湖底のグラス・レディ、5

「ほたる、どうだ。ピアノの方は。俺がいない間に上達したか? 練習は欠かしてないな?」

「ええお父様。次に披露するのが楽しみだわ」

 ほたるの父、小葉元治もとはる。九沈領の当代領主。領主の座を降りた八十科家にとっては何代か前からの大恩がある一家の頭首である。今は一人で生家に暮らす影斐も支えられる立場としてその例外ではない。

 半年の出張から故郷へ帰ってくると彼はいつも、末娘のほたると息子のように可愛がっている影斐をこうして食事に誘う。

「それから——影斐。婚約者がいると聞いたが」

「はい」

「噂は本当だったんだな。そうかそうか、お前に嫁を取る気があったとはねえ」

 噛み締めるように頷いてから、元治は食べな食べなとすでに並べられた膳を指した。

「嫁さんが欲しかったんなら何も一人で急がんでも、言ってくれれば俺がいい相手を紹介してやったんだぞ」

「いえ。そこまでしていただくわけには」

「相変わらず固えなあ」

 ほたるの酌で満ちた杯を幸せそうに飲み、快活に笑う。食事を始める前から飲んでいたせいで、顔色こそ普通だがすでに声が高い。酒が回っている。

「何て言ったけ」

「井藤ルルさん。とても良い子よ、お話が好きで自信家で」

「ほーう。影斐、お前も隅に置けないな」

 自信家。大抵は、根拠があるかどうか分からない。と胸の内で勝手に注釈を付け加える。

「ほたる、お前の旦那は俺が見つけてやらないとな」

「何言ってるのもう。余計なお世話です」

 影斐にとっては義務的な参加でも、ほたるにとっては父親との久しぶりの食事。抑えてはいるが少し浮ついた様子でいる血のつながった娘がよく喋るので、影斐は相槌くらいで済んでいる。どちらにせよおしゃべり好きなこの父娘のことだから、口下手な影斐が聞き手に回るのは常ではあるのだが。

 毎回、中盤には影斐の相槌すらいらなくなっているのだからいっそ最初から二人で来ればいいだろうと思いながら米の一粒も残っていない自分の器を見下ろして。

 ほたるが手洗いに立った頃にはすっかり閉店時間に迫っていた。

「まさか湖のレディと婚姻の約束を結ぶとは。お前も隅に置けないな」

 ひとりが席を外しただけで走り出した沈黙を止めたのはやはりまた元治の方であった。調子に乗って緩くなっていた滑舌が少し戻り、低い声が個室に響く。

「……ご存知でしたか」

「そりゃ、学校の噂は街の噂だ。街の噂はいつでも俺の耳に入ってくるんだよ」

 自分やほたるの前ではよく喋って酔っ払う父親だが、仮にも九沈を統治する『領主』なのだ。留守にしていても街の隅々まで目を光らせている。

 ……だからあえてルルの口に戸を立てておかなかった。

「噂だけで信じてしまってよろしいのですか」

「いや、まあな。だがその反応、お前は確信があって認めたんだろう?」

 影斐は口をつぐんだ。

 元治が水の入ったグラスを揺らすのを黙って眺める。

「そうか、か。……お前は人魚に選ばれたんだな。これをずっと待ち侘びていたんだ。九沈もうちも、お前の家も」

 そう言って頷く彼の声は酔っ払いのものではない。甥の結婚を喜ぶ叔父の顔でもない。利用できるものは選ばない、冷静で抜け目のない領主のものだった。

 襖の外でフローリングの軋む音が聞こえた。と思えば叔父はぱっと破顔して快活な父親に変わって、何食わぬ顔で話を続けた。

「今度俺にも会わせてくれよ。あのぼーっとした影斐がどんな子を選んだんか、見てみねえとな」

「お父様、明日からまた忙しいでしょう。しばらくは会えないわ」

 戻ってきたほたるが影斐の隣に座りながら言う。

「そうだった。ほたる、秘書セクレタリより俺のこと分かってるんじゃないか?」

「お父様、もう帰らなきゃ。お水飲んで」

 娘からあれこれ言われながら笑っている父親が先程の男と同じとは、ヒラメをひっくり返したかのよう。出来るならずっとほたるの父親としての彼でいてほしい。それが一番、一番楽だ。

