夫
その日の夫の帰りは特段遅かった。時計の長針が一周し、二周し、三周し、もうその後は数えるのを止めてしまった。そして漸く、玄関の扉が開いた音がしたのは、午前2時頃だった。私はいつもこんなことを聞くような人間では無かったが、この日は何を思ったか、開口一番にこう尋ねていた。
「随分遅かったけど、どうしたの」
「...会社の飲み会があってさ。....しょうがなかったんだ。今回のプロジェクトで何かとへましちゃったし、上司もご機嫌だったし。抜けられなかったんだ。それに...」
何やら様々の言い分があるらしかった。最後の方はもう聞き取れなかった。聞き取る気が無かった。
「そっか。....ううん、大丈夫」
私は静かにそう言った。問いかけたことを後悔した。あまりにも予想通りな回答をさんざ辟易した。私は玄関でうつらうつらしている夫を尻目にリビングへ戻った。そして椅子に腰かけて、暫く経った後、大きな声で「お風呂入る?」と聞いた。その後、長い静寂があって、聞こえるか聞こえないかくらいの声で「入る」と言った。自分で聞いたくせしてこの「入る」という言葉が憎たらしくてしょうがなかった。何故かは分からなかった。
最近、夫といると分からないことが山積していって、どうしたら良いか分からなくなることが増えた。
10分くらい玄関でじっとしていた夫は、急に気が付いたようで、すくっと立ち上がってすたすた風呂場へ行った。少しすると、シャワーの音が幽かに聞こえ、ひとしきりそれが続くと、風呂場の戸が開くのが分かった。そしてドライヤーで髪を乾かした後、5分くらいしてリビングへやってきた。私は椅子に座って、何もせず、ぼーっとしていた。夫は向かいの椅子に座ってきた。そして静かにしていた。暫くして、私から口を開いた。
「今日、お隣に行ってきたの」
「お隣?」
「そう、Yさんのお宅」
「ああ」
「あの人、近所では結構変人扱いされてるけど、実際は全然変じゃなかった」
「そうなのか」
「うん。優しくて穏やかで、ピアノが上手なの」
「ピアノ?」
「そうなの。廊下にはピアノの楽譜が散乱してて、本当にすごいの。家の中は森閑として、そう、ピアノの森に入ったみたいだった」
「ピアノの森、ねえ」
「うん」
そしてまた、静かになった。この日はこれ以後、二人で会話をすることは無かった。
夫は先に床に就いた。私は暫く、リビングで呆然としていたが、時計を見て、催眠が解けたようにきびきび動いて、夫が寝ている隣に滑り込んだ。夫からは死んでいるのではないかと思うくらい、何も音がしなかった。私は時間をかけてゆっくりと眠りに就いた。
翌日は、昨日の雨が嘘みたいに上がって晴れていた。寝室に柔らかな日差しが萌して、それで私は起きたのだった。時計を見ると、8時少し前であった。
リビングに行くと夫が朝食を前に座って、テレビを見ていた。私は夫の向かいに座って、小さな声で「おはよ」と言った。夫も負けないくらい小さな声で「おはよう」と言った。それっきり静かになった。リビングにはニュースキャスターの声だけがしていた。それ以外はたまに食器がかちかち音を立てたり、トーストにがりがりバターを塗る音がするくらいだった。そして私が牛乳を冷蔵庫に取りに行った時、夫が思い出したように、
「あの川、昨日の雨で氾濫したらしいよ」
と言った。あの川というのは多分、家の近所に流れている河川敷も無い小さなあの川のことだろう。あれが氾濫するとはにわかにも信じがたい話だが、一応信じておいた。そして「へえ」と一言。その後、「そんなにすごい雨だったんだね」と「へえ」だけでは物寂しいかと思って、急いで付け足した。すると夫は、
「そうなんだよ。すごい雨だったんだよ。今回の雨でね、観測史上一位の記録が四つも出たんだ。これってね異常事態だよ。いよいよだね。地球温暖化の影響がどんどん苛烈になってる」
と、まくしたてるように言った。地球温暖化が今の夫のトレンドだった。口では大変だ、深刻だとか言っているくせに何だか顔は嬉しそうで、観測史上一位の記録が出たことを喜んでいるようであった。
夫は家を出るまでずっと、地球温暖化について呟いていた。私が「うん」とか「そうなんだ」とか言ってもそんなの関係なしに喋り続けた。注意して聞くと、地球温暖化の始まりについてだったり、逆に地球寒冷化の存在についてだったりいろんなことを言っていた。「地球温暖化ってね実は誰かの陰謀なんだよ」こんなことを言って、今日は終わったみたいだった。夫はこれを言うと小さな声で「行ってきます」と言って、そのまま車に乗り込んで行ってしまった。
玄関に私は取り残された。さっきまで夫の言葉で満たされて窮屈だったのに、今度は何もなさ過ぎて逆にもっと窮屈になった。雀か何かの鳴き声が、静けさを埋めるように鳴っていた。そこで私は傘の存在を認めた。大きくて強そうで黒い傘。昨日Yさんに借りたものだ。今日はこれを返しに行こう。そう決めた。
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