25 歌


 歌は、王子の見せる鏡の中の世界を楽しんでいた。

 これなら、誰にも見られずに……。


「どう? 可愛いよね、このわんこ、たち。お気に入り、なんだ」


 熱心に説明する王子の説明をいつもの社交用笑顔で適当に受け流していた。


「次はね……」


 王子のストックは尽きることを知らない。もう何時間話しているのか。


 さすがの歌も疲れてくる。

 でも、歌は何も言わない。

「それがきっとおにいちゃんの望みだから」


「え?」

 鏡の中から、自分の心の中の声が聞こえて来たのに、歌は戸惑った。


 勢いづいて話していた王子も、冷や水を浴びせられたように止まった。


 気まずい沈黙が立ち込めた。

「何ですか、今の?」

 王子は「君の声だ」


「え?」

「君の、心の……」


 王子は、顔を上げると、カラッとした笑顔でこう言った。

「君の、お兄さんのことを、聞かせてくれないか?」

「……?」

「君の好きな、お兄さんのことさ」


 歌が話す番らしかったが、恥ずかしいので話せるはずもなかった。

 しかし、恥も外聞もないらしい、大きな鏡の中の歌があることないこと話し始める。






 歌はね、おにいちゃんのことが、だーいすき。



 自分が言っているのを見ると、本当に死にたくなる。

「王子、この子は……」

「ここの鏡は君の本性をも暴き出してしまう」

「王子! これどうやって止めるんですか?」

「だめだよ。やっぱり、君は、これに向き合わなきゃ、いけない」

「王子!!」

「大丈夫。君の兄には絶対に言わない」


 鏡の中から。歌が自分自身で気付いていなかったところまで。






 歌の原風景は、本を一人で読み続けている兄だ。


 歌の物心ついた時から、兄は本という物に夢中で、歌のことなんて全然見てくれないから、歌は一度、本にやきもちを焼いて兄に絡んでいった記憶がある。

 兄は、いつもなら絶対に見せない、冷たい目をして歌をあしらった。


 その時初めて、優しい兄が怖いと思った。

 でもその時だけで、歌が邪魔をしなければ兄は歌を大事にしてくれる。本の、次に。


 兄に倣って本を読んでみたが、誰しもがわくわくするような物語に、その時の歌は興味を惹かれなかった。物語を読んでいる余裕がなかったのかもしれない。兄に、かまってほしかっただけだったから。


「王子、お願い。止めて」

「……君の未来のためだよ」

「そんなの……!」


 あなたが知ったことではない。


 いや。僕は決めたんだ。王子は心の中で叫んだ。

 好きな女の子が、自分の人生を生きられていないだなんて、僕は、許せない。

 いっそ衝動的な。短慮蛮勇と言ってもよい。

 だが、歌を何かから解き放って自由に空を飛べるようにしなければならない。王子はそう思った。





 小学校に入っても、私はずっと、兄に劣等感を抱いていた。

 兄は同年代にしては不自然なほど早熟で、親の気を遣うこともできた。

 私がお父さんとお母さんから5歳の誕生日プレゼントをもらった時、嬉しそうな顔をしなかったのを、兄は気にしていた。

 その時の私には分からなかったけど、兄は、親を喜ばせられるのは、今だけだから、と私を諭した。


 兄に付いていくばかりだった私は、兄が喜ぶようなことをしようとした。

 よい妹であること。

 かわいい妹であること。

 他の人に優しい妹であること。

 条件は、幼い私には少し過ぎたものもあったけれど、兄の笑顔を目指して成長してきたから、今の、人間力がついたんだと思う。


 小学校に入ってしばらくして、一緒にお勉強を始めて、兄と一緒に居られる、同じことができる、と一時は喜んだ。


 やっと、構ってもらえる。


「そんなこと考えてない!」歌が叫んだ。鏡の歌は、構わず話し続ける。



 構ってもらえるかと思ったのに、そんなことなかった。

 兄はいつも教える側で、何をやっても兄にはかなわない。


 いつもは、本を読んでいるだけなのに。


 ずっと本を読んでいるなら、その問題は? 私たちに出す問題は?

 いつ作ってるの?