「いずれお会いになれますよ。私が紹介します、必ず」

 影斐は叔父に約束した。

「私の生涯の伴侶になるひとですから」



「や、おかえり。えい君」

「外に出るならあの人についてきてもらって下さい」

 送ると言い張った叔父たちを意地でも断ったひとりの帰り道、湖岸の柵に腰をかけたルルがこちらに気付くと手を振った。周囲に執事がいないということは彼女も家からここまでひとりで歩いてきたのだろう。

「悪い悪い、帰ろう」

「買い物なら連絡してくれれば買ってきましたよ」

「は?」

 純粋に影斐の言葉が伝わらないという顔でこちらを見る。もうなんでもいい。いつも通り歩き出す彼女の少し後ろでゆったりとついていく。

 数歩もいかないうちに、ガサ、と近くの垣根に動くものがあって。

「いやあっ、なんだ、こいつっ」

 突然腕にしがみついて騒ぐと思ったら、ルルの視線の先には異様に光る二つの月。

「猫」

「帰ろ。早く帰ろう! よく分からないけどあいつはよくない」

「猫ですよ」

 街灯の灯りに出てきた三角耳の赤茶色の毛皮は柔らかい身体をうんと伸ばして、こちらに何の興味も示さずにゆったりと通り過ぎていった。怖がって騒いでいるのはこの人魚だけ。

「やっぱり本能ですか。魚だから」

「人魚って言わなければなんでも言って良いわけじゃないからな」

 無感動に無礼なことを言うと、婚約者はビームも出そうな視線で睨みつけてくる。

「盾にしないで下さい、私だって猫アレルギーなんです」

「奥様が怖がってるんだからちゃんと守りなさいな。全く」

 猫が去ったので再びぽんと歩き出す姿は魚というよりお喋りな小鳥のようだった。

「家族に会ってきたんだろ。僕にも今度会わせてよ」

「はあ」

「おーい。全く」

 湖岸沿いに歩く長い黒髪がサラサラと反射して、後ろ姿にも湖面を眺めているのが分かる。その眼差しはただこの風景に見惚れているのか、それとも望郷に駆られているのか。

 人魚の心なんて、影斐に分かるわけがないけれど。


 家に戻ればひょいと靴下を脱ぎ、人魚は裸足でぺたぺた床を歩いていく。すっかりここを地上の安全区域にしているようで何よりだ。

「猫は靴なんて履かないだろ、こんな薄い皮で外を歩いたら痛いんじゃないだろうか」

 先程まで怖がっていたものに対しても離れれば興味の対象になるらしい。

「肉球ってもう少し分厚いんじゃないですか。それに個体差で長靴を履くものもいますし」

「そうなの? ……あ、これ嘘だ」

 返事が来ないことで察したルルは肩をすくめた。

「心配せずとも猫は自分で歩きやすい道を選びますよ。貴女と違って」

「地上もなかなか快適だぞ。そう卑下するな」

 居間の広い空間でくるりとバレエのように器用に回ってみせて、人魚は微笑む。その楽しそうな所作には、何の不自由もないかのようで。

「それとも……お前はそんなに湖に沈みたかったのかな」

 あ、と声を上げそうになって、それなら黙っていたほうがましだった。

 沈黙がたとえ、肯定ととられても。

「なあ、お前は言ったよね。僕たちの間に恋愛はないと」

「…………」

「ま、自由にさせてくれるのは十分素敵な旦那様だと思うんだけどね。べつに初めからそう決めつけなくてもいいと思うんだ」

 これは目的や打算があっての婚約。今のところお互いに主張することはないけれど、いつかは人魚も影斐の何かを利用するのだろう。ならばこれ以上踏み込んだところで無意味だ。影斐とルルは普通のカップルのように支え合う関係、ではないのだから。

 それなのに、ルルは予想もできない提案をする。

「どうだろう。せっかくだ。何か夫婦や恋人がするようなことを真似してみないか?」

「何のために」

「そうだな、たとえば……」指で顎に触れる考え事の仕草もこの半月ほどで見慣れてしまった。この奔放な少女はいつの間にか、影斐の生活に溶け込んでいる。そのくせ思い出したようにこうやって、訳のわからないことをするのだから。

