第3話 片田舎の静養所にて

 アンセルが到着した静養所には、世話役の老夫婦が住んでいて、食事や掃除洗濯などの世話をしてくれるらしかった。さすがに申し訳ないとアンセルは思ったが、気にしないで休んで元気になれと老夫婦は言った。

 静養所と病院への支払いは、すべて養父のルブラン氏が受け持ってくれているらしい。アンセル自身も、ホテル・フルールからまとまった金額をもらっていて、暫く金には困らない。

 破格の待遇、と言ってもいいだろう。恵まれていることはアンセルにもわかっていた。それでも、アンセルの心は晴れなかった。

 老夫婦は親切な人達で、働き者だった。静養所はいつも清潔で塵一つ落ちておらず、出てくる食事も胃に優しくおいしいメニューばかりだった。滋味あふれる料理に、アンセルはようやく、火の妖精の粉ばかり飲んでろくにまともな食事をとっていなかったことに気がついた。

 静養所に入って数日後。昼さがり、身体のために行っていた散歩から戻り、部屋に戻ろうとするアンセルを、おばあさんが呼び止めた。

「アンセル君、甘いものはお好きかしら?」

 アンセルはドキリとしたが、おばあさんは気が付かなかったらしい。彼女はニコニコして、戸棚の奥から、フィナンシェやクッキーが入ったかごを取り出した。華美な装飾のない、家庭のオーブンですぐ作れそうな素朴なものばかりだが、とてもおいしそうだ。

「……いただいて、よろしいのですか?」

「ええ、もちろんどうぞ。とっても美味しいのよ」

 おじいさんが温かい紅茶を用意してくれて、アンセルは手を合わせておやつを食べることにした。

 自らの魔力を練り上げて、薬にもなる魔法菓子をつくることは、生まれつき魔力があり、修行をつんだ職人でなければできない。だが、店で材料を買って、作り方を覚えれば、魔力の入っていない普通のお菓子なら一般家庭でもつくることができる。アンセルは修行のため、しばらく魔法菓子しか口にしていなかったが、今はこうした家庭の素朴な優しい気遣いのこもったお菓子が嬉しい。一瞬でも「甘いもの」という言葉に怯えた自分が恥ずかしかった。焼き菓子からはバターのいい香りがしている。おばあさんが焼いてくれたのだろう、ありがたい。

「いただきます」

 アンセルは、フィナンシェを一口頬張って、口の中でゆっくりと噛んだ瞬間――ぶわり、と広がる味と香りに、衝撃を受けた。

 良質なバターの香りに、ほどけるような食感の生地、それだけでなく、妖精の朝露、小人のアーモンドなど希少な材料が混ざっているのがアンセルにはわかった。とんでもなくおいしい。それに飲み込んだ後、身体がぽかぽかと暖かくなる感触……間違いない。これは、魔法菓子職人パティシエがつくった魔法菓子だ。しかも、かなりの腕前の。

「おばあさん、このお菓子、どこで……!?」

「ああ、お菓子屋さんが届けてくれたのよ。月に2回は配達に来てくれるの。助かるわあ」

 おばあさんの、のんびりとした言葉にアンセルの気は急いた。

「そのお菓子屋さんは、なんという方なんです!? お店は、どこにありますか!?」

「店主さんの名前はノエルさんよ。金髪碧眼の、なかなか素敵な人なのよ〜お菓子屋さんの名前は、確か……パティスリー・ボワ。お店は隣町にあるから、少し遠くてねぇ……」

「パティスリー・ボワ、ですね! 僕、そこに行ってみます!」

 威勢よく言うアンセルに、おばあさんは面食らった。

「ええぇ……? あなた、静養中なのにいきなり隣町までお出かけだなんて大丈夫なの?」

 おばあさんが言葉を紡いでいる間に、アンセルは自室に駆け戻り、路銀と着替えを持って広間に駆け戻ってきた。

「はい! もう居ても立ってもいられないんです! さっそく行ってきます!」

「えっ、今から行くの!? 隣町はここから馬車で1時間はかかるのよ〜」

「大丈夫です! 向こうで宿を取りますので、今日は夕飯はけっこうです! では!! ごちそうさまでした!!」

「あらあら……じゃあ、これも持ってお行きなさい」

 おばあさんは焼き菓子をいくつか包んで持たせてくれた。

 アンセルはおばあさんに礼を言いつつ、もう待ちきれない思いで静養所を飛び出して、馬車の停留所に向かった。2時間に一本の乗合馬車が、ちょうど出発するところだった。

 アンセルは馬車に乗り込んで、持たされた焼き菓子をまた食べてみる。やはり、一流のパティシエが作っている。飾り付けのない焼菓子は、誤魔化しが効かない分、パティシエの技量と魔力が顕著にあらわれる。この味なら、都の一等地に店を構えていたっておかしくない。一体どんな職人が作っているのか――アンセルは気になって仕方がなかった。

