29 兄妹語り



「アイさん。もう大丈夫です。ありがとう」


 壁の鏡から、歌がやってきていた。アイは目を丸くして、「……本当に?」と小さな声で尋ねた。


「はい。私と兄で、腹を割って話します。いいでしょ、おにいちゃん?」


 呆気に取られていた俺は、歌の付き物が取れたような、ある種の達成感の笑みをたたえながらも、どこか弱ったように力が抜けた顔を見て――。


「……いいよ」


 見透かされたような。見透かされているから話していいような気がした。毒気を抜かれたというか、あるいは、歌の表情から、俺と「話す」という手順が本当に必要なのだと伝わってくるものがあったのかもしれない。


 王子もアイも絶対に覗かないと約束した。あんまり信用していないけど。

 歌と俺は鏡のテラスの丸テーブルに向かい合って座った。


「腹を割って話すって言うのは、本気みたいだね」


 俺の前で、何を装うこともなく、歌は全くの自然体でそこにいた。それだけのことだけど、結構久しぶりな気がする。

 いつもぶりっ子してたし。


「でも、何を話すの?」

「私、おにいちゃんを傷つけたよね。だから、謝ろうと思って」

「?? そんなことあったっけ」

 初手から認識がすれ違っている。


「おにいちゃん、私ね。おにいちゃんに勝とうとしてた」

 歌は遠くを見て、昔を懐かしむように話し始める。どこか超然として、落ち着いた声だ。何か、達観しているようにも見える。


「おにいちゃんに、すごい才能があったから」

「?? どんな?」

「おにいちゃん、本読んでるだけなのに、何でもできるじゃん。勉強もできるし、お父さんとお母さんにも優しいし」

「そんなこと言ったら、歌だって。いや、歌の方が」

「おにいちゃん! ごまかさないで。それに、気遣わないで。私が泣いても、本当のことを言ってほしい」

「……俺は本気で、本当にこう思ってるんだけど」

「私の方が才能があるって? おにいちゃん、嘘はやめて」

「嘘じゃない」

「嘘よ! だって、おにいちゃんは他の子よりずっと、ずっと頭がいいし、ずっともの知りだわ!」


 歌の目が潤んでいた。


「最近は歌の方が頭いいじゃない」

「それはっ……」


 言いながら、俺はなぜ信じてもらえないのか、頭の中ですでに答えを出していた。

 情報の非対称性がこのスレ違いを生み出しているのだ。心当たりは大いにある。


 つまり、歌は俺が二周目チートであることを知らず、俺に17年分の蓄積があることを知らない。だが俺は、歌が「才能」だと思っているものがただの「時間」であることを知っている。

 だから、歌は俺の方が才能があると思っていて、俺は歌の方が才能があると知っているのだ。

 このことを分かってもらうためには、もう、転生者であることを話すしかないというのは自明だった。


「ねえ歌、さっきアイが『二周目』って言ったでしょ」

「言ってたのは見てた、けど。嘘、本当に?」

「まあ、本当だね」

「ほんとうに、おにいちゃんはこれが二度目の人生なの?」

「……ま、そう。そう考えると、ぜんぶつじつまが合うと思わない?」


 歌の中でこれまでの出来事が川の流れのように通り過ぎていく。

 そうか、と。

 歌は何かに気付いたような、そんな顔をした。


「おにいちゃんが、大人っぽかったのは」

「俺が17年年上だから」

「おにいちゃんがたくさん知ってるのは」

「俺が17年余分に生きているから」


 呆然と、歌が聞いた。


「おにいちゃんは、"天才"じゃない……の?」

「そう。ただの人間だ。長く生きただけのね。だから、ほら。歌は、俺の半分も生きていないのに、もう俺より頭がいい。面白いゲームも作れたでしょ?」

「わたし? わたしは、普通の……」

「本気で、そう思ってる? 周りに、一人でゲームを作って大ブームを巻き起こせる子供がいる? 大学の勉強を始めてる子がいる? いないでしょ? 歌、歌は、俺が今まで出会った人の中で、一番"天才"だよ」


 俺はこの時、アイには嘘をついたな、と思った。

 俺は、この時、確かに楽になったのだ。楽になってしまえと思った。


 アイの思っていた理由とは違うと思うけど、解放された。

 やっと諦めた。歌を、孤独から守ることを、諦めた。


 もう、ぜんぶ、話してやれ。俺は自分の口にあった言葉の水門を開いた。


「歌だけじゃない。誠一も、千佳も、俺じゃ全く及びのつかない天才だよ」

「あ、え? そんな……まさか……」


 歌はめちゃくちゃに混乱しながら、改めて自分のすごさを考えているみたいだった。どうやら、視野が狭まっていたらしい。


「最近、勉強会で俺は何も教えなくなったでしょ? もう教えてあげられることがないからだよ。あと教えられるのは、本を読んで得た豆知識や雑学とか、後はちょっと資格の知識もあるけど、それだけ」

「それ、だけ?」

「うん」


 歌の目の前に会ったはずの大きな大きな兄の姿が、しぼんでいく……?

 そのギャップにとまどっているのが、俺にも見えた。


「ごめんね、歌。俺は、だましてたんだ。みんな、俺の能力だと思ってるかもしれないけど、実際は俺じゃなくて、時間の力なんだ」


 歌は声が出せない様子だった。


「ほんとうは話すつもりはなかったんだけどね」


 だって話したら、歌と、"家族"でいられなくなるかもしれないでしょ? 歌はいきなり知らされて、ショックを受けているだろう。ほとんどの人生、同じ時間を過ごしてきた人間が、実は自分の知らない場所で長く生きていたんだから。

 まるで親子だよね。親は子供の生きて来た時間全てを知っているけど、子供は親の生きて来た時間を知らない。

 だから、俺と歌はいきなり、"兄妹"から"親子"、あるいは"親友"のような間柄に変化してしまうことになるだろう。


 今の歌は気付いていないだろうが、これで、"才能"のレースで歌の前に立つ人はいなくなった。歌が一番だ。一番前を走るってのは、中々難しい。

 少しのことにも先達はあらまほしきことなり。道を作る人の後をついていくのは、一人で考えて何をすればいいかを決めて、その道が正しいのかちっとも自信を持てないまま歩んでいくことよりずっと簡単だ。


 それに、歌の才能は、正直異次元だ。才能が有りすぎて、まわりから孤立したりしてしまうことも十分考えられるし、ある意味それは運命と言ってもいいだろう。


「俺が隠していたのはこれだけ。歌は、何か話したいことある?」


 歌の先達の務めを降りることにして、俺は自由になった。

 それまでの俺の生きる目的というか、ほとんどの時間を割いていたこの"努力"がとうとう終わってしまって、もの悲しくもある。


「歌?」

「あ……う、ううん。もうないよ。おにいちゃん、教えてくれて、ありがとう」


 その声には、まだ戸惑いの色が残っていた。もう少し、整理する時間がいるだろう。

 整理し終わって、俺に質問があれば聞けばいいし、言いたいことがあれば言えばいい。

 今日が、俺と歌のターニングポイントだった。



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