31 鏡の国
「王子の容体は?」
固く閉ざされた扉。アイも歌も俺も入れない。
「さあ? でも、相当苦しいのはわかるわ」
「近くに行って介抱できないの?」
歌が心配そうに聞くと、鏡の中の歌もうんうんとうなずく。完全に友達になっている。歌の心、開かれてる。王子に。
「王子がそれを拒絶してるわ」
「なんで……」
王子の死期が近づいているのか?
昨日までぴんぴんしてたのに。そんな変な病気だったのか?
無力な俺たちは、何かしたいのに何もできないので、寝室の前で3人集まって待っていることにした。
歌は落ち着かなそうにしている。それに対してアイはリラックスしたもんだ。
「なあ、王子の病気ってどんな病気なのさ」
以前から聞いてもはぐらかされていた質問だ。
「……」
アイは無言で目を閉じた。
「王子は、二人に知ってほしいとは思ってないのよ」
「なぜ」
「言ってもどうにもならないからよ」
「俺たちは、その病気のためにここにいるようなもんだぜ? 教えてくれよ。アイなら知ってるでしょ?
「どうにもならなくても、話せば楽になるし。ね? 兄さん?」
歌も乗っかった。
「……」
アイは数秒の沈黙を置いた。
「――王子が呼んでるわ」
王子の寝室に入った途端、俺は強烈な魔力の奔流を感じて、体がこわばった。
魔力の暴風だ。
整えられた達人の気ではなく、器にあふれるほどの魔力を注がれ、あふれ出た、といった魔力の濁流。
「!」
「大丈夫?って王子が聞いているわ」
「大丈夫。おにいちゃんは?」
「ちょっと体が重いかも。アイを挟まないと話せないってことは、王子は相当重篤ってことか?」
「今日がお別れの日だと思うって」
「そんな!」
どうにかならない? 歌がアイに聞くが、本当にどうしようもないことなんだって。
……。
俺たちは魔力の風に逆らって、王子のベッドまで進んでいく。
「ッ、空気が、重い……!?」
魔力の見えていないらしい歌が、それでも泳ぐようにして進む。
「王子、せめて、君の病気のことくらい、知っておきたいんだけど」
「私に言わないと聞こえないわよ。多分。もう、目も耳も……」
「なんでこんないきなり……」
王子は布団の中から顔だけを出して眠っていた。
これを顔と言っていいのかは、わからないけど。
糸で大きなまゆをつくって、王子はその中にいる。
鏡色の繭だ。その先端が、布団から出ている。
「さなぎ……? 王子は、何かに変わるのか?」
「あ…………王子が、言ってもいいって」
アイは、ずっと話したかったのか、一気に話し出した。
「あのね、ここには、私が生まれる前は王子しかいなかったの」
「知ってる」
「父も母も王子にはいないの。王子はこの世界から生まれたから」
「? どういうこと?」歌が首をかしげる。
「王子はこの世界が生まれると同時にこの寝室で生を受けたの」
「王子何歳!?」
アイは、「19くらいよ」、俺の問いに即答した。
「待って、アイ。それじゃ、それまで鏡の世界はなかったってこと?」歌が俺に続いて聞いた。
「そんなわけないでしょ。二人ともちょっと聞いてて。質問は後。王子もそんなに一気に答えられないわ。あのね、この世界は、世界の生誕と同時に生まれた王子か王女が、自分の身を鏡の世界に変えてつないできたのよ。今私たちは、先代王子の体にいるってわけ」
「……」
「でね、王子の病気は、この世界が次代の継承を望んでいるときにあらわれるものなのよ」
「……」
「つまり、このまゆの中で、王子は自分の体を次の"世界"に変えてるってわけ」
「そんな、なんで……?」
歌も俺もわからない。なんでこんな非合理的な生態なのか。
「だから、どうしようもないのよ。王子は、知らせても別れがつらくなるだけだから、ぎりぎりまで言わないで置いたの」
王子は、生まれたときから孤独で……しかも自分の死が確定している中で、あの寝室から現実世界を覗いて生きて来たってことか。
王子は……どんな気持ちでそれに耐えてきたんだろう。
「王子は、生まれてから死ぬまでずっと孤独にいるものだって思っていたらしいの。でも、あなたたちが来てくれて、王子と友達になってくれた……。王子の初恋は、確かに、世間一般とは違う形で、実ったの」
「初恋……」
歌は、やっと気づいたらしい。王子の気持ちに。
俺が言わなかった、王子の本心だ。
「王子が言っているわ。死ぬ前に、孤独じゃないことがどんなに楽しいか、自分の見つけたものを、見せられるような相手がいることがどんなにうれしいか、わかってよかったって。死ぬ時まで孤独じゃなくて、よかったって」
「王子は、満足してるのか?」
「『うん。だから、心配しないで』」
ぴしっ。ぴしぴしぴし――パリン!