 

 隣町につく頃には辺りは薄暗くなっていた。このあたりは、田舎町ながら、静養所の周辺より活気があり、小さな家や店が立ち並んでいて、あたたかい光が家々から溢れている。

「よぉ、見ない顔だな兄ちゃん! 夕飯にうちのグラタンはどうだい?」

 気さくそうな男に店先で声をかけられて、アンセルは返事をしつつ尋ねた。

「ありがとうございます、実は今お店を探していまして……パティスリー・ボワという菓子店はどこでしょう?」

「あん? こんな時間に菓子屋か? 兄ちゃん、ちゃんとした飯くわねえと倒れちまうぞ? 随分身体もほせぇし……」

「あ、いえ、おみやげに買っていくだけなので……」

 田舎町の人々の、長所でもあり短所でもあるのだが、初対面の人間との距離の詰め方が早すぎるのに、アンセルは少し閉口してしまった。アンセル自身も、初めて菓子を食べた職人にいきなり会いに行こうとするあたり、人のことは言えないのだが、当の本人は気がついていない。

「ボワなら、この道を曲がって小さな小路を抜けた先の森の中にあるよ。ただ店主が気まぐれだから、まだ開いているかはわかんねえなぁ。森の中だから夜は暗いぞ。危ないから明日にしたらどうかね」

 男性は親切に、手書きの地図を書きながら説明してくれた。

 夜、といったってまだ夕食前の時間だし、自分の荷物には小さなランタンも入っている。アンセルはすぐにパティスリー・ボワに向かうことにした。長い都会暮らしで、森の暗さをナメていたのだ。

「ありがとうございます!」

「あ、おい! だから明日にしなって……」

 男性の忠告はアンセルの耳に入らなかった。

 教えられた道をたどると、確かに小道の先に木々が鬱蒼と茂る森があった。アンセルはランタンに光の精の粉を入れて、周囲を照らして歩く。

 ホウ……ホウ……と、ふくろうの声が不気味に響く。不意にガサガサと落ち葉を鳴らして何かが通り過ぎる音に、心臓が止まりそうになる。

 日はどんどん傾いて、動物たちの目が爛々と光って、こちらを見つめている。

「まさか……人を食う魔獣なんて、住んでいないよな……」

 パティスリーがある森なのだから、たいした危険はなかろうと高をくくっていた。そんなに大きな森でも無いだろうとも。だが、いくら歩いても店らしき建物に辿り着かない。道を間違えたのだろうか。

 アンセルが不安になったその時。突然、ランタンの光が消えた。

「えっ、ウソだろこんな時に……!?」

 アンセルが替えの粉を補充しようとポケットを漁っていると。

「グルルル……」

 獣の唸り声らしきものが前方から聞こえてきて、アンセルの顔から血の気が引いた。ガタガタと身体の震えが止まらない。唸り声が聞こえた方向に向けてゆっくり顔を向けると……暗闇の中、ぎょろりと光る獣の目玉が6つあった。

「ガアアアア!」

「うわあああ!!ま、魔獣!!」

 アンセルは腰が抜けてしまった。逃げようとするが立ち上がれない。目が6つある魔獣は、地面を蹴り、こちらに飛びかかってきた。もう駄目だ――アンセルは悲鳴を上げることもできずに手で頭をかばってうずくまった……だが、魔獣が噛みついてこない。

 恐る恐るアンセルが様子をうかがうと、魔獣が目の前で倒れていた。息もしていないらしい。魔物の目に刺さったナイフが、月明かりに照らされてきらりと光った。

「おい、どうした……!」

 前方にランタンの灯りが見える。そして男の声が聞こえた。人間の、声だ。

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