉ちゃんがでかい声で言った。

「そうですね。まず災害がどうのより、彼女をどうやって癒やしてあげるかを考えないといけませんね。そういうことなら、まず、恐怖心を癒やしてあげるために、誰かに来てもらったほうが良さそうですね。」

水穂さんもそういった。二人は、山村さんのコンサルテーションが終わった涼さんとも話し合って、希さんには、本格的な精神療法が必要なことを確信して、それでは、癒やしを職業としていている人に来てもらうことにした。希さんは、とりあえず、なにか外へ出るきっかけを作ってほしいということで、製鉄所に通わせてもらうことになった。ちなみに製鉄所と言っても、鉄を作るところではなく、居場所の無い女性たちが、勉強や仕事をするための部屋を貸し出している、福祉施設である。

そういうわけで、製鉄所には又利用者が増えた。松井希さんが毎日製鉄所へやってきてくれるようになったのだ。確かに、彼女はよく動いてくれるタイプの子で、掃除も杉ちゃんの食事作りの手伝いもこなし、動けない水穂さんの世話もこなしてくれた。そういうわけで、家庭的な面では非の打ち所がない働きものであったが、どうしても自分がどこから来て、誰と暮らしていたのかとか、そういうことは思い出すことはできなかった。

ある日、製鉄所の利用者たちが、英語の宿題をやっていた。どうしても、わからない単語があると、彼女たちは、一生懸命辞書を引き合って調べていた。希さんは、それを、食堂の椅子を掃除しながら聞いていたのであるが、彼女たちが、一生懸命宿題をしているのを聞いてなにか辛いことがあったのだろうか、又泣き出してしまった。そのようなことが、何度も繰り返されたので、水穂さんたちに苦情がよこされてしまった。

「あたしたちが毎日学校の宿題をするたびに、彼女泣き出すんです。だから、宿題をしづらくなってしまって。なんとかなりませんかね。」

利用者は、杉ちゃんと水穂さんに言った。

「そうですかというわけにもいかんなあ。彼女だって、わざとやってるわけじゃない。お前さんだって、そういう事あっただろ?だから、多少泣かれるのは我慢してあげないと、、、。」

杉ちゃんがそう答えると、

「そうかも知れないんですけど、でも、不思議なことがありまして。あたしたちもなんでかなって思うんですけどね。」

と、もうひとりの利用者が、申し訳無さそうに言った。

「不思議なことってなんですか?」

水穂さんが聞くと、

「ええ。彼女、英語の宿題とか、他の言語の宿題をやると、えらく泣き出すんですよ。何なんでしょうね。あたしたちのやっている英語の宿題の内容が辛いのかなあ?それを聞くと思い出せないっていうんですけど。」

と、最初の利用者が言った。

「英語の宿題でえらく泣き出す?そういうことなら、学校の授業とかで辛いことがあったのか?まあ年格好からすると学校に行ってそうな女性では無いけどな。」

と、杉ちゃんが言った。確かに、希さんは、学校に言っているような年齢の女性ではなくて、その親御さんでありそうな歳の女性である。

「もう一回学び直したいとしても、どこの誰だかわからないっていう人には、それは不可能じゃないか?」

確かに杉ちゃんの言うとおりであった。

とりあえず、杉ちゃんたちは、翌日、食堂をこっそり覗いてみた。利用者の女性たちは、一生懸命教科書を広げて、宿題をやり始めた。英語の教科書を広げて、教科書の本文を下手な英語で読み上げ始めたのであるが、それと同時に、テーブルを拭いていた、希さんが、又泣き出してしまった。こんなふうに泣き出されては、確かに、宿題をする人にとっては、邪魔なものになってしまう。これでは止めないとと思った杉ちゃんは、すぐに食堂へ割り込んで、

「おい!宿題をやって何で泣いているんだよ!」

とでかい声で言った。希さんはそれを聞いて又泣き出してしまった。

「いや大丈夫です。ただ何であなたがそうやってつらい思いをされているのか知りたいだけです。」

水穂さんが優しくそういうのであるが、女性の利用者たちは、えらく怒ってしまった。

「水穂さんまで迷惑かけて、ちゃんと理由を言ってあげてちょうだいよ!本当にあんた、何をするのも、泣いてばっかりで非常に困るわ。」

「自分でなんとかしようとか、それも考えられないと、いけないんじゃないかしら?」

二人の女性利用者たちはそういった。しかし水穂さんは彼女たちに、

「いいえなんとか出来るんだったら、なんとか出来るはずですよ。できないからここに来るんです。そうでなければ、ここに来る必要がそもそもありません。ほんとうに少しづつで良いです。何があって、そういう態度を取ってしまうのか、教えてください。」

