第36話 野生の賢者

 先日、母を用足しの為の送迎をしていた道中の事。


 先に農協に寄って(田舎のため最寄りの金融機関はJAバンクしかないのです)預金を下ろしその足でお店に寄り買い物を済ませる、というミッション。

 別段難しいこともない作業、何の迷いもなく農協に到着。で、お金を引き出した母を乗せて出発────と、しばらく車を走らせたところで一つ失敗に気づく。


 農協とお店は、私の自宅を挟んで反対方向にある。その位置関係を上空から俯瞰して見れば、ちょうど三角形を作るような形になっているのだ。その為、農協からお店に行く場合は自宅を経由せずに直接お店に向かうのが正解。

 ……なのだが、私はいつもの習慣で自宅に向かって道を曲がってしまい、しばらく走った所でそれに気付いたのだ。


「あちゃー……お店に寄るんだった」


 私の言葉を聞いて、母自身もそれを失念していたらしく「ホントだねぇ」と笑っていた。別段急ぎの予定などもないので、そのまま自宅前を通り過ぎてお店に向かう。

 ひとつ、私がため息を付いたところで母が愉快そうに言った。


「言い過ぎは取り戻せんが、行き過ぎは引き返せば良いだけ、だそうだ」


 ほぅ……!

 これはいい言葉だ。

 簡潔でわかりやすく含蓄もある。


 新鮮な感動を味わった。それがどこにでもありそうな言葉なのに、今初めて聞いた言葉であるということ。もしかしたら、同じ意味の違う言い回しがあるのかもしれないし、きっと世の中にはあるんだろうと思う。

 しかし私が驚いたのは、それが母の口から出てきた言葉だということ、そして驚いたことにそれは私の祖母(母にとっては姑)から母が聞いた言葉だということだ。


 私の母の学の無さは以前何処かで話した気がするので割愛するが、祖母はそれに輪をかけて学の無い人だった。どのくらい無いかと言うとカタカナしか書けない程度の学力だということ(一般的な漢字と平仮名は流石に読むことはできたが、筆記で書く時はすべてカタカナで書いていた。祖母は大正生まれで当時の女性としては別段珍しいことでもなかった)。

 諺的な言葉なので、口伝で充分覚えられることでもあろうが、もしこれが自身の経験の中から出てきた「祖母の言葉」だとすればこれは結構すごいことだしロマンもある。

 以前母から聞いた「道路は車に乗る人だけじゃなく、すべての人のしになる」という言葉は、紛れもなく母自身から生まれた言葉だったが、そう言うことが学業や知性ではなく、野生の経験から生まれてきたものだとすると……高揚感とともに恐ろしさも感じる。こういう無意識下で生まれる実感を伴った言葉というのは、現代では失われつつあるものでもあるだろうから。

 学が無いことを恥じるのではなく、経験と実感から生まれた感性というのは繕うと思っても作り出せるものではない。

 今後この先、人間の社会においてそういったものが生まれる余地が残っていることを、私は願って止まない。

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