湖底のグラス・レディ、4

 早朝の生徒会室では管弦楽やピアノを練習する音がかすかに聞こえてくる。

 ドアノブが向こう側の誰かの干渉で動いて扉が押し開けられた。

「音が散らかってたぞ」

 指定鞄を手に、楽器のケースを肩にかけた生徒会長を横目に迎えて影斐は言う。部屋にいるのは副会長である影斐だけで、他の役員はまだ登校していない。

「……今は集中できる気分じゃないの。リードを咥えてもいい音が出ない」

「ふうん」

「言っておくけどあなたのせいよ、影斐」向かいの椅子に滑り込んで、影斐のめくるノートの上にトンと指を置く。「あなたが余計な悩みの種を運んできたの。」

 心当たりといえば一つしかないが、できれば聞き返したくない。

「なんだと思う?」

「……それ、聞かなきゃだめか?」

 ほたるの少し薄い茶色の瞳がすうっと細まる。影斐は憚らず溜め息を吐いた。

「井藤ルル。あの子、真夜中にうちを訪ねてくるのよ。ひとりで」

 パキンと手元でシャープペンの芯が欠けた。

「夢だろ」

「夢なんかじゃないわよ。玄関じゃなくてわたしの部屋の窓辺に座ってるの」

 本当に冗談であってほしいがこの生徒会長がこんな真面目な顔で嘘を吐くはずもない。ここ数日は春の雨が続いているのに、わざわざ夜を選んで出掛けているのか。ひとりで?

「怖いのよ! 監視カメラを確認してもどこにも映ってないし。やめるように言ってくれる?」

 苦情。至極真っ当な苦情だ。人魚を家に迎えてから空いていた母の部屋を提供しているが彼女はあまりそこに篭ったりせず、居間で眠る姿をよく見ていた。それがここ数日、過ごし方が変わったのかと思っていたら。

「何か話したのか」

「ううん、何か……目が覚めるとよく覚えてなくて。だけど何かしら口遊んでるわ。わたしが寝る前に練習している曲、とか」

 説明の中にほたるが追い返すとか叱るとか、そういった主体的なアクションが含まれていないのがそれこそ夢で見た話を聞かされているようで気味が悪い。けれど実際にルルはほたるを訪ねているのだろう。真夜中のアプローチ、いかにも妖精らしい手段だ。

「とにかくやめさせて、遅い時間に一人で出歩くなんて危ないから。 わたしの安眠のためにも」

 通りで朝から目元が陰っていると思った。ほたるは寝不足だと顕著にコンディションが落ちる。人魚に惑わされているのだ。

「お前と親しくなりたいんだそうだよ。逃げてないで話を聞いてやったらよかったんじゃないか」

「わたしだって逃げたいわけじゃ……」

 机に突っ伏して次第に情けない声になっていく生徒会長に書類の承認欄を差し出してみると、途端に背筋が伸びてサッと内容に目を通しサインをすると迅速に返還された。

 それからまた思い出したように悩ましい溜め息を吐いて。

「影斐の考えてることがいまいち掴めないのは今に始まったことじゃないけど、今回のはやっぱり分からないわ。婚約なんて大事なこと、急に決めるなんて。しかも、身元が不透明な相手と」

 確かにその場で決めてしまったから何も言い返せない。黙っていると、ほたるが「彼女を悪く言いたいわけじゃないの」と小さな声で付け足した。ルルに関することになるとやはり少し冷静じゃない。

「この地域では誰より由緒ある方だよ。言っただろ、人魚だって」

「そんなのいないってば……」

 ほたるは疲れ切ったように言う。散々ルルに振り回されたのだから気持ちはわかる。この件がどう転んでも構わないが、一段落したら食事でも奢るべきかもしれない。

「とにかくあんなタイプの子は初めてよ。一体いつどこで知り合ったの」

「夜の湖に浮いていたところを保護した」

「また……」

「どちらでもいい。本当に嫌ならそう伝えたらいいだろう」

 勝手に部屋を訪ねてくるなんて常識はずれなことをしている相手を嫌っても無理はないのにそうはならないらしい。それにつけ込んで当人任せにする自分もルルの側にいるのだろう。

