第三章 炭より苦くて蜜より甘い
第13話 亡き王妃のためのマドレーヌ
遡ること十年前――
春の麗らかな日差しが温かい、とある日の昼下がり。
「ああ、いい風。お日様もあたたかいわね」
そう言いながら、一人の少女が、森の中にある花畑で寝転んでいる。貴族の成人であれば結い上げていなければならないはずのプラチナブロンドの髪をおろして風のなびくままに任せ、コルセットも付けずに、ふんわりと柔らかな綿のワンピースをまとっている。顔にはまだあどけなさも残る、花のように可憐な女性である。
寝転ぶ彼女のそばで、直立不動で立つ軍服姿の男が、抑揚のない声で言った。
「王妃様、お召し物が汚れますよ」
しかし男の声などどこ吹く風といった様子で、王妃と呼ばれた少女はいたずらっぽく笑った。
「ノエル、あなたも寝転がってごらんなさい」 「いえ、私は……アァッ!?」
直立不動を崩さないつもりだったノエルの軍服の裾を、いきなり王妃が思いっきり引っ張った。ノエルはよろけて花畑に倒れ込んでしまう。地面が柔らかく、怪我をするようなことは無かったが、軍服には土がついた。軍帽が脱げ落ちて、隠れていたノエルの金髪がふわりとこぼれた。
「王妃! お戯れが過ぎますよ!」
「ふふ、ごめんなさい。でもほら、いい匂いがするわよ。土に木にお花に草に虫の匂い……命の匂いがする」
ノエルには王妃の気持ちが分かりかねた。
「はあ……王妃様は、塵一つ落ちていない素晴らしい宮殿にお住まいだというのに、どうしてこう度々外に出て土に汚れるのをありがたがるのか、私には理解できません」
「ええ、塵一つ落ちていないわね。ため息すら迂闊に漏らせなくて、息が詰まりそうよ……ねえ、んなならわかるわよね?」
王妃は、自分の指に妖精たちを止まらせて言った。あらゆる妖精たちが彼女の周りに集まっていて、王妃の言葉にうんうん頷く。王妃が、故郷の歌を歌い始めると、みんな彼女の歌に聞き惚れて
この少女は、遠く離れた外国から、このアントルメ王国に嫁いできたのだ。この国の王家の風習には、まだどうにも馴染めないらしい。王宮の中に心を許せる人はおらず、政略結婚した夫との結婚生活はうまくいかず、彼女は隙を見つけてはノエルを連れて王宮を抜け出して、お忍びで
「ところで、そろそろお茶にしたいわ。例のお菓子は用意した?」
「はい、ご所望の、私が作った焼き菓子です」
ノエルは、竹籠のバスケットに入れた自作のマドレーヌを差し出した。寮のかまどで真夜中にこっそりと焼いてきたものである。
「まあ、ありがとう!」
王妃は、バスケットからマドレーヌをひょいとつまんで齧ると、おいしい、と花が開くように微笑んだ。
「お菓子、私は自分で作ってみることもあるけれど……やっぱり、ノエルのお菓子はすごいわね。本当に材料は同じなの?」
「ええ、変わりないかと」
「ノエル、あなたパティシエの才能があるわよ。今からでも近衛兵なんかやめて私専属のパティシエにおなりなさいな」
「馬鹿なことを……両陛下をお守りする近衛兵の職こそ、私に課せられた職務です。近衛騎士が菓子作りなど上手くてもなんの足しにもなりません……ただの恥です……」
これは誰にも言わなかったことだが、かつてノエルはパティシエに憧れて、独学で魔法菓子の勉強をしていたことがある。しかし父親に殴られて、その手には剣以外のものを二度と握るなと叱責された。以来、心を殺して兵士として生きてきたのだ。近衛兵は給料は高くて生活には困らない。国が滅びでもしない限り、職に困ることもない。
「でもこの平和な国じゃ、あなたの剣を振るう機会など無いでしょう? 無用の剣を腰にぶら下げて立っているよりも、お菓子を作る仕事に就いたほうが喜ぶ人がたくさんいるのではないかしら?」
