ピアノ屋敷
Yさんの家は静まり返っていた。庭に植えられた大きな木々が、路にまではみ出して、濃い木陰を生じていた。秘密の屋敷。子供時代にここを通りかかったら、そう名付けたに違いなかった。昨日は雨で気付かなかったが、インターフォンの辺りが苔むして緑色になっていた。記憶よりもYさんの家は古びて見えた。
昨日と同じようにインターフォンを押した。また家の中で呼び出し音が響いている感触がする。けれども一分経ってもYさんは現れなかった。私はまたピアノを弾いているのだろうと思って、玄関前のプロムナードを奥へ進んだ。そして四分の三くらい進んだところで、「おや、どうかされましたか」と右から聞こえた。見ると、Yさんが花に水を遣っているところであった。花は紫陽花だった。昨日、あんなに雨が降ったのに水遣りするのか?という疑問が浮かんだ。しかしそれを投げかけようか、どうしようか悩んでいるところに、Yさんは見透かしたような顔をして、
「こうしていると曲が浮かんでくるのです」
と言った。あまりにも文脈外な言葉だったので、私は一瞬意味が分からなかった。私はほとんど反射的に「曲?」と漏らした。
「はい。ピアノの曲です」
さも当たり前のことだという風に彼は言った。私は何のことだと思ったが、ふと廊下に散乱していた楽譜を思い出した。
「そういえば、ピアノお弾きになるんでしたよね」
これしか言葉が浮かんでこなかった。
「はい」
「お仕事なんですか」
「そうなんです。趣味を仕事にできたのは幸運ですね」
ここで私は「あっ」と気付いた。中々家から出てこないのは作曲しているからだと分かった。なるほど、苦心しているのだな。しかし真っ当に仕事をしているのにご近所から不審がられるのは不憫だと思った。そして私がYさんの名誉を回復させなくてはとも思ったが、ご近所の皆さんの勢いに充ちた様相を想起し、直ぐ撤回した。
私が黙って立っていると、Yさんは「最近、曲が書けないんです」と呟いた。それは日照りの集落が天に向かって雨乞いをしているような言い草だった。
「何かあったんですか」
何も考えずに私は言った。
「いえ、その逆です。何も無さ過ぎるんです」
Yさんは、「無さ過ぎる」のところを若干強調した。私にはどうにかしてあげたい気もしていたのだが、生憎何も案が浮かんでこなかった。しかしそもそも、今日は傘を返しに来ただけなのだ。これを返したらまた元のお隣さんに戻る。私はそのことを思い出して、
「今日はこれを返しに来ました」
と言って、傘を差しだした。そうするとYさんは、何だか残念そうな口調で「ああ、そうでしたね」と一言。その後、ゆっくりと、まるで時間稼ぎをしているかのような手付きで傘を手に取り「わざわざ、ありがとうございます」と言った。Yさんは終始、何か言いたげな表情をしていた。ただ、私もどう切り出していいか分からなかったので、「傘、助かりました。ありがとうございました」と言って、くるりとYさんに背を向け、そのままプロムナードを歩いて行った。歩を進める度に乾いた砂利が音を立てた。Yさんの持つホースから流水の涼し気な
ほとんど入口に差し掛かった時であった。あと一歩で敷地外へ出ると思った、その時、後ろから「あの!」という大きな声が聞こえた。予想もしなかった事案に私が驚いて振り返ると、Yさんが水の出続けるホースを片手に立ち尽くしていた。さっきの大声の主とは思えないほどに細く、頼りない姿をしていた。立つのがやっとなのでは、とも思った。
「はい?」
私が言うと、彼はほとんど間を置かずに、
「作曲を手伝ってほしいのです」
と大声で言った。私は勿論、困惑した。しかし、そんなことを言われる気もしていた。だから半ば、探りを入れるような余裕もあった。
「私が作曲、ですか」
「...何もあなたに一任するわけではないのです。ただ、私の作曲を手伝ってほしいのです」
「手伝うって言ったってどうやってですか」
「うーん、そうですね...。では、私と話をしてください」
「話、ですか」
「はい。何でもいいんです。今までに読んだ本の内容とか、子供の頃に好きだった駄菓子のこととか、昨日の雨のこととか」
