第16話 革命政府最強の兵士

遡ること2週間前――

「ケケ、ケケケ……こちらで、ごぜえます、よ……」 

 サンジュを脅して首都に入ったノエルは、政府に通じ隠し通路の入口……一見すると草木がぼうぼうで抜け穴があるかどうかもわからない……の前にいた。ノエルはその場所をよく知っていた。王宮から王家の一族を外に逃がす時に使った通路口だからだ。

「王家の隠し通路をそのまま流用したもんだな。まだ使っていたとはな」

「へへえ、しかし何もかも以前のままというわけではありませんで……」

「どうしたんだ、グレゴリ」

 サンジュが言いかけたところで、突然背後から声をかけられて、ノエルは驚いて振り向いた。警戒していたのに、何の気配もしなかったのだ。まるで影からぬるりと生えてきたかのように、そこには、にこやかに微笑むユベール・モレがいた。

「こ、これはこれはモレ元首……」

 サンジュ――本名をグレゴリというが、その名前を今の今までノエルは知らなかった……が恐縮して頭を下げる。

「グリゴリ、お客様ならこんなところからではなく正面からお出迎えしなくては。しかし、連れてきてくれてありがとう。」

 そう言って、ユベールはなんとサンジュに金が入ってるらしい麻袋を手渡したのだった。

「な……! 俺をはめやがったのか、サンジュ!」

 怒鳴るノエルを、ユベールがにこやかに手で制する。まるで、長年の親友同士のような距離感で。

「そう怒らないでくれ、氷雪卿。一度、君と話してみたいと思っていたんだ。会えて嬉しいよ」

 ノエルは耳を疑った。ユベールの言葉には皮肉も偽りもない。心の底から自分と出会えたことを喜んでいる。それが気味が悪くて仕方がない。

「お前……一体、何を考えているんだ」

「氷雪卿。実を言うと、私は、革命の戦いの最中で君と向き合った時から、君のことが忘れられなかったんだ。ここでようやく会えたことも何かの縁だろう。君の力を、今後は私のために貸してくれないか」

「な……!?」

 あまりの図々しさにノエルは絶句した。王家の中心だった自分に、臆面もなく、仕えろと言っている。

「何を馬鹿なことを……俺は、王家の方々を殺した、お前を殺しに来たんだ!」

 言うが早いが、ノエルはユベールに飛びかかった。目にも止まらぬ速さで地面を蹴り、宙に浮いたまま、懐に隠していた短剣をユベールめがけて振り下ろす。

だが――。

「おっとっと、さすがにもうひとつの目まであげてしまうわけにはいかないな……」

 ユベールは困ったように笑いながら、ノエルの剣を片手で容易く受け止めてしまった。

「な、何――」

 ユベールが剣を触った先から、力を奪われていく感覚があった。

「さ、そんなに攻撃的にならずに、落ち着いて――私たちはきっとわかりあえる」

 ユベールに、肩を支えられる。それだけで、ノエルはすうっと力を吸い取られて、立っていられなくなってしまった。

「お前……一体、何をした……この、外道が……!!」

 地面に倒れたまま、強い意志を持ってこちらを睨みつけるノエルの目の美しさに、ユベールは純粋に感動していた。

 氷雪卿は、知略武術に秀でた王国随一の軍人だった。世間は、敗者の王国側を馬鹿にしたが、ユベールは、氷雪卿がいなければ革命はあと三ヶ月は早く成し遂げられただろうと、彼の力を高く評価していた。彼の作戦で大いに手こずり、彼の剣戟によって多くの仲間たちの血が流された。

 戦場で相まみえた時。ユベールは、氷雪卿の凛とした立ち姿、激しい敵意をもって自分をまっすぐ見つめるその瞳を見て――彼を、欲しいと思ってしまった。彼と戦って、右目を彼の剣で貫かれた時に、心もいっしょに貫かれた。右眼を負傷しさすがに撤退を余儀なくされ、氷雪卿とはそれきりになってしまったが、鮮烈な彼の姿はユベールの中に強く在り続けた。氷の彫刻のごとく、美しいあの近衛騎士を、自分のものにしたいと思った。

 だが、氷雪卿は革命の戦いの最中、行方不明になってしまい、ユベールはずっと彼を探し続けていたのだ。周囲の仲間たちは、忠義に厚い近衛兵だったのなら、きっと自決してしまっただろうとユベールを説得したが、それでも彼は諦めなかったのだ。王族の処刑が終わったあとも、政府の元首となったあとも、ずっと。

「グレゴリに聞いたよ。君は今、パティシエをしているそうだね。まさか菓子を作っていたとは思っていなかったな……あんなに腕が立つ近衛兵だった君が、その才能を活かしきれていないというのは勿体無いことだね」

 そう言って、ユベールはノエルの顔の近くにしゃがみこんだ。

「パティシエはもう間に合っていてね……君には、エプロンよりも軍服が似合うと思うんだ。君に特注の軍服を私がプレゼントしよう! うん、それがいい! 君の手にはきっと、氷の彫刻のように繊細で美しく、しかし切れ味のいいサーベルが似合うだろう。少なくとも泡だて器よりもずっとね」

「……」

 ノエルは、動くことができない。

 首都にユベールを殺しに来た時に、もう命を捨てる覚悟だったので、パティシエに戻ることなど考えていなかった。もともとは、亡き王妃との思い出を慰めるために始めた菓子作りだ。未練などないと思っていた。

 だのに、何故だろう。ユベールにパティシエの仕事を否定されている今、自分は悔しくてたまらない。自分の菓子に感動してくれた、弟子アンセルの顔が不意に頭に浮かぶ。

「私の元で、思う存分に力を発揮してくれ、氷雪卿」

 ユベールがノエルの耳元で囁くように言った。

 そして、ノエルの顔を覗き込んできたので、ノエルはユベールの目を、

 ノエルの視界がグニャリと曲がり、菓子を作っていた日々が走馬灯のように流れて消える。

 家の厨房で菓子作りをしていたら父に殴られたこと、王妃のワガママで菓子を所望されて、近衛騎士の寮でこっそり菓子を焼いたこと、王妃が亡くなってからひとりでマドレーヌを焼いて食べたこと、そして、そんな自分が作った菓子を頬張って、思いの外喜んでくれた人々、無理やり転がりこんで強引に弟子入してきたアンセル……それらが、ノエルの頭の奥深くへと閉じ込められてしまった。

「……誠心誠意、お使えいたします。ユベール様」

 ノエル・イヴェールは、氷雪卿サー・ネーヴェとなり、ユベール・モレに跪いて頭を垂れた。

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