07-1.代筆者の恋は叶わない
* * *
メルヴィンの婚約者、アデラインの姿を目にした時、心臓が止まりそうになった。敬愛する主人に連れて来られたアデラインは戸惑いを抱きながらも、貴族の淑女として堂々としていた。
その姿に涙を流しそうになった。
同時に抱いていた恋心が告げる機会を得ることもなく、儚く散っていったのを実感した。
「お嬢様の元に案内してください」
荷物を手放そうとしないエリーの何度も聞いた言葉を耳にして、露骨なまでに嫌そうな顔をしてしまう。
「お嬢様ねぇ」
大公家のメイド、ドロシーはエリーを軟禁していた。
それはドロシーの独断ではなく、メイド長の指示によるものだった。エインズワース侯爵家のメイドであるエリーしか知らないアデラインの男装方法をドロシーに快く伝授させる為ならば、どのような方法でも構わないと言われていた。
それなのにもかかわらず、拷問のような真似を行わなかったのは、ドロシーがアデラインに対して特別な思いを抱いていたからである。
アデラインが悲しむような真似はしたくはなかったのだ。
しかし、軟禁されているのにもかかわらず、態度を変えようとしないエリーには苛立ちを隠せそうもなかった。
「あの方は大公子様と結婚なさるのよ」
ドロシーの言葉にエリーは動揺しない。
アデラインが婚約を結んでいるのは周知の事実だった。
「つまり、貴女のお嬢様ではなくなるの」
「理解ができません。お嬢様が到着されたのならば、速やかに案内するのがそちらの仕事ではないのですか?」
「案内なんてするわけがないじゃない。貴女はアデライン様を置いて、侯爵家に帰るのよ。我儘なお嬢様の面倒を見切れないって、泣きながらね」
ドロシーの言葉を聞き、エリーは鼻で笑った。
その態度が気に入らなかったのだろう。
「生意気な!」
ドロシーはエリーの頬を叩いた。
我慢ができなかった。
同じような境遇にあるはずのエリーのことが、どうしようもなく羨ましくてしかたがなかった。
「痛い目には遭いたくないでしょう?」
ドロシーはエリーの頬を指で掴む。
力を込めて掴まれている頬は痛くてしかたがないだろう。それなのに、エリーはなにも弱音を吐くことはしなかった。
「その道具と使い方をアタシに教えなさい」
ドロシーは何度目になるかわからない言葉を口にした。
ドロシーは知らなかった。
頬を抓る程度の暴力は拷問とは呼ばないことも、その程度で屈するような弱い心を持っていないということも、エリーのアデラインに対する忠誠心の高さも、なにもかも知らなかった。
「アデライン様はアタシが世話をするのよ。これから、ずっと。それはあなたの役目じゃないわ」
ドロシーは本気だった。
だからこそ、その姿は痛々しいものだった。
エリーはドロシーに対し、冷めきった視線を向けていた。
それは、あまりにも痛々しい恋心に振り回されるドロシーに対し、同情をしてしまうものの、大公家のメイドを名乗るのにはお粗末すぎる態度に呆れてしまっていた。
「ドロシー」
エリーを軟禁している部屋の扉が開けられ、名を呼ばれた。
ドロシーは慌てながらエリーの頬から手を離し、緊張を隠せない面持ちで振り返った。そこにいるのは厳しい顔をしたメイド長だった。
「坊ちゃまがエリーさんを呼んでおります」
「そんな!」
「手荒な真似はしていませんね。ベラ、エリーさんを案内しなさい」
メイド長の声掛けを待っていたかのように、ドロシーと同年代のメイド、ベラが部屋に入る。
それから、何事もなかったかのようにエリーの前に立った。
ここで待たせていただけのような顔をしていた。
「エリーさん。お待たせいたしました。アデライン様の元にご案内いたします」
ベラはドロシーの姿が目に入っていないかのようだった。
「……この対応は、お嬢様は知っていますか?」
エリーは場の雰囲気に飲みこまれないようにする。
異質な雰囲気だった。
まるでドロシーの単独で行われていたかのように振る舞いながらも、ここにエリーがいることを誰もが知っている。
それが不気味でしかたがなかった。
「知らないのですね。それならば、お嬢様に会う前に顔を洗わせてください。あの方は変化に敏感ですので」
エリーは告げ口をするつもりはなかった。
アデラインの手を煩わせたくなかった。
それだけの思いがドロシーの感情を逆なでするとは思ってもいなかった。
「庇うつもり!?」
ドロシーは感情のままに口をする。
拘束すらもされていなかったエリーは遠慮なく立ち上がり、案内をすると告げただけで様子を見ているベラに対し、視線を向けていた。
「アタシのことを見下しているんでしょう!?」
ドロシーの悲痛な叫びに対し、エリーは視線をドロシーに向けた。
「どうして、アタシじゃないの! この女の代わりに選ばれるのはアタシのはずでしょう!?」
ドロシーはエリーに視線を向けられていることに気づかない。
周囲の様子を伺うこともしない。
扉の前で指示を出していただけのメイド長に対し、ドロシーは必死に訴えた。その姿は成人を迎えた女性のものとは思えない。手に入れたいものを与えられなかったことに対し、癇癪を起して、必死に訴える子どものようだった。
「……ベラ」
メイド長はドロシーの名を呼ばない。
「エリーさんを連れて行きなさい」
「はい。メイド長。……エリーさん、ご案内します」
ベラはメイド長の指示に従う。
エリーに背を向け、歩き始めたベラに対し、エリーは戸惑いを隠せないまま、着いて行くしかなかった。
「どうしてアタシの仕事を奪うのよ!」
ドロシーは嘆く。
その言葉に応える者はいない。
ベラとエリーが去っていた部屋に取り残されたドロシーは、自身の顔を両手で覆い隠すようにしながら、涙を流していた。
なにもかも上手くいかない。
それが悔しくてしかたがなかった。
「ドロシー」
部屋に残っていたメイド長はドロシーの名を呼んだ。
それはドロシーに対し、同情をしているわけではない。冷たい声だった。
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