王妃のこの無邪気さは、美点でもあるが、多くの臣下の反感を買う理由でもあった。だが、ノエルは「無用の剣を腰にぶら下げている」という言葉には腹を立てはしなかった。実際、ノエルが実際に剣を抜いたことなどなかったし、そもそも心から近衛兵の仕事に誇りを持っているわけでもなかったからだ。
「それに、私が、あなたのお菓子をおいしい、って言うと、あなたとっても幸せそうな顔をしているのよ」
「……まさか。見間違いでしょう」
兵士として生きるため、かつての夢を捨てて心を殺して行きてきたはずだ。どうして今更、菓子を作って食べてもらって、それを歓ぶことなどがあろうか。……何故、この王妃は自分の心をこんなにも惑わすのだろう。完全な逆恨みでしかないことはノエルが一番良くわかっていたが、それでも王妃の無邪気な笑顔を少し恨めしく思った。
「王家にはもうすでに素晴らしい菓子職人たちが山程おられるでしょう。なぜ私の菓子などお求めになるのです」
「……正直に言うとね、彼等、何十年にもわたって、ずーっと代々この国の王家のためだけにお菓子を作り続けてきたものだから、センスが古臭いまま止まってしまっていて、豪勢だけど正直……あんまりおいしくないのよ。国王陛下だって本当はお好きではないのに我慢して召し上がっているのよ」
「なんと……」
「それに、あんなにたくさんのお菓子、私には多すぎるわ。食べ物に困っているという国民たちに、残らずわけてあげればいいのに、何故そうしないのかしら」
そう言いながら、王妃は遥か高く広がる大空を見上げながら言った。
「私はね、絢爛な舞踏会よりも、青い空を眺めながら草原に寝転ぶことが好き。お花も、豪華に飾り立てられた花瓶のお花より、野原に咲く生きているお花が好き。調度品も、金銀でかざられたものよりも、お花の絵が描いてあるもののほうが好き。お菓子も、パティシエが豪華に飾り立てたケーキより、素朴な焼き菓子のほうが好き。……こんなこと言うから、私嫌われちゃうのよね……それでも、私はね、このアントルメ王国の王妃として、精一杯やっていくつもりよ」
そしていきなりノエルにぐいと近づいた。
「あなたがパティシエにはならないというなら、それでも良いわ。わたしが本当にあなたに願うことを言いましょう」
そう言うと、王妃は、ノエルの手袋につつまれた手をそっととった。戯れ、というにはあまりに真剣な彼女の顔に、ノエルは思わず息を止める。王妃は、静かに目を閉じて言った。
「……あなたの生涯において、あなたが剣を抜くことがありませんように」
……王妃の祈りの言葉のあとに、しばし二人の間に静寂が訪れた。
「……王妃様、騎士にかける言葉としてそれはあんまりなのでは……主君のために命をかけることこそ、私の本分でありますのに」
「気を悪くしたならごめんなさいね。でもこれが私の本心なのよ? 私たちが命を狙われることなんて有り得ない、立派な為政者でありますように、この国が、あなたが剣を抜くことなく生涯を終えられる平和な国でありますように、と思うのよ」
目の前の彼女は、髪を風のふくままに任せ、飾り気のないワンピースに身を包んだあどけない少女ながら、立派な為政者の顔をしていた。
「……王妃が国の平和を望むのなら、どうぞこの私の剣を、お役立てください」
だからノエルも、王妃の近衛兵として、誠意を尽くして、彼女の手の甲に口づけた。それは忠誠の証である。のだが、睦まじい男女の様子を見て、何かと邪推をする者のほうが多いのが世間であった。
不意に、妖精たちが蜘蛛の子を散らすように一斉に逃げ出した。
「あら、あらら……? みんな、どうしたの?」
「王妃、私の後ろに隠れてください……!」
