第14話 アンセル、首都へ行く

 アンセルはルベル社で気絶したその後、カミーユ・シモンの世話になっていた。

 ノエルがルベル社の社長室から消えて2週間が経とうとしていた。なんの音沙汰もなく、手がかりもつかめない日々に、アンセルは不安だったが、食事と睡眠は怠らなかった。ノエルがこれまでアンセルに口うるさく言ってきたからだ。アンセルは無自覚だったが、ちゃんと食事と睡眠をとっていたお陰で、極端な思考には陥らずに済んだのである。

 一方カミーユは、弱冠16歳のこの若者を心配していた。アンセルは、少々強引で猪突猛進なところはあるが、純粋で善良な青年だ。成人したとはいえ、まだまだ大人の支えが必要な時期であるのに、ノエルは一体どうしてしまったのだろう。  

 サンジュがノエルを誘拐したのではないか。そう言ったのはカミーユ本人だが、ノエルが、そうやすやすとサンジュにやられるとは思っていなかった。何かあったのだろうか……。

 だが、カミーユがいくら心配をしていても日常生活は続く。商社の仕事はずっと続いているし、今日は来客の予定があった。

「僕、お茶の用意をしますね」

「いや、ルブラン君は休んでいて良いから……」

「やらせてください。体を動かしていたほうが余計なことを考えなくて済みますから」 

 そうこうしているうちに執事が来客を知らせたので、アンセルは茶を淹れる準備を始め、カミーユはエントランスへ向かって客を出迎えた。

「フランソワ、もうひとりで歩いて平気なのか」

 廃人になっていたフランソワ・ルベル氏が、病院で治療を受け、歩けるほど回復して、カミーユを訪ねてきたのだった。サンジュが隠していた中和剤が見つかったのが治療に役立ったようである。だがしかしフランソワ・ルベルの顔色はあまり良くなかった。

「カミーユ、君に相談があって来た……私は、恐ろしい計画を聞いてしまったのだ」

「え……?」

「警察や病院に話したが、違法菓子で幻覚を見たのだろうと誰も本気にしてくれないんだ!」

「とにかく落ち着け。今お茶を出すから」

 かわいそうに、違法シロップのせいで頭が混乱したのだろう、とカミーユは思った。ともかくルベル氏を椅子に座らせ、アンセルが淹れてくれたお茶をすすめる。

 アンセルには休んでいろと言ったものの、彼が淹れる紅茶は美味だった。パティシエは紅茶の専門家ではないのだが、菓子に合う紅茶を研究しているうちにいつの間にか詳しくなっていることはよくあることだそうだ。繊細な紅茶の味に、火の妖精の粉を常飲していた男とは思えないな、と言うと、もうその話でからかうのは恥ずかしいからやめてくださいとアンセルは苦笑していた。

 ともあれ、紅茶を飲んだルベル氏の頬に少し赤みが差した。そうして落ち着いたところで、ルベル氏は改めて紅茶を淹れてくれたアンセルをじっと見つめた。

「君、もしかして2週間前に社長室にやってきた子かね」

「え……!? 覚えておられるのですか!?」

 アンセルは驚いた。あの時のルベル氏は廃人状態で、こちらの様子をわかっているとはまったく思えなかったからだ。

「私はあの時、身体が思うように動かせずにいたが、耳だけはよく聞こえていたんだ。君は、あのノエルとか言うパティシエの弟子かね」

「はい。……あっ、大事なお話なら僕、席を外しますね……」

「いやまて。君にもいっしょに聞いてほしい。君の師匠に関わる話だからだ」

 ルベル氏はアンセルを引き留めた。そして、声をひそめてカミーユとアンセルに語りだした。

「今、警察はパティシエのノエルと違法菓子製造者のサンジュの行方を追っているそうだが、私は、二人が姿を消したあの時、ずっと社長室にいたんだ」

「あっ、そういえば……!」

 あの時、廃人状態だったルベル氏にカミーユもアンセルもまったく期待していなかったのだが、こうして回復して、当時の話が聞けるのなら話は変わってくる。

「それで、サンジュは、師匠を攫ってどこに逃げて行ったんです!?」

 アンセルが身を乗り出して聞くと、ルベル氏は首を横に振った。

「ちがう……パティシエのほうが、サンジュを脅して攫って、窓から逃げたんだ……モレ元首を殺すのだと物騒なことを言っていた……」

「ユベール様を? なんで師匠が……」

 一介のパティシエが国家元首を殺そうなどと馬鹿げている、とアンセルは思った。カミーユが、ルベル氏に「きっとシロップのせいで幻聴を聞いたんだ」と一笑に付してくれるのを待った。

 しかし、カミーユは思いの外真剣な面持ちで考え込んでしまい……アンセルに、言った。

「……ルブラン君、君には知らせるなと言われていたが、ここまで来たら話したほうがいいだろう。実は――ノエル殿は、旧王家に近しい貴族だった方だ。君が持ってきた万年筆は、王家の人間が、特別親しいものにしか下賜しなかった、とてつもない希少品なのだよ。……ノエル殿は、生前、王妃に目をかけていただいたと言っていた。彼なら、革命政府を恨んでいても確かにおかしくはない……」

 アンセルは絶句した。

 師匠が、王家に近しい元貴族?

