炭より苦くて蜜より甘い〜ワーカホリックの魔法菓子職人見習いは都会に疲れて、静養先の田舎町で脳筋三十路パティシエに出会う

藤ともみ

第一章 パティスリー・ボワ

第1話 パティシエ見習いアンセル

 この国には「パティシエ」という職業がある。

 彼らは、製菓の理論と実践を学び、生まれ持った己の魔力を、卓越した技術で生地やクリームとともに練り上げ、甘美で繊細な、美しい菓子を作り上げる職人である。すぐれた魔力を練り込んだ菓子には、食べた人を癒し、ちょっとした薬と同等の効果を発揮する力がある。

 かつては王侯貴族たちでなければ、パティシエたちの芸術品である菓子を口にすることは愚か、目にすることすらできなかった。平民たちは悪逆非道の国王と王妃の悪政のもと、明日のパンにも困る暮らしを強いられていたからだ。王妃の「パンがなければお菓子を食べればいいのにね」という言葉は平民たちの怒りを大いに買った。

 しかし、数年前に革命が起きて王族一同が断頭台のつゆと消え、英雄ユベール・モレを代表とする革命政府ができてから、王宮での職を失ったパティシエたちが街に出て菓子店を開くようになった。見合った金さえ払えば庶民でも菓子を口にすることができるようになったのである。

 パティシエたちも、変革を強いられた。それまでは王族たちさえ満足させていれば一生安泰であったのが、街の菓子店としてライバル同士で生き残りをかけて争うようになり、結果、パティシエたちは切磋琢磨しながらますます製菓の腕をあげていくこととなった。

 また、かつては、職人になるには菓子作りの腕だけでは足りず、家柄の良さも求められた。

 王宮に出仕できるのは、身元が確かな人間だけであったので最低でも男爵家以上の出身であることが必要だったし、そもそも庶民には魔力を持って生まれてくる者などいるわけがないと皆が思い込んでいたからだ。

 だが、革命以後、あらゆる学校・職業が等しく人民に開かれてからは、そうした身分の垣根もなくなった。平民の家の出であっても、菓子作りの魔力の才能に満ち溢れた者であれば、製菓学校で学び、パティシエになる夢が開けるようになったのである。


「――我々は、製菓を学ぶ機会を開いてくださった、ユベール・モレ元首に心から感謝いたします。我々卒業生一同は、これからますます切磋琢磨し、人々の幸せのために製菓の魔法を使うことを誓います」

 卒業生代表、つまり首席の生徒、アンセルは挨拶をこう締めくくり、頭を下げた。来賓や生徒たちから惜しみない拍手が送られる。

 アンセル・ルブラン。彼は一見、鳶色の髪に鳶色の瞳の、ごくごく平凡で小柄な青年だが、稀に見る才能と本人の努力によって、製菓学校の首席にまで登りつめた人物だ。革命が起きていなければ、お菓子のことなど知りもせずに野垂れ死んでいたに違いない。それが本人の才覚次第で道が拓けるようになったのだから、アンセルは革命の英雄ユベールに心から心酔していた。

 都で一番の製菓学校の卒業式ということで、来賓席にはユベールが来ていた。美しい黒髪を一つにまとめて肩に垂らし、黒い軍服に精悍な浅黒い身体を包んだユベールは、左眼をこれまた黒い眼帯で覆っている。そのぶん、美しい緑色の瞳が印象的であった。ユベールに夢中な都会のご婦人たちは、ユベールの瞳を色々な宝石に例えていたが、アンセルは、恐れ多くも、故郷で見た海の色に似ていると思った。

 ユベールが、隣に座っていた学長に何事か耳打ちをする。学長はユベールの言葉にただただ首を縦に振った。

 卒業生代表の挨拶が終われば、あとは学長の話で締めくくるだけで(学位授与はすでに終わっている)、ほとんど式は終わったようなもので、少なくともアンセルの一世一代の晴れ舞台は無事に終わったのである。アンセルがほっと息をついていると、後ろからヒソヒソと陰口が聞こえてきた。

「ちっ、どうしてあんなのが代表になんて……せめて、鳶色の髪じゃなくて金髪だったら挨拶も見栄えがするだろうに」

「名字もない平民のこどもが……」

「ルブラン学長の養子になったからって調子乗ってるよねー」

 貴族出身の同級生の声を、アンセルは鋼の心で無視を決め込んだ。学校を卒業すれば、無意味な同級生たちからの嫌がらせや足の引っ張り合いからも解放される。本当にお菓子作りに専念することができる。

「アンセル……その、気にしないほうが、いいよ」

 いきなり隣に座っていたジャンがぼそぼそと声をかけてきたのでアンセルは驚いた。が、すぐに笑顔になって言う。

「なんのこと? 僕、何も気にすることなんて無いよ」

「そ、そうか……ご、ごめんね、変なこと言った」

「ううん、ありがとう」

 ジャンは、内気な青年で、アンセルの友人だった。ぼーっとしているように見えて、飲み込みは早く、ジャンの作る飴細工はそれは見事なものだった。内気で奥ゆかしく、本当は賢いこの親友が、アンセルは好きだった。

 ジャンとは、卒業後の進路が一緒で、一流ホテルのパティシエ見習いとして、同じ職場でともに修行することになっていた。だから、アンセルは無事に学校を卒業できることに大きな喜びを感じていた。


「アンセル、モレ元首がお呼びですよ」

 卒業生が終わったあと、ルブラン学長……アンセルにとっては養父にもあたる……に呼び止められて、アンセルは足を止めた。

「元首様が? どうしてでしょう……?」

「君の挨拶に大変感動したそうで、ぜひ直接会って話がしてみたいとのことですよ」

 アンセルは驚きつつ、足早に応接間に向かった。

 部屋に入ると、本当にあのユベール・モレがいる。ユベールはアンセルを見るやいなや立ち上がったので、アンセルは慌てた。

「そんな、どうぞそのままおかけください」

 恐縮するアンセルに対して、ユベールはにこりと笑った。精悍なイメージにそぐわない……その分見たものを魅了する、人懐こい笑顔だった。

「アンセル・ルブラン君と言ったね。素晴らしい卒業生挨拶で感服してしまったよ。私の革命の意義を、しっかりと理解してくれている若者に出会えて嬉しい。君の作品も学長に見せてもらったが、非常に素晴らしい。私には魔法菓子の詳しいことはよくわからないが……どうか、これから腕を振るって、皆においしい魔法菓子を作って国を豊かにしてもらいたい」

 そう言ってユベールは手袋を外すと、アンセルに右手を差し出した。アンセルは感激で震える手で、ユベールの手を握る。戦いに身を投じてきた英雄らしくたくましいユベールの手に、菓子作りの修行で荒れたアンセルの手が包みこまれる。こんなことならきちんと手のケアもしておくんだったとアンセルは少し後悔していた。

「もったいないお言葉です……いつか、元首様に僕のデセールを召し上がっていただけるよう、精進して参ります!」

 頬を紅潮させて言うアンセルに、「楽しみにしているよ」とユベールは朗らかに笑った。

「卒業後はどうするんだい?」

「はい、ホテル・フルールで修行することになっております」

「なるほど、あの三ツ星ホテルなら素晴らしい研鑽が積めそうだね……私が君のデセールを口にするのも、そう遠い未来ではないかもしれないな」

 ユベールはまたにこりと笑った。

「では、また会う日まで。アンセル・ルブラン君」

 アンセルは夢見心地で英雄を見送った。


――それから1年後。

 アンセルは、都から遠く離れた田舎町へと向かう馬車に揺られていた。

 あの時は、卒業式の時のキラキラとした気持ちのまま、大人になれると信じていた。希望に満ち溢れた自分のまま、技術をどんどん磨いて、高級ホテルで宝石のようなデセール作りに励んでいるものと疑っていなかったのに、今はこの有り様である。

 ユベール・モレ元首に最高のデセールを献上するという夢も果たせないまま、自分は、空がやたら広くて青い、辺境の田舎町にやってきてしまったのだった。

 馬車の扉を開けて地面に降り立つと、土と家畜の糞の臭いがただよってきた。カラスが間の抜けた声で鳴いている。都の綺麗な石畳の道とは違う、土臭い地面。華やかなドレスをまとった貴婦人たちの姿はなく、行き交うのは土にまみれた老若男女に牛や羊……。なるほど、これならのんびり休めそうだと、アンセルは自らを皮肉って嗤った。


 

 

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