妖精たちは危機察知能力が高い。ノエルは、王妃に危険が迫っているものと警戒した。
だが、現れたのは、王家の忠犬……
「ケケ、ケケケ。王妃様、ノエル様、お熱い逢瀬のご最中、誠に不躾ではございますが、そろそろ王宮に戻る刻限でございます」
いやらしい声に、ノエルは嫌悪感を持って、男――
「サンジュ、御苦労様です。でも妙な邪推はしないでちょうだい。ノエル・イヴェール卿はただの私の付添ですから」
王妃は毅然とした態度で言った。
「ほほう、手を握ってあんなに熱心に見つめ合っていらしたのに、でございますか? ケケケケケ……」
「サンジュ!」ノエルが声を荒げると、サンジュは大袈裟なほど恐縮した。
「ヒエエご勘弁を……アタシはただの、生まれの卑しい使用人でごぜえますから、どうかお許しを。ノエル様も、アタシのことはどうぞ動物だと思って粗雑に扱ってくださいませ。しかし、国王陛下の飼い猿なりに、王への忠誠は厚く、カンは冴えておりますのでねぇ、何を報告するかわかりませんよ、ケケケケケ……」
サンジュは、このように自分を卑下しながらも他人をおどして、賄賂を巻き上げるのが常套手段であった。しかし、ノエルはサンジュに賄賂を渡すことはしていなかった。自分にはやましいことなど無いからだ。
「なんとでも言うがいい。私は私の行動にのみよって、国王陛下への忠義を証明する。……だが、王妃様を侮辱することは許さんぞ」
「……ケッ」
サンジュは舌打ちすると、のろのろと背を向けて、もと来た道を戻り始めた。
王妃は、ノエルをたしなめた。
「そう邪険にしないであげて、ノエル。……どんな人にだって、いいところは一つくらいあるものよ。たぶん……」
ノエルにとって、王妃は、男女の違いや、歳の差などの垣根も越えた尊い存在で、この方が老婆になって永遠の眠りにつくその日まで、もしくは自分の命が尽き果てるまで、おそばでお守りしようと決めていた。
彼女の夫である国王も、奥ゆかしすぎるきらいはあるが、優しく穏やかで賢くて、ノエルにとって命をかけても惜しくはない人格者だった。
……だが、王家から遠ざけられた一部の貴族や、貧しい民衆たちはそうは思っていなかったらしい。
確かに、古き王家の伝統に馴染めずに、草原に寝転んだり川で魚釣りに興じてばかりで、貴族らしい絢爛豪華な社交の場に参加するのが苦手マリーと、それを咎めない国王陛下は、格好の批難の的だったのだ。
それに、先々代からの派手な金遣いや遠征にかかった経費が財政を圧迫していて、国政を立て直すために重い税金がかかり、人々の生活を苦しめていたのも良くなかったし、更に、王妃の提案で、既得権益で税が免除されていた聖職者や王家の親戚たちからも税金を取ろうとしたことが反発をくらい、国王夫妻は国の中で敵を多く作りすぎてしまったのである。
ともかくも、王家に不満を持った人々は身分を超えて結託し、平民のユベール・モレを筆頭に革命軍を結成して、王宮に総攻撃を仕掛けたのであった。
ノエルと王妃のこの語らいがあった数年後に、革命軍が王宮に攻め込んできた。
ノエルは、国王夫妻を守るために必死で戦った。王妃のかつての祈りは虚しく、ノエルは剣を抜き、国王一家を狙う多くの革命軍を殺した。返り血で、もとの軍服の色がわからなくなるほど謀反人たちを斬りまくった。
その冷酷さから、彼は革命軍から「
王家の隠れ家が露見して革命軍に取り囲まれ、逃亡も叶わなくなった時、ノエルは、最期まで戦って死ぬことを懇願した。
「死なせてください、近衛兵らしく、立派な最期を遂げさせてください」
しかし、王妃は首を振った。
「ノエル、あなたやっぱりパティシエにおなりなさい」
「は!? この期に及んで、まだそんなことを……!!」
それまで沈黙していた国王が口を開いた。
