8 小説沼リリィ
ある木曜日の放課後のことである。
一人図書室のやや高い椅子に座って本を読んでいた俺は、いつの間にか、人の気配がなくなっていることに気が付いた。
異常な現象だった。
やはり、偶然ではない。
「こんにちは、まひとくん」
何もない所から現れたかのよう。まひとの背後に音一つなく現れたリリィに、まひとは、「こんにちは」と無難な挨拶を言った。
「何読んでるの?」リリィは、隣の椅子を引いて、座った。長い紅蓮の髪が、視界の端で揺れる。
「今日は『15歳のための行動経済学』」
俺は精神年齢19である。15歳はとっくに過ぎた。
「たのしい? 読んでて」
「うん」
「へーぇ」
この美少女(推定小5)は、たまに幽霊のように図書室にあらわれて、俺に話しかけてくるのである。ボッチの俺にとっては、孤独の慰めになるのか読書の邪魔になるのか、利と害のどっちが大きいのかよくわからない。
今日は対面に座っているリリィがぐでーっと溶けている。
「リリィも読む?」
一度呼び捨ててしまった時に何も言われなかったから、「リリィさん」に戻しづらくなった。
「やだ。お勉強はもうたくさん」
今日はちょっと眠そう。ちょっと子供っぽい言い方をするので、ある意味精神年齢的には呼び捨てで合っているのかも、なんて思いながら。
「勉強そんなに厳しいの?」
「うん」リリィは頬杖をついて俺をみつめながら話し始めた。ほっぺたがよく伸びる。
「あのね、たくさん宿題出るの。で、毎日何時間も家庭教師と勉強しなきゃいけなくてね……」
リリィは個人情報を出さないように気を遣って話している。その代わり、細かい所をこちらの想像で補う必要があるのだ。中々高度な愚痴聞きである。俺はページをめくる手を止めて、リリィと同じように頬杖をついて聞く側に回った。
「なんでそんなに宿題出るの?」
「さあ?」
リリィは大きなため息をついた。
「ほんと、勉強も本も、大っ嫌い」
「なら何でここ来るの」
「なんでだろ。暇だからかな」
少女は暇そうにしながら、それでも人のいない図書室でくつろいだ後、またふっと帰っていった。
次の週の月曜日のこと。
俺は、また来訪した客に、好きな小説を一冊、差し出した。
「暇ならこれでも読めば」
「なにこれ……何の本? しょうせつ?? なにそれ?」
なんと、リリィは小説を読んだことがない!!
俺の中で、誠一に対する熱意と同じ種類の意志が燃え上がるのを感じた。
「これ、面白いよ!」
自信満々に言い切った俺の顔を見て、リリィは「ふ~ん」と言って、表紙をめくった。
俺は、この無垢な美少女に、物語の沼を見せてやるつもりだった。
実は、もう読ませる本を考えていた。ずっとリリィとしゃべってると本読めないし。黙らせたいというのも嘘ではないが。
小説を読んだことがないと知れれば、もう決まりである。
俺の認める名作たちを、片っ端から用意した。
暇そうだったリリィは、その日から、俺の読書仲間と化した。
リリィに聞くに聞けなかったことがある。
図書館に人がいなくなる現象のことである。
誠一はリリィが来る日は、家で家にある本を読んだり、借りてまだ読み切っていない本を読んでいるみたいである。じゃあ誠一と放課後図書室であう約束をしたら、とか、読んでいない本が家に一冊もなくなった羅どうなるのか、とかいろいろ考えられるが、特に試すこともなかった。
リリィは悪い子ではないので、本腰を入れて探る必要性は、ない。
ある日、リリィが泣いていた。
「ひぐっ、ぐすっ、ロボルトぉ……」
小説に感動しているらしかった。
俺の作戦は完璧にはまり、リリィは無事、小説大好きっ子となったのである。
最近集中しすぎて時間が一瞬で過ぎるこの頃。図書室の本を雑に読みまくっている。すでに図書室の10分の一は読んだはず。読書スピードもさらに加速している。
いつの間にか、秋口に入っていた。
季節の移り変わりは速く、夏休みは家族一緒に初めての海水浴に行ったり、実家に帰省したり。一言では語りつくせない思い出が残ったが、やはり日常に戻ってくると安心感がある。
最近のリリィは、三日に一回は来る。
小説、好きすぎ。
もう「俺の選んだ名作群」も残ってないよ……。
勉強がしんどすぎて疲れ切ったリリィが隣でぐったりする日もあった。帝王学だって。ヤバいね。
提示できる小説も減ってきて、「もっと小説を読みたければ、図書館にでも行ってらっしゃーいっ」と言ったが、リリィは「まひとは私のこと、嫌いなの?」と言う答えづらい質問で返してくる。小1相手に大人でも答えられない質問ぶつけてくるとか、大人げない。
「何やってるの?」
「考えてる。読んだ本の内容を、もう一回考え直してる。そうしないと、自分のものにならないからね」
距離感の近いリリィに別のことを考え始めた。
さすが、恋愛ゲームの主人公の肉体。リリィに自然と好感を与えているらしい。推定小5のリリィが、身長半分くらいの俺に通い詰めている?
俺とリリィの関係はそんなんじゃねえ! ただの読書クラブだ! と言いたいところだが、状況はそんな感じであった。
むしろ、リリィが何も考えていなくても、俺の方が意識しそうになる。最近は慣れたけど、リリィは存在があまりに色気に満ちている。
神絵師の描いたロリキャラなのかもしれない。微笑み、ルビーのような目、艶のある深紅の髪の毛。スケッチしてネットに上げたら好評を博しそうである。
微笑み、流し目、たまにコテンっと首をかしげる仕草。どれ一つとっても危険であった。
そんな美の怪物みたいなものが、俺に少なくともプラスの感情を抱いているのは間違いない。
この好感度、もしかして真人スペックではなく、
ことリリィに関しては、全てが意味不明に満ちている。
なんであの日に俺の目の前に現れたのか。
なんで何回も来るのか。
なんでもっと本があるところへ行かないのか。
人が来ないのにはどういう術理を使っているのか。
どこに住んでいるのか。
ちなみに、上の問いにだいたい答えを出せるのが、『リリィ幽霊説』である。
でも、俺はリリィのことは信じてるよ!
幽霊だって!
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