大きな鏡が、王子からあふれる魔力の流れに耐えきれなくなって、砕け散った。
アイの口を乗っ取った王子が、しみじみと言った。
「『ああ、この鏡から壊れるんだね……今ならわかるんだ。あの鏡は、孤独で、外を見ることもできなかったお母さまが、僕に残してくれた、最初で最後の贈り物だったって』」
パリン、パリンパリン!
続いて周りの小さな鏡、大きな鏡。
王子の宮殿中の鏡が砕けていく。
砕けた鏡は塵になるまでボロボロと崩れて、溶けていく。
「『二人とも。僕は幸せだったよ。本当に、ありがとう』」
「王子!」
「『歌ちゃん。僕の友達になってくれて、ありがとう。真人も』」
「お別れ、か?」
「『うん。でも、僕はこの世界になるんだ。死ぬわけじゃない』」
「王子!! 私も! ありがとう! 王子のおかげで――」
「『――さよなら』」
王子は、アイの体で、飛び切りの笑顔を浮かべていた。
上を向くと、宮殿の天井が、雪のように破片を散らせながら砕け、またすぐに消える。
いつの間にか地面はなくなって、俺はとっさにアイと歌の手を握った。落下に備える。
「大丈夫よ。世界を再構成するだけだから」
アイがそう言った。涙がこぼれるのに任せて。
いつの間にか、まわりの鏡という鏡はみな消えて。
俺たちは、鏡色の大海原の上に浮かんでいた。
「あ、きれい……」歌の口から思わずこぼれ出た。
無限に広がる地平線。
本当に、無限に広がっているのか、自分の視界と同じ高さに、水平な際が見える。
大空には鏡一つなく、真っ青な空に太陽が浮かんでいる。
「これが、鏡の世界の本来の姿?」
「そう。命も、心も、ここには何もない」
「これ、現実の鏡は……」幻想的な風景に圧倒されながら、歌がつぶやく。
「見えないんじゃないかしら?」
だから鏡の世界がいるのだ。
「王子は、今どこにいるんだろう?」
「見て! あれ!」
歌が指さす先を振り返る。
銀の海から、何かが昇ってくる。
一つではない。
俺たちの周りで、いくつもいくつも、大きな波を広げながら、鏡色の水の柱を立てながら。海の中から、鏡色の大地が浮かんでくる。
「浮島……まさか、王子……」
歌が、涙をこぼす。
見覚えのある城がその島に乗っていた。
針のように鋭い山が遠景に浮かび上がる。
「王子は、あなたの話通りの世界を創るつもりなのかしらね」
アイが、歌の肩に手を回した。
浮かび上がった大地は、銀色のしぶきを散らしながら、高く、高く上がっていく。
「あ」
そして、俺たちの真下で、ひときわ大きな島が昇ってくる。
俺たちの足は、その島の中心についた。
ようやく俺も気が付いた。
「この景色……歌の」
歌のゲームの一枚絵に似ている。
歌はあふれ出る涙をぬぐっている。
歌は王子に、自分の作った物語を、聞かせた。そして、王子は、そのお返しに、そっくりな世界を創ってあげて……。
「鏡の世界の造形は、王子の心の豊かさに依存しているわ」アイがそう言った。
俺たちは、歌の作った世界の天空都市の真ん中の、城の庭に立っている。
歌は、そこで、地面に膝をついて、手をついた。涙は落ちるままに、ささやく。
「王子、王子……ありがとう。すてきな贈り物くれて……」
王子、こんな短い時間で、よくこんなに仲良くなれたな。俺は確信した。「王子の初恋は、確かに、実った」のである。
歌が泣き崩れた。
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