第2話 魔法をなくした青年
ホテル・フルールに勤め始めてもうすぐ1年が経とうとしていた、12月のこと。
自分ではほとんど覚えていないのだが、アンセルはホテルの厨房でいきなり倒れたらしい。しかも完成間近の、聖夜祭用のクロカンブッシュの中に頭を突っ込んで……。
気がつけば病院のベッドで眠っていて、医師からは働き過ぎだと告げられた。
見舞いに来てくれたジャンは涙目で、どうしてこんなになるまで無理をしたんだと、彼にしては珍しく怒っていた。
アンセルとしては、無理をしていたつもりはなかった。ただ、シェフパティシエの命令通り朝から晩まで気を緩めず、先輩たちからすべてを盗むつもりで全力で仕事に取り組み、ついでに先輩たちから押し付けられる雑用もすべて修行のうちだと思ってこなし、帰ってからは寝る間も遊ぶ間も惜しんで製菓の勉強に励んでいただけだったのだが。
眠るのが惜しくて、火の妖精の粉を飲みながら勉強した。1ヶ月後には新人パティシエたちの飴細工コンクールがあり、アンセルは徹夜で菓子作りの練習をし、新しいデセールの構想を練り続けた。医師いわく、それがいけなかったのだと言う。火の妖精の粉に頼りすぎて、自分の限界を自覚できないまま、倒れてしまったのだと。
職場に迷惑をかけて申し訳なかった、今すぐ戻りますとアンセルが言うと、医師は首を横に振った。
「アンセル・ルブランさん。ひとまずあなたは1ヶ月間この病院で安静に過ごしてください。その後はしばらく田舎で静養することです。」
「田舎で静養ですって……?」
「ホテル・フルールからはあなたの荷物がすべてこちらに届けられました。支配人からも、一度ゆっくり休めと伝言を預かっております。あなたの働きを先方は評価していて……」
「ま、待ってください。つまり、僕は……首になったということですか!?」
アンセルの言葉に、医師は言葉を慎重に選びながら告げた。
「……フルールの支配人は、元気になったらいつでも戻ってきて良い。しかし、もっといい働き口が見つけられたなら、ホテルのことは気にせずに、別のところに就職しても構わないとおっしゃっていましたよ」
やはり解雇ではないか。アンセルの顔から血の気が引いた。蒼白な顔でアンセルは叫んだ。
「イヤだ! 僕はまだ働けます! 働かせてください! それに1ヶ月後にはコンクールが!」
アンセルの必死の訴えに、医師はため息を付いた。
「思っていた以上に重症だな……エリス、患者を拘束しなさい!」
医師に言われ、エリスと呼ばれた壮年の看護師は、あっという間にアンセルの腕を捻り上げて地面に押さえつけた。
「こんな乱暴が許されていいのか! 離してください!!」
「……話になりませんわね。先生、ルブランさんに1回だけ魔法の使用許可を出していただけませんか」
「いや、しかし……」
「身を持って、ご自分の状態を知っていただくべきかと思いますが」
「……わかった、ではこの部屋で一度だけ許可しよう」
仮面のような無表情の看護師と、渋い顔の医師。彼らが何の話をしているのかアンセルにはわかりかねたが、すぐに思い知ることになる。
エリスはアンセルの拘束を緩めて言った。
「ルブランさん。そんなに魔法菓子職人の現場に戻りたいなら、ここでお菓子を1つ作ってみていただけませんか。ここに、お薬に混ぜる用の蜂蜜と砂糖があります。後はあなたの魔法でお菓子を作り上げてみてください」
アンセルはバッと顔を上げて力強く頷いた。
「ここで立派な魔法菓子を作れたら、退院しても構いませんよね!?」
「……ええ、もしもできるのなら、構いません
わ」
エリスの言葉に、拘束を完全に解かれたアンセルはやる気がみなぎった。砂糖と蜂蜜があるのなら、あとは自分の魔法で練り上げて、キャンディくらいなら簡単に作れる。宝石のような蜂蜜キャンディをつくりあげて、さっさとこんな病院から退院するんだ。アンセルは目を閉じて、魔力を練り上げることに集中する……はずだった。
力が、まったくみなぎってこないのだ。
それどころか、アンセルはふらりと立ち眩みを起こして、その場にへたり込んでしまったのだ。
「あ、あれ……???」
「どうです、全く力が出ないでしょう」
エリスの言葉を補足するように、医師は言った。
「これが今のあなたの身体なんです。キャンディ1つ作るだけの魔力を出すこともできない。今のあなたでは、パティシエの仕事をすることなど無理なのですよ」
「そんな……」
アンセルは絶望に打ちのめされて、立ち上がることができなかった。
「ルブランさん、あなたはまだ若い。これからきちんと治療をして元気になれば、いくらでもやり直せる。我々も力を尽くします。ですからまずは身体を休めて……」
医師の理性的な言葉などアンセルの耳には届かなかった。ずっと一流のパティシエになるためにここまでがんばってきたのに。そんな自分が、菓子を作れない? それならば……それならば、自分は何のために生きてきたのだ?
その後、アンセルはエリスの厳しい監視のもと入院した。アンセルが夜中に密かに製菓の本を読もうとしたり、隙を見て病室から逃げ出そうとするのを、エリスは目ざとく見つけて阻止した。彼女は優秀な看護師だった。
アンセルは初めのうち、きっとみんな自分がいなくなってホテルは困りきっているだろうと思っていた。ホテル側からきっと自分に「早く戻ってきてくれ」と泣きついてくる光景を、密かに脳裏に描いていた。
しかし、何日経っても、ホテル側がアンセルを呼び戻そうとする気配はなかった。
退院の前日。医師の許可を得て購入してきてもらった新聞で、ジャンが新人パティシエの飴細工コンクールで優勝したことを知り、アンセルは自分の居場所が完全に消えてしまったことをようやく悟ったのだった。
――退院した後の行き先は、温暖な気候の田舎町の静養所だった。首都はこれから雪が降り積もる気候になるが、行き先の町は雪はふらず、昼間は上着1枚着れば歩ける。病院からすぐ馬車に乗って出発することになった。
荷物はそう多くなかった。着替えとホテルからもらった退職金と、馬車の中で食べるパンと水。あとは、製菓大辞典。キャンディすら作れなくなった自分には不要だと、暖炉にくべてしまおうかと思ったこともあったが、どうしても捨てることができなかった。初めてルブランがプレゼントしてくれた本でもあったからだ。
――ルブラン氏は、退院の日にはじめてアンセルに会いに来た。病院から出てきたアンセルを見て、ルブラン氏は、驚いたような、悲しいような……なんともいえぬ表情をしていた。きっと、菓子が作れなくなった自分に絶望したのだろう、とアンセルは思って、何も言うことができなかった。ルブラン氏はただひとこと、「身体に気をつけるんだよ」とだけアンセルに告げた。
帰ってこいと、言われなかった。
アンセルは、馬車の中でうずくまるように座って、ひっそりと、声を抑えてひとりで泣いた。
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