 私は兄の生活をつまびらかにしてみた。けど、問題なんて作っているところ、ほとんど見ない。

 きっと、ほんのわずかな空き時間で、作っちゃうんだ。


 兄は、天才だった。


 異次元の、天才。

 小学校に入って、兄は、敵を作るなと私に忠告した。

 どんな時もニコニコして、それでいてやめてほしい時はきっぱりと言う。

 八方美人? そうじゃない。と兄は否定する。

 八方美人だって絶対にばれちゃだめだよ。誰にも嫌われないように、誰かのために少しずつ手を貸してあげるのさ。

 私は鏡の前で、兄と社交スマイルの練習をした。お父さんとお母さんは、まあ、その年でそんなことを? と笑っていた。


 人はね。気に入らない人を嫌いになるんだ。だから、気に入らない、なんて思えなくしてあげればいいのさ。恩を少しずつ売ってあげるんだ。で、絶対に返されないように。相手は歌に引け目を感じて、そうそう悪いことは出来ないよ。


 歌は、兄に何回も相談しながら、社交力を高めていく。本心から語り合える人なんて、いつの間にか勉強会のメンバー以外いなくなっていた。

 歌がいじめにあった時、兄は全力で動いた。先生に働きかけて、いじめを止めてくれた。


 私は、八方美人がばれちゃったから、次はもっとうまくやるね! と兄に言った。

 うん。兄は穏やかな表情で言った。

 いい妹になら、兄はこんな顔をしてくれる。兄の愛情を感じて満たされる自分と、その裏に、激しい怒りが燃え上がっていた。


 何で、兄は、こんなにデキるのだろうか?


 頑張っているのは、私だけではない。

 いじめを受けていた時期に出来た私の友達は、私が頑張っているのを見て、私も頑張るから一緒に頑張ろうと言ってくれた。平日は友達の家に行って、一緒に勉強したり、裁縫をしたりした。


 いじめ騒動の後、 「社交力」が上がって次々できる友達……男の子も、女の子も、お勉強ができる私みたいになろうとして、私と同じ努力をしようとした。

 朝から、晩まで、お勉強した。

「わたしも、がんばってみる」「おれも、べんきょうしてみる」

 でも、何人もの"友達"が、そう言っては消えていく。

 私は、先生として、いろんな教科を教えてあげた。友達の家で、勉強会も開いた。

 でも、だんだん人が減っていって。


 ついてこれない子が、どんどん離れていく。

 そうやって、努力を諦めた友達と、私の差が開くのは、許せる。だって、そこには、それだけの理由があった。


 でも。


『ごめん。ごめんね』

 ある日。

 私が小学校3年生の時だ。

 ずっと一緒に頑張ってきた、砂山さんが、私に、泣きながら言うのだ。

 もうついていけない。

 ごめんなさい。

 歌ちゃんみたいに、できない。

 泣いていた。

 泣くまで、頑張ったんだよ??

 一緒に。

 毎日。


 何で、泣いても、努力してもいない、本ばっかり読んでるおにいちゃんの方が、こんなに上なの?


 その時、私は、多分初めて、兄を否定する感情を手に入れた。


 プログラミングを頑張ったのも、そのせいだ。

 努力の何たるかを、おにいちゃんに教えるつもりでやった。


 そうしたら、兄は私に初めて負けた、と言った。努力が、才能に勝った瞬間だった。

 でも、兄は泣かなかった。

 泣くまでやることもせずに、スパッと諦めてしまった。


 ああ、そうだ。

 兄は、何でもできるから、別に、プログラミング"ぐらい"、どうでもいいんだ。

 天才だから?

 いつもひょうひょうと、感情を見せないで、大人っぽくふるまう兄に、私の怒りは膨れ上がった。


 兄の感情を引きずり出してやりたい。自分だけ一番だと思っているように、堂々と我が道をゆく兄に、努力を必要とする凡人の鉄槌を加えてやりたい。


 何度か、兄の読んでいる小説を読んだことがある。

 登場人物は、みんな、自分だけの悩みを抱えて、苦しみ、努力して、それを乗り越えようとしていた。

 兄は、そんな彼らの物語を読んで、満たされたように微笑む。あるいは、感動して、泣く。

 なんで、あなたがそんな顔をするの。

 才能にあふれ、本当の努力の苦みを知らないような人間が――


 ――彼らを見て、感動するんじゃない!!!


 私は、それから、小説を読まなくなった。全部嘘っぱちに見えてきたのだ。

 彼らの努力を、あっさりと。それこそ、何もなかったかのように超えていく天才がいるのだ。

 そう考えたら、なんだか、空しくなっちゃって。


 ねえ、おにいちゃん。うた、疲れた。

 時々疲れたふりをして抱き着いた。

 兄が本を読んでいたら、膝枕をせがんだ。

 いっぱい邪魔した。挑発したし、くっついた。

 邪魔だろうに、兄は微笑みを絶やさず、私が読書の邪魔をしても、離れるまで待っていた。

 そのたび、私は顔を真っ赤にして憤慨した。

 負けられない。これは、"努力"と"才能"の勝負だ。


 そうだ。そうだ。だから私は。


 鏡の中の歌が水を差した。「でも、そんなの建前」

「え!?」

 鏡の中の歌が言った言葉に、混乱した。

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