02-5.

「貴方は、婚約者がいらっしゃるでしょう」


 アデラインは涙を拭う。


 触れただけの唇が熱を持つ。それは不快ではなかった。


「貴方が女性嫌いなのは知っております。ですが、なにも、私を選ぶことはないでしょう。男性がよろしいのならば、どうぞ、私以外の方をお選びください」


 アデラインはメルヴィンの体を押しのけるように、両手で彼の肩を押す。


 距離が近いとは思っていた。


 ……酷い裏切りを受けた気分ですわ。


 それなのに抱いてしまっている淡い恋心は色褪せてくれない。


「なぜ、そんなことを考える?」


「当然のことでしょう。貴方の婚約者がどのような方なのか、知っているからこそ、私は選ばれるわけにはいかないのです」


 アデラインの言葉はメルヴィンには届かない。


 それならば、補佐役のアディとして必死に訴えるしかない。


「……そうか」


 メルヴィンは諦めたのだろうか。

 数歩、後ろに下がる。


「君はダイヤモンドリリーを知っているか?」


 メルヴィンの問いかけに対し、アデラインは視線を動かした。


 ……どうして。


 ダイヤモンドリリーは花弁が宝石のように輝く白や赤の花だ。年間気温の低い王国では自生することはなく、市場に出回ることも少ない。


 ……あの日のことを、覚えているのですか?


 問いかけたい気持ちを抑え込む。


 露骨に黙ってしまったアデラインの様子からメルヴィンは察しているだろう。それでも、それを言葉にすることができない事情があることにも気づいているはずだ。


「問いかけに答えないか」


 メルヴィンは追及するつもりはないのだろうか。


 あいかわらず、機嫌の悪そうな声をしていた。


「俺が一方的に話してやろう」


 メルヴィンは距離をとったものの、引き下がるつもりはなかった。


 諦めたように見せかけたのは、距離を縮めればアデラインに拒絶されると考えたのかもしれない。


「十六年前、健国祭に参加をしたことがある。市民の祭りに参加するのは大公領では当然のことだったからな。王都の祭りにも興味があったんだ」


 宣言通り、メルヴィンは一方的に語り始める。


 それは十六年前の建国祭の出来事だ。


 ……覚えていらっしゃったのに?


 胸が締め付けられるような苦しさを感じる。


 アデラインの初恋の思いでは、メルヴィンにとっては些細な出来事でしかなかったのだと考えるようにしていた。


 そうしなければ、心が壊れてしまいそうだった。


 ……それなのに、私だと気づいてもくれないのですね。


 この場から逃げ出すことができたのならば、どれほどに良かっただろうか。


 メルヴィンの語る思い出話は綺麗なものだ。


 それを語られる相手が男装をした自分ではなく、アデラインとしての自分だったのならば、どれほどに心の靄が晴れたことだろうか。


 涙は引っ込んだ。


 泣くことさえもできない心が壊れそうなほどに痛いのは、恋の代償だろうか。


「俺と同じように市民の祭りに興味を持った子がいたんだ。どこかの箱入り娘だったのだろう。袋いっぱいの小銭を首から下げて、両手に祭りの食べ物や菓子を持って歩く姿はかわいいものだった」


 メルヴィンはアデラインの変化に気づいている。


 関係のない思い出話を一方的に聞かされているかのように装っているものの、逃げ場を探している姿は、猛獣に狙われた小動物のようなものだった。


 ……どうしましょう。


 逃げ場はない。


 それなのに、メルヴィンは追い詰めるように話を続ける。


 ……なんだか、苦しくなってきましたわ。


 メルヴィンの語る思い出話が耳障りなわけではない。


 僅かな変化だった。胸が締め付けられ、呼吸がしにくい。失神をするほどではないが、視界が揺れ始め、めまいの症状も出始めた。


 それは今朝、エリーに再三言われていたことだった。


 男装がばれないように念入りにしてきたのが災いしたのだ。


 胸を圧迫するだけではなく、胃なども圧迫するかのようにきつく締められたコルセットたちが原因だ。


「だが、どこにでも悪いやつはいるものでな。案の定、その子は悪いやつに連れて行かれそうになった。それを食い止めたのが俺なんだが――」


 メルヴィンは話を途中で止めた。


 アデラインの様子がおかしいことに気づいたのだ。


「アディ? どうした。顔色がおかしいぞ」


 メルヴィンの語る思い出は悪いものではない。


 思い出したくもない記憶を語られ、気分が悪くなったわけではない。

 アデラインは上手く呼吸ができなくなっていた。


「これは化粧の粉か? なぜ、そんなものを」


 メルヴィンは冷や汗が止まらないアデラインの額を指で拭い、指についた粉末に違和感を抱く。


 男性が化粧をしているはずがない。


 化粧をするのは女性である。


 メルヴィンの凝り固まった考えが、アデラインの秘密を暴くきっかけになるとは想定外だった。


「ひとまず、医務室へ」


 メルヴィンは緊急事態だと判断をした。


 アデラインの体を横抱きにて、医務室へと連れて行こうとする。


「やめ、て、くだ、さい」


 息が途切れ途切れになりながらも、アデラインは抵抗を見せた。


 メルヴィンの服を掴む。その力は第一騎士団を誇る怪力の持ち主と呼ばれるアデラインとは思えないほどに、か弱いものだった。


「すぐに、よく、な……」


 良くなるから問題はない。と、言い切る前にアデラインの意識は喪失する。


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