と、静かに言ったのであった。女性たちは、どうして水穂さんってそこまで優しいのかなという顔をしたが、水穂さんは構わず続けた。

「今すぐに、どうのこうのとは、言いませんから、理由を話してみてください。もし、話せるようになったら、きっと記憶も戻ってくるのではないでしょうか。」

「それにしても。」

杉ちゃんが言った。

「おかしな女だな。なんで英語の宿題を読んだり、アルカンの鉄道を聞いたりして泣いてしまうんだろう。まあ、医者に見せれば、又変わってくるんだろうけど、でも、お前さんがどこの誰だかわからないっていうんじゃどうにもならないよ。」

「そうですよ。それに英語の宿題の内容だって、何も怖いものでは無いはずですよ。だってただ、かもの娘の英語版を日本語に直していただけだもん。」

と、利用者が、言った。

「かもの娘。ああ、ウクライナの伝説ですね。あの鶴の恩返しに内容が似ているということで話題になりましたよね。それが今は英語の教科書に使われるんですか。出版社もネタ探しに苦労しているのかな。」

そういうところに割と詳しい水穂さんが、そうつぶやいた。それを聞いて、松井希さんは、もっと怖いところに行ってしまったらしい。彼女は更に激しく泣き崩れた。水穂さんがそっと彼女の肩に手をかけてやった。これでは、他の利用者たちも、怒るどころか可哀想に思ってしまうような泣き方であった。もう言葉で表現することも難しいんだなと杉ちゃんも水穂さんも、利用者たちも感づいていた。

「そうなんだねえ。つまり、こういうことじゃないのかな。これ、僕の勘だけど、多分、こないだの大災害というのは、おそらく日本でおきたことではないと思う。それに彼女は巻き込まれたんだ。」

「杉ちゃんの言うとおりだと思います。アルカンの鉄道という曲も、聞き方によっては、キャタピラーが走っているように聞こえます。」

と、水穂さんが彼女の肩をなでてやりながらそういった。水穂さんは、泣き続けている彼女に、注射を打ってもらったほうがいいですねと言って、すぐにスマートフォンを出して影浦先生に電話をかけ始めた。

二人の利用者の女性たちは、そっと、希さんに近づいた。

「大丈夫よ。少なくともここでは戦闘は起きていないのだし、怖いことは何も無いわ。だからもう泣かないでね。」

「これからは、あたしたちもあなたが苦しまないように気をつけるね。」

希さんは、力なくうなづいてくれた。でもまだ怖い気持ちは持っているようで、泣き続けているのだった。

「なるほどね。やっと謎が解けたぞ。涼さんが言っていたこれまでの大災害というのは、日本でおきたことではなかったんだね。そりゃ確かに、異国では、親戚もなかなか無いだろうし、辛かったよね。留学でもしていたのかな。簡単に海外に行ける世の中ではあるけれど、こうやっておかしくなってしまうリスクが有るってことは、あまり知らされてないねえ。」

杉ちゃんは考えるように言った。それと同時に、

「こんにちは、影浦です。パニックになっている女性がいると水穂さんから教えていただいたのでこさせていただきました。」

と、製鉄所の玄関の引き戸が開いた。製鉄所にはインターフォンが設置されていないので、いちいち誰々が来たと、知らせなければならないが、インターフォンを鳴らすより、かえっていいものであった。水穂さんから事情を聞いた影浦先生は、泣いている希さんの側へそっと近づいて、腕を出してというと、すぐに安定剤を打ってくれた。

「どうもありがとうございます。希さんがこれ以上苦しい思いをしないために、なんとかしてあげていただきたいです。」

水穂さんがお願いすると、他の利用者たちも、お願いします、と言って頭を下げた。そのまま影浦先生が、希さん本人と、水穂さんや他の利用者さんたちに、希さんの症状について聞き込みを始めた。みんな、希さんが心配だったから、影浦先生の質問に答えていた。希さん本人の話によると、どうやら杉ちゃんの推理どおりだったらしい。

「やれれ、どんな理屈をつけても、戦争は、、、嫌だねえ。」

杉ちゃんは、そっとつぶやいたのであった。



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鉄道 増田朋美 @masubuchi4996

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