「……イヴェール卿、私からも頼む」
「陛下……!?」
やつれた国王は静かに語りかけた。
「イヴェール卿よ、近衛兵らしく立派に死ねば、貴殿は満足かもしれない。だが、よく考えてご覧。暴力と血にまみれて成し遂げられた革命政府が、この後本当にうまくいくと思うのかい? 我ら王家が滅亡したあと、きっと世の中は混乱する……その時、君の力が必ず必要になる」
「……この剣をもって、革命軍の首謀者のモレを殺せとおっしゃるのですか?」
「お馬鹿さんね、パティシエとして人々の慰めになるお菓子を作りなさいと言ってるのよ」
王妃の目には、涙が光っていた。
「君がここで死んで歓ぶものは革命軍だけだ。だが、君が生き延びて、我ら王家ではなく人々の為のパティシエになってくれたなら……笑顔になれる国民が、きっとたくさんできる。我々はそれを望んでいる」
「そんな、王家が滅びれば、魔法菓子や職人だって共に滅んでしまうはずです」
「いいや、イヴェール卿。人を幸せにするものは、滅びることはない。永遠に。ここで王家が滅びるのは、ひとえに私の力不足だ。私は、我が国民を幸せにすることができなかった」
「何をおっしゃるのです!」
ノエルは国王の言葉を否定したかった。だが、国王は力なく首を振るだけだ。
「それに……殺すことで英雄となったあのモレとは違い、君は菓子を作って人々を笑顔にすることで、国をすくってほしい。頼む、君が武芸一辺倒だけの男なら、ここまで頼みはしないのだ」
「ノエル、お願い。私……あなたの焼くマドレーヌが大好きだったわ。今度は国民のみんなのために、焼いてあげて」
それが、ノエルと国王夫妻の最後の会話になった。
かくして、国王夫妻は自ら隠れ家の戸を開けて、革命軍に連行された。
こんなことはありえない。主人に庇われて逃げおおせる臣下など、聞いたことがない。
ノエルは思ったが、二人の想いを無下にすることもできず、とにかく走った。
後日、広場の断頭台で国王夫妻の処刑が執行された。
首を切る邪魔になるため、髪を切られてボロを着せられた国王夫妻は、誇り高く毅然とした姿を崩すことはなかった。
民衆たちが、殺せ殺せと狂気的に叫ぶ中、国王と王妃は曇りなき眼で民衆たちを見下ろして、取り乱すことなく、処刑台で首を斬られて死んだ。
(国王陛下、王妃様……何故、死にたくない、助けてくれと泣き喚いてくださらなかった……)
王の死に狂喜乱舞する民衆たちを見て、ノエルは、これが陛下たちが幸せを願った民たちかと、絶望的な思いがした。みんな、ただの血に飢えた
国王と王妃がいなくなった世界は、ノエルには色を失って見えた。
後を追って死のうとしても、なかなか死ねなかった。王妃を慕っていた妖精がことごとく邪魔をしてきたからだ。
死ぬのは存外むずかしく。
生きていれば、腹は空く。
……ノエルは、気がつけば、住処にしていた小屋のかまどで焼き菓子を焼いていた。
味は、かつて王妃に食べさせた時のものとまったく一緒で。食べれば、あの時の美しい思い出がノエルの胸中に湧き上がってくる。
マドレーヌを一人で食べたノエルは、膝から崩れ落ちて、声もあげずにひとりで泣いた。彼を慰める人は誰もいなかった。
王妃が好きだった菓子を作っている間だけ、生きるのを赦された気がして、ノエルは菓子を作るのが日課になり、食べきれないので家の前で並べてみたら、買ってくれる人がいた。
だが、首都ではいつ顔見知りにあうかもわからない。ノエルは、妖精たちの力を借りて魔法菓子を作る勉強をしながら、首都から離れた田舎町へと遠のき、遠のき……最後に片田舎の森の中にたどりついたのだった。
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