初頭効果

 「すみません」

 回覧板のことを思い出して、少し大声で言った。ピアノは鳴りやまない。

 「すみません。回覧板を...」

 ここでピアノは佳境に入った。3拍子だった。

 「す、み、ま、せ、ん」

 一音一音くっきりと発音した。すると漸くピアノは鳴りやんだ。そして静かな足音が近づいてくるのが分かった。硝子戸は非常に淑やかに開いた。そこから身長の高くて、痩身の男が出てきた。いかにもピアノを弾いていそうな風体をしていた。

 「どうかしましたか」

 瞬間的にその声は、私の涙腺を刺激した。つらくもないし、悲しくもないし、嬉しくもないのに涙が溢れそうになった。そんな優しさに満ちた声だった。ずっと私は何かを求めていて、そしてそれはこれなのかもしれないと思った。私は涙を堪えながら、言った。

 「回覧板を届けにきました。郵便受けがいっぱいだったもので。それに玄関先にただ置いておくのもあれかなと思いまして。この雨ですから」

 「ああ、わざわざすみません。もしかしてインターフォン鳴らされましたか」

 「はい。二回鳴らしましたが、反応が無かったもので」

 「ああ、それは申し訳ない。ピアノを弾いていたので気付きませんでした」

 「...ピアノ、お上手ですね」

 少し、笑みを浮かべながら私は言った。

 「いえいえ、そんな。勿体ない言葉です」

 彼の謙遜には嫌味が無かった。本当にそう思っているのだろうというのが伝わった。

 二人が静かになると、廊下は雨音だけで満たされた。私の髪からは、ぽたぽたと水滴が落ちた。私はその様子を呆然と眺めていた。

 「その、大丈夫ですか。びしょ濡れですけど。傘、無いんですか」

 彼は私を見てそう言ったらしかった。

 「隣に傘を持って行くのも大儀かなと思いまして」

 ちょうど良いタイミングで私はくしゃみをした。こんな取って付けたようなくしゃみって存在するのだなあとしみじみ思った。彼は私のくしゃみを見ると、案の定「心配だ」という感じの声色で、

 「ちょっと待っててください」

 と言って、リビングの方へ戻っていった。そしてばたばた足音が聞こえた。10秒くらいして彼はタオルを持ってきた。

 「これ、使ってください」

 有無を言わせぬ口調で彼は言った。

 「いや....、....ありがとうございます」

 タオルは温かかった。人の体温くらいの温度であった。まさか彼が温めていたのでは、という想像をして、直ぐに掻き消した。

 「あと、これも使ってください」

 そう言われて渡されたのは大きくて強そうな黒い傘だった。

 「ああ、お構いなく」

 私は反射的に断った。断らなくても良かったとも思ったが、よくよく考えてみると断るのが正解だったような気がした。

 「いいえ、使ってください」

 「でも」

 「あなたが風邪をひいたら申し訳ないですから」

 あなた、という言葉に私は反応した。こんなに思慮深い「あなた」は生れて初めてだった。他のタイミングでも良かろうに、どうしてこんな時に生れて初めてが訪れるのだろうと思った。

 「ああ、じゃあ」

 そう言って手を差し出す私。ゆっくりと傘を手渡す彼。そこに何ら特別な意味は無かったが、何か人に言えない取引をしてしまったかのように思われた。傘は思ったより軽かった。

 「じゃあまた、返しに来ます」

 「いえ...、ああ、そうしてください」

 「はい」

 私はそう言って、ドアノブに手を掛けた。激しい雨音がする。雷も伴っているようだ。これは確かに、傘が必要かもしれない。そう思った。

 「傘、ありがとうございます。では、また」

 「はい」

 そうしてドアを開け、私は雨の中へ歩いて行った。傘に粒の大きな雨がぼたぼた当たった。家の前の隘路には沢山の水溜りが出来ていた。私はそれらを時にジャンプしたりして避けながら帰った。

 家の玄関に着いた時には、ズボンの端が水を含んで重たくなっていた。そして直ぐにお風呂に入って、リビングでソファに腰掛け、髪を乾かしている時、彼が観察対象であったことを思い出した。

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