 自分が憧憬しているユベール・モレを殺そうとしている?

「だが、最近モレ元首に何か危険が及んだという報せはとんと聞かないな。それどころか、最近、旧王家支持者の摘発が過激さを増していると聞いている。革命の英雄がそう簡単にやられるとも思えない。むしろ危ないのはノエル殿の方かもしれないな……」

 カミーユの言葉に、アンセルはやおら立ち上がった。

「僕、首都に師匠を探しに行きます。師匠、ああ見えて、そそっかしくてだらしないところがあるので。僕が、迎えに行って差し上げないと」

 カミーユは耳を疑った。

「正気か……? ノエル殿がどこにいるか検討もつかないのに、しかも、元首暗殺を本気で考えているとしたら、君の身にも危害が及ぶかもしれのぞ」

「このままじゃ、あの人、何やらかすかわからないでしょう。僕が止めに行かなきゃ。

「ルブラン君。時期が来たら話そうと思っていたんだが、ノエル殿は、君は他の誰かに弟子入りしてもいいし、パティスリー・ボワの店を土地ごと売っても良いと言っていたんだよ。……彼は、もう帰るつもりは無いのかもしれない」

「いいえ、僕は師匠を迎えに行きます」

 アンセルは頑固だった。

 こうなると何を言っても無駄な青年であることを、カミーユはこの短期間の付き合いで薄々わかっていた。

「まったく仕方がないな……明日の朝、うちの商会が首都まで蒸気船を出すんだ。それに乗ればあっという間に着く」

「ありがとうございます、シモンさん!」

 イヤミな新興貴族だと思っていたカミーユ・シモンは案外親切な男だった。

 

 もう二度と戻れないと思っていた首都に、蒸気船で2時間でたどり着いてしまった。

 久しぶりの首都は、とても華やかで賑やかだった。

 行き交う人々はみな着飾り、せわしなく歩いている。ベコー港を上回る賑に、アンセルは少し目が眩んでしまって、近くのカフェーのテラス席に腰を下ろした。レモンと朝露のジュースを頼んで、行き交う人々を眺めた。……確かに、この中からノエル1人を探すのはちょっと無謀かもしれない、またもや無鉄砲な自分の行動を悔いていたアンセルだが、不意に視線を感じた。

「まあ、なんて美しい殿方かしら……」

 何人かの貴婦人が、熱い目でこちらを見つめている。アンセルは照れて、ちょっと手ぐしで前髪を整えたりしてみた。

「あなたご存知ありませんの!? あの方は、天才若手パティシエの……」

「アンセル!」

 いきなり後ろから声をかけられて、親しげに肩を叩かれて、アンセルは驚いて振り返った。

 声の主は、スラリと背の高い、雪のように白い肌にサラサラの金髪をした、童話に出てくる王子のような美青年だった。服も仕草も洗練されていて都会的な男性だ。

「えっと……どちら様でしょうか?」

「ちょっと、忘れちゃったの、僕だよ。ジャン・アドレー」

「え……ジャン、か?」

 あの、おどおどしていた製菓学校の親友、ジャンなのか。アンセルは目を見張った。随分背格好が良くなって、もう大人の男性と言ってよかった。そういえば声も変わった気がする。製菓学校卒業時にはジャンはまだ声変わりをしていなかったのだ。

「久しぶりだね、元気でよかった……!」

 ジャンはアンセルに握手を求め、そのまま背中に手を回して旧友にハグをした。

 アンセルは内向的だったジャンの変わりように驚いて、なすがままになっていたが、これにジャンを遠目に見ていた令嬢たちが激怒した。 

「ちょっと、何なのアナタ! ジャン様に馴れ馴れしいわよ!?」

「ジャ、ジャン様!?」

 おとなしい青年だったジャンが、都会の女性たちの憧れの的になっている。ジャン本人はこうした状況にはもう慣れてしまっているようだった。

「うーーーん、場所を変えようか。ついてきて、アンセル」

 ジャンはそう言うと、颯爽と歩き出す。アンセルは慌てて飲み物の代金をテラス席に置いて、ジャンについていった。

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