 無責任にそう言って、広げたノートや書類をまとめると席を立った。それを追うようにほたるは言葉をつなげる。

「でも、あなたの奥様になるひとでしょう」

「歩み寄りたいなら次に来た時にこう呼ぶといい。」

 影斐の告げた言葉はほたるの予想からはあまりに遠くて、思わず素っ頓狂な声を上げる。

「……寝ぼけてる?」

「寝てないのはそっちだろ」


     ◯


 その夜も細かい雨が降って、小葉家の館は決まった時間に寝静まる。ほたるは寝支度を終えて楽器を仕舞うと、いつものように天蓋をくぐって布団をかぶった。右を向けば九沈湖向きの出窓があって、その場所がいつもより気になってしまう。

 影斐の口振りだとルルを止める気はないのだろう、おそらく今日も彼女はそこに現れる。

「来ないならそれに越したことないんだけど……」

 学校ではもう話しかけてこないのに、どうしてわざわざ夜に来るのだろうか。影斐も不思議な子を連れてきたものだ。

 小葉ほたるは同じ悩みにずっと浸っていられない。座右の銘は慎始敬終、勉学も音楽も生徒会の仕事も全てに手を抜かないのが小葉ほたるという少女である。誰に強制されたわけでもなくこの信条を貫こうというのは自分で選んだこと。苦手なものがあるからと言ってそれに邪魔をされるのは意に反するのだ。


 ふっと意識が落ちる瞬間があって。目を開けると視界にぼんやりと映った、誰かのシルエット。ルルが来たのね、と何の根拠も確信もなく思う。

「……ルル」

「今日は起きてるんだね」

 少し低い、睡夢を揺蕩うゆったりした声。

「今日クラスメイトに教えてもらったんだけど、今は女子の中で懐中時計のオーダーメイドが流行ってるんだってね。文字盤から針の形や蓋の格子まで自分の好みにしたり、お友達とお揃いにしたりするんだとか。すごい特権的流行だ」

 学校で話していた時の楽しげな雰囲気ではなくて、子供に絵本を音読するようなそんな話し声。ほたるは布団に押し付けられたように眠くて重たい身体をようやく起こした。けれど取り留めのない雑談は続く。

「だけど懐中時計って重いじゃないか。話を聞いてえい君の持ってた時計を見せてもらったけど、ないならないほうが楽だなあ、僕は。」

「ねえ、」

「学校にも大きな時計はあるしね。僕にはあれでじゅうぶんだ」

「ねえ……あなた、何のつもりでここにくるの。九沈湖伝説の話ならもうお腹いっぱいなのだけど……」

 窓辺でぽつぽつと話していた声がふと途切れて、井藤ルルはからりと告げた。

「ああそれ。もう忘れていいよ」

「え?」

「いや、ちょっと考えが変わったんだ。僕はこの学校ではただの『井藤さん』だものね、誰にも信じられないからといって僕の価値が下がるわけじゃない」

 かちかちと部屋の時計の秒針だけが歩き続けている。

 こんなにあっさり引き下がるなんて、やっぱり冗談で言っていたのかしら。元々信じてなんていなかったけれど……なんだか嘘を吐かれたような気持ちになって。

 だけど結局どっちなの、なんて聞けなかった。

「……それでどうしてここに来てたの」

「早朝。誰もいない教室でいつも、どこかから音楽が聞こえてくるのに気付いたんだ。それはいつも同じ曲で、聞けばバスクラリネットとやらの音色なんだそうだ。今となってはその音を聞くのが朝の楽しみになった」

 話しながらルルの影がついと動いて横顔の輪郭が映る。

「つまりは単純接触効果! 学校ではまともに会えないからね。僕がこっそり接触を重ねておけば、お前も知らないうちに好感度が上がってるかなと思ってたんだけど」

「な、なにかしら? 倫理観が……壊れてる……」

 眠気の取れない中で話をしているせいだろうか、普段なら指摘しているようなことのはずなのに頭が働かなくって、何をどう叱ればいいのかわからない。

「でももうやめるよ。お前はえい君の家族だ」トッと裸足の足が床に降りる音がして、窓辺から伸びたガラスのように冷たい指がそっとほたるの目元を撫ぜた。「亭主の大事な家族を、僕は亭主より大事にしなきゃいけないからね」

 お前と親しくなりたいんだそうだよ。

 いとこの言葉が今になって頭の中を反響して聞こえてくる。

「さて、そろそろ帰ろう。実は怒られたんだよね、えい君に。いくら田舎でも夜の散歩は補導されるからやめなさいって」

「ふふ」

「笑い事じゃありませんよ、とも言われたな」

 声色を真似て単調に喋る影斐の再現をしようとするのがおかしくてつい笑ってしまう。叱られたからやめるのであればそう言えばいいのに、声が大人びているだけでちょっと子供っぽい子なのかも。

「影斐ってそんなだった? ちょっと可愛すぎるわ」

「そう? 今のは僕が言ったから仕方ないかも。あんな無情な声は出せないもんな」

 じゃあね、おやすみ。

 彼女が囁いた声が一瞬、耳を滑っていく。

 カタ、と窓に手をかける音で帰ってしまうつもりなんだとようやく気付いた。

「待って——『クララ・モン・シェール』!」

「なんだい、……えっ」

 ルルがうっかり返事をしたその時。ほたるの視界に一瞬、ノイズのようなものが通り過ぎた。再び正常に戻るとずっと横たわっていた睡魔もかき消え、頭の中も視界もはっきりと映るようになった。

 ……そこにいたのは紛うことなく人魚を模った妖精の姿。少しばかり青身のある肌にらんと輝くトルマリンの瞳。腰から下の、白い骨の透ける長い尾鰭。ほたるがずっと否定し避けていた伝説の具現化であった。

「きゃあああ!」

 甲高い叫び声が建物中に駆け巡って、館を目覚めさせる。パパパと点いていく家の灯りと大慌てで二階に上がってくる足音が近付くと思ったらほたるの部屋の扉が勢いよく開けられた。

「お嬢さま!? どうされましたか」

「なっなんでもない」

 いち早く駆け付けた住み込みの家政婦が見たのは、ほたるが布団ごとベッドから落ちたらしいところだった。

「お嬢さま、お怪我は……」

「ううん大丈夫! びっくりさせてごめんなさい、ほんとにうっかり落ちただけだから」

 本当に大丈夫か、と心配する家政婦を宥めて丁寧に追い返し、ほたるの部屋は再び静寂を取り戻して。

 よくわからない息切れを整えながらベッドの方へ戻っていくと咄嗟に被せた布団をそっとはがす。すると中から放心して目を丸くしたまま固まった人魚が顔を出す。ルルの面影をそのままにした気の抜ける表情は眺めるほどにほたるの恐怖をゆっくり流して消し去っていく。

 ポカンと顔を見合わせているとどちらからともなく笑いが込み上げて、二人で声を潜めて笑い合った。


     ◯


「たとえば亀とか……」

「誰が両生類だ。やつらが乾かしてるのは鱗じゃなくて甲羅だろ」

 指定鞄を手に、楽器のケースを肩にかけた生徒会長を朝日の差し込まない生徒会室で迎えたのは、今朝は副会長だけではなかった。

「ちょ、ちょっと? 一体何の話をしてるの」

「おはようほたる」入室した部屋の主に気付いて挨拶をしたのはもちろん影斐ではなく、ルルの方だった。いつも通り指定の制服を着て二本の足を携えた同学年の少女は、退屈そうにつまんでいた自分の毛先を離してほたるに手を振る。

「おはよう、ルル」

「ほらねえい君、嘘じゃなかっただろ。ほたると仲良くなったぞ」

「はいはい。レディ」

 新しい友人の笑顔を見ると、ルルは影斐を振り返って片目を瞑った。どのような経緯があって一晩で関係が修復されたのかは聞かないほうがよろしいかと思って深く聞かないままだったが、ルルが得意げにしているので同調しておく。ほたるの方をチラッと見るといとこは肩をすくめて言った。

「この目で見たらもう信じるしかないじゃないの……ショック療法って本当に有効なことあるのね」

「人間のお友達が増えましたね。気は済みましたか」

「お前がやめろっていうからやめてあげたんだぞ。っていうかえい君でしょう、ほたるに僕の本名を教えたの」

「はて」

 目を逸らすが遅かった。ルルの手が本を閉じた影斐を逃さない。

「おかげで飛んだトラブルだったんだけどな。あれはなんだったんだよ。吐け、ほら!」

「頭を振っても金貨は出ませんよ」

「あははっ」

 一際愉快そうな笑い声が最初の鐘と被さった。

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