「はあ」
「私、本当に曲が書けなくて困っているんです。次、締め切り守らなかったら、契約を打ち切るって言われてるんです。で、締め切りっていうのがあと一週間も無いんです。本当にお願いします。あなたしか頼れる人がいないんです。どうかお助けください!」
断る理由も無かった。私はほとんど何も考えずに「いいですよ」と言った。すると、彼は「本当ですか」と実に嬉しそうにした。さっきまでの硝子細工のような雰囲気は一転して、子供の合唱の持つような健やかで清らかなものへと変化した。Yさんはまるで学生のように見えた。
「じゃあ、うちでゆっくりとお話ししましょう」
Yさんの言葉には邪気というものが無かった。
Yさんの家は昨日のままだった。廊下には楽譜が散乱していたし、何より薄暗かった。外は晴れていてあんなに明るいのに、どうしてこの家の中はこんなに暗いのか分からなかった。硝子戸の向こうから漏れる灯りが辛うじて廊下に光を
Yさんはこれで平気なのだろうか。毎日毎日、こんな暗がりの中、ピアノだけ弾いて鬱屈としないのだろうか。それが少し気がかりだった。しかし、そんな私を尻目にYさんは「さあ、こっちです」と言って急かすのであった。硝子戸はあの時と同じように開いた。それは気品高く、それでいて親しみやすい動きだった。
Yさんのリビングに入ると真っ先に大きなグランドピアノが目に入った。洗練された黒で、この暗がりの中でも格別に黒かった。漆黒だった。床には廊下と同じように楽譜が散乱していた。リビングには私の家にあるような窓があったが、白いレース生地のカーテンが閉め切られていた。灯りは本当に小さな電球ただ一つだった。天井にはLED電灯か何かを設置できるような設備があったが、そこには何も無かった。多分、長い間使われていなかった。
この部屋にはピアノしか無かった。辛うじて椅子が四つとテーブルがあったが、それらは部屋の片隅で蹲っていた。光を恐れてびくびくしているように私には見えた。Yさんはその椅子二つを引っ張り出してくると、私に座るよう促した。
「
「ああ、大丈夫です」
「それは良かった。では、座ってください」
私が座るとYさんも座った。座った後は、お互い何をして良いか分からず、二人とも口を噤んだままだった。30秒くらい静寂が続いた。そして、私が「あの」と言いかけたところで、
「ああ、そうだ。お茶を出していませんでした。うっかりしてた。客人何て普段こないものですから。すみません。直ぐお出しします」
とYさんは言った。するといそいそと冷蔵庫へ向かい、ピッチャーを取り出した。その後、食器棚からグラスを二個取って、そこに麦茶を注いだ。グラスに注ぐ、こぽこぽという音が薄暗がりに溶けていった。私は黙ってその様を見ていた。注ぎ終わるとYさんは、「ああ、テーブルも要りますね」と言って、テーブルを持ってきた。そして、テーブルにグラスを置いた。麦茶はこんなに暗い中でも光っていた。
「お待たせしました。さあ、どうぞ」
Yさんがそう言ったので、私は麦茶を飲んだ。良く冷えていた。「美味しいです」と私は言った。「それは良かったです」とYさんは答えた。その後、また静かになった。
Yさんは私が話し始めるのを待っているようであった。私は特に話すことも無かったので「何か話してほしいことはありますか」と聞いた。Yさんは暫く考えた後、
「では、あなたの学生時代の思い出について聞きたいです」
と言った。そしてその直ぐ後に、
「勿論、無理にとは言わないです。話したくなければ大丈夫なので」
と付け足した。私は特に問題も無かったので
「いえ、大丈夫ですよ」
と言った。
「ああ、良かった。では、お願いします」
そう言ってYさんは床にあった楽譜を拾い上げた。そして、どこから取り出したのか、右手にペンを握っていた。
私は小学生の頃の思い出から静かに丁寧に話し始めた。
次の更新予定
隣家 たなべ @tauma_2004
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