「たとえば毎日寝る前に僕にキスをしよう」

 もう少し初歩的なことから始めるのかと思えば耳を疑う発言で、襖に肩をぶつけてガタンと大袈裟な音が響く。不覚。

「私が?」

「見事に嫌そうな顔だあ。僕がする方でもいいよ」

 断ってもいい。ルルは大して怒らないだろう。


『湖のレディ』、その実在の真偽なんてどうでもいい。いつの時代も人魚は人間の手に落ち、道具として扱われる。

 最優先は『クララ・モン・シェール』の保護。彼女の身柄が、意思が、九沈領の大人の手に渡ってしまうことのないように、ルルをこの家で守ること。繋ぎ止めておくことだ。

 気まぐれで人間好きな、このひとを。


「…………」

 と言っても、どこに?

「どこでもいいよ。えい君の好きな場所にするといい」

 不敵で挑戦的な表情。影斐はじっと動かずに自分を見つめている彼女の前に溜め息を吐きながら跪き、その右手を慎重に掬い上げた。月夜の此岸で彼女が影斐の手を掴まえたように。

 それから息を止め、細く白い指に唇を触れさせる。

「王子様みたいだね」

 呑気に笑って感想を述べているがこちらは今どこかの女王に挨拶するような緊張感で臨んでいる。しかもいざやると想像以上に気まずい。

「楽しそうですね」

 これを毎晩……?

 彼女との婚約を後悔しそうになる。

 動悸の忙しい夜だった。


     ◯


 素朴な平屋建ての屋敷は二人で暮らすにはいささか寂しいくらいに広い。執事は呼ばなければ出てこないのでカウント外とする。生まれてこのかた方向感覚というものを養ってこなかったから、半月経っても時折自分の位置が分からなくなる。ほたるの家のように階段があったりしたらきっと余計に難しいんだろう。助かった、と思いながらどこかの廊下の真ん中で助けを必要としている現状にくつくつ笑いが込み上げてくる。

 家の中の暗闇は、湖の中より静かで孤独だ。

 仕方ない、しらみつぶしに探すほかないか。途中で影斐の部屋にあたれば連れて行ってもらえるしな。そう思ってルルは適当に扉を開けて回る。

 気付かぬうちに同じ廊下を行き来して同じ扉を開けたりしているせいでいつまで経っても辿りつかない。燭台だけでは足元は暗いし扉の区別もつかないし、もういっそこの場で寝てしまった方が早いのでは?


 そう諦めかけたとき、ひとつの扉が目に留まった。

 比較的新しい木の扉は温かみがある木目調。ルルの目線より少し上に曇りガラスが嵌められていて、覗くと中で何かがチラチラとゆらめいているように見えた。その光に吸い込まれるように手が伸びて。

 ドアノブに指を掛け、引っ張ろうとしたところで、しかし開けることは叶わなかった。

 バン、と暴風に押されたように扉が閉まる。

「何をされているんです」

 影斐は左手で扉を押さえた体勢のままルルを見下ろして。扉を開けるために物音がしていたから起きてしまったのだろう。不機嫌そうな声が燭台の向こうから降ってくる。

「あっえい君! 助か……っ」

「これが狙いですか、貴女の」

 暗い声がすぐ近くでルルの声を覆うように遮って言う。驚いて口をつぐんだルルの視界で蝋燭の火にゆらめいて映ったのは、深い色に染まった左目の真鍮のような金色がルルを睨んでいる場景。

 それはまるで盗みを働こうとした者を咎めるような。

 少なくとも婚約者に向けるような目ではなかった。

「————え、」

「あ」

 しかしルルが言葉に詰まっている間に何か思い直したのか彼の敵意はふっと消え、扉に添えた手を下ろした。

「もしかして、また迷っていたんですか?」

「え、えへ」

「……そうですか」

 いつもの淡々とした口調でそう呟いて、こちらですよと元来た廊下を進み始める影斐。その気の抜けた肩を追いかけながらルルは少しだけ振り返る。

 やはり廊下は孤独で、暗いだけだった。

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レイト・メロウ 端庫